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つながりの強いひと
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藤原頼通
親 父
平安時代の公卿。藤原北家、太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣・准三宮。幼名は田鶴。通称宇治殿。法名は蓮花覚、後に寂覚。父道... |
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隆姫女王
隆姫女王(たかひめじょおう、長徳元年(995年)-寛治元年11月22日(1087年12月19日))は村上天皇第7皇子・具平親王の長女。母は為平親王の次女。後に藤原頼... |
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那須与一
平安時代末期の武将。系図上は那須氏2代当主と伝えられる。父は那須資隆(太郎)。妻は新田義重の娘。一般的には本名は宗隆(『平家物語』では宗高)と紹介さ... |
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重森三玲
昭和期の日本の作庭家・日本庭園史の研究家。 |
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橘為仲
平安時代後期の公家・歌人。筑前守・橘義通の子。官位は正四位下・太皇太后宮亮。 |
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源経信
平安時代後期の公家・歌人。宇多源氏、権中納言・源道方の六男。官位は正二位・大納言。桂大納言と号す。 |
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源俊頼
平安時代後期の官人・歌人。宇多源氏。大納言・源経信の三男。官位は従四位上・木工頭。 |
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藤原師通
藤原師通(ふじわらのもろみち、康平5年9月11日(1062年10月16日)-承徳3年6月28日(1099年7月18日))は院政期の公卿で藤原氏長者。従一位・関白・内大臣。... |
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源隆国
妻 親
平安時代後期の公卿。醍醐源氏、大納言源俊賢の子。幼名は宗国。官位は正二位権大納言。宇治大納言と称された。長和4年(1014年)に従五位下となり、以後侍従... |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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藤原頼宗
藤原頼宗(ふじわらのよりむね、正暦4年(993年)-康平8年2月3日(1065年3月12日))は平安時代中期から後期にかけての公卿。藤原北家、摂政太政大臣・藤原道... |
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後冷泉天皇
日本の第70代天皇(在位:1045年-1068年)。父後朱雀天皇。母藤原道長女藤原嬉子。諱を親仁(ちかひと)という。紫式部の娘大弐三位が乳母である。 |
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藤原良経
藤原良経 【フジワラノヨシツネ】 3件の用語解説(藤原良経で検索) Tweet デジタル大辞泉 の解説 ふじわら‐の‐よしつね〔ふぢはら‐〕【藤原... |
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鳥羽天皇
鳥羽天皇(とばてんのう、康和5年1月16日(1103年2月24日)-保元元年7月2日(1156年7月20日))は平安時代後期の第74代天皇(在位嘉承2年7月19日(1107年8月9... |
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藤原頼長
平安時代末期の公卿。兄の関白・忠通と対立し、父・忠実の後押しにより藤原氏長者・内覧として旧儀復興・綱紀粛正に取り組んだが、その苛烈で妥協を知らない... |
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藤原道長
藤原道長(ふじわらのみちなが)は平安時代中期の公卿。従一位・摂政・太政大臣・准三后。京都生まれ。藤原兼家の五男(四男という説もある)で、母は摂津守... |
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小川治兵衛
近代日本庭園の先駆者とされる作庭家、庭師。通称植治(屋号)。 |
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藤原師実
藤原師実(ふじわらのもろざね、長久3年(1042年)-康和3年2月13日(1101年3月14日))は院政期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原頼通の六男。官位は... |
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藤原良房
平安時代初期の公卿。藤原北家・藤原冬嗣の二男。母は藤原美都子。子に明子、養子に藤原基経。染殿、白河殿と称される。漢風諡号は忠仁公、国公は美濃公。皇... |
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白河天皇
第72代天皇(在位:延久4年12月8日(1073年1月18日)-応徳3年11月26日(1087年1月5日))。諱を貞仁(さだひと)という。 |
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プロフィール
橘俊綱(たちばなのとしつな、長元元年(1028年)-寛治8年7月14日(1094年8月27日))は、平安時代後期の官人・歌人。藤原北家、摂政関白太政大臣・ 藤原頼通の次男。讃岐守・橘俊遠の養子。官位は正四位上・修理大夫。伏見修理大夫と号す。
経歴
| 摂政・関白を務めた藤原頼通の次男として生まれるが、頼通の正室・隆姫女王の嫉妬心のために『愚管抄』、橘俊遠の養子とされる。 |
| 『今鏡』によると、俊綱の母・祇子は俊綱を懐妊したのちに橘俊遠の妻となったが、懐妊がはっきりしない頃であったため、俊綱をそのまま俊遠の子としたともいう『今鏡』藤波の上,伏見の雪のあした。 |
| 実際には、以降も祇子は頼通の子を儲けていることから、隆姫への配慮のために、懐妊した祇子と俊遠を形式的に夫婦としたとも考えられる竹鼻績『今鏡(中)』講談社学術文庫、1984年、59頁。 |
| 摂関家の子弟にもかかわらず、尾張守・丹波守・播磨守・讃岐守・近江守・但馬守と地方官を歴任し、位階は正四位上にとどまった。 |
人物
| 造園に造詣が深く「水石得風骨」(『尊卑分脈』)、日本最古の庭園書である『作庭記』の著者の有力候補とされる。 |
| 伏見の別邸は俊綱自ら造園を行い、「風流勝他、水石幽奇也」(『中右記』)と賞賛された。 |
| 『今鏡』において、弟の藤原師実が伏見の別邸を突然訪ねるも俊綱が豪奢にもてなした話や、俊綱が白河院に対して、院が造営した鳥羽殿より伏見の別邸の方が優れていると問答をしたとの話が語られている。 |
| 歌人としても活躍し、特に伏見の別邸は「伏見にては、時の歌詠みども集へて、和歌の会絶ゆるよなかりけり。 |
| 」(『今鏡』140段)とあり、伏見の別邸で頻繁に歌会が開催されたていたことが窺われる。 |
| 『後拾遺和歌集』(4首)以下の勅撰和歌集に13首が入集『勅撰作者部類』。 |
| 笙・琵琶など音楽にも優れていたという。 |
説話
| 『宇治拾遺物語』には、俊綱は昔尾張国の「俊綱」(すんごう)と言う僧侶であった時、熱田神宮の大宮司に侮辱を受けたが、のちに関白の息子として生まれ変わり尾張守となって、今度は熱田神宮の大宮司にかつての雪辱をした、との説話がある『宝物集』、『今鏡』にも同様の説話があるが、侮辱の内容や雪辱の方法にそれぞれ差異がある。 |
| 『十訓抄』等にも、俊綱に関する説話がある。 |
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橘俊綱さんについてのひとこと紹介
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