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継体天皇
父
継体天皇(けいたいてんのう、允恭天皇39年(450年)?-継体天皇25年2月7日(531年3月10日))は日本の第26代天皇。在位は継体天皇元年2月4日(507年3月3日)-... |
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百済
古代の朝鮮半島南西部にあったツングース系扶余族による国家(346年-660年)。朝鮮史の枠組みでは、半島北部から満州地方にかけての高句麗、半島南東部の新羅... |
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宣化天皇
第28代天皇(在位:宣化天皇元年12月18日(536年1月26日)-宣化天皇4年2月10日(539年3月15日))。 |
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敏達天皇
第30代天皇(在位:敏達天皇元年4月3日(572年4月30日)-同14年8月15日(585年9月14日))。和風諡号は渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと、『... |
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推古天皇
第33代天皇(在位:崇峻天皇5年12月8日(593年1月15日)-推古天皇36年3月7日(628年4月15日)36年、『古事記』では37年)。日本初の女帝であると同時に、東ア... |
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吉備姫王
日本の皇族(王族)。吉備島皇祖母命と尊称を受ける。桜井皇子(欽明天皇の皇子)の娘。茅渟王(押坂彦人大兄皇子の子)の妃となり、宝皇女(皇極天皇=斉明... |
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用明天皇
第31代天皇(在位:敏達天皇14年9月5日(585年10月3日)-用明天皇2年4月9日(587年5月21日))。 |
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安閑天皇
第27代天皇(在位:継体天皇25年2月7日(531年3月10日)-安閑天皇4年(535年)12月17日)。 |
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応神天皇
第15代天皇(在位:応神天皇元年1月1日(270年2月8日)-同41年2月15日(310年3月31日))。諱は誉田別尊(ほむたわけのみこと)、大鞆和気命(おおともわけの... |
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蘇我稲目
蘇我稲目(そがのいなめ、武烈天皇8年(506年)頃-欽明天皇32年3月1日(570年3月22日))は飛鳥時代の大臣。蘇我高麗の子、蘇我馬子ら4男3女の父。娘3人を天... |
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持統天皇
日本の第41代天皇。実際に治世を遂行した女帝である(称制:朱鳥元年9月9日(686年10月1日)、在位:持統天皇4年1月1日(690年2月14日)-持統天皇11年8月1日... |
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崇峻天皇
第32代天皇(在位:用明天皇2年8月2日(587年9月9日)-崇峻天皇5年11月3日(592年12月12日))。諱は泊瀬部皇子(はつせべのみこ)。『古事記』には長谷部若... |
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仁賢天皇
古墳時代の第24代天皇(在位:仁賢天皇元年1月5日(488年2月4日)-同11年8月8日(498年9月9日))。名は億計天皇(おけのすめらみこと)・大石尊(おおしのみ... |
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手白香皇女
手白香皇女(たしらかのひめみこ)は 古墳時代 の皇族で 継体天皇 の 皇后 。 仁賢天皇 の皇女で母は 雄略天皇 の皇女である 春日大娘皇女 。同母兄(弟とも)... |
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穴穂部皇子
飛鳥時代の皇族。欽明天皇の皇子、母は蘇我稲目の娘小姉君。敏達天皇の弟。皇位を望み、物部守屋と結託したが、蘇我馬子に殺された。 |
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蘇我小姉君
蘇我小姉君(そがのおあねのきみ、生没年不詳)は蘇我稲目の娘で姉妹に蘇我堅塩媛、兄弟に蘇我馬子がいる。欽明天皇の妃となり、茨城皇子、葛城皇子、穴穂部... |
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蘇我馬子
飛鳥時代の政治家、貴族。「馬子」であるが男性である(当時は「子」が男女問わずに用いられた)。邸宅に島を浮かべた池があったことから嶋大臣とも呼ばれた... |
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元興
東晋、安帝司馬徳宗の治世に行われた2番目の年号。402年-404年。元興元年は3月に一旦、隆安6年に戻された上で大亨元年とされた。後に再び元興に戻された。『... |
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孝徳天皇
日本の第36代天皇(在位:孝徳天皇元年6月14日(645年7月12日)-白雉5年10月10日(654年11月24日))。諱は軽(かる)。和風諡号は天万豊日天皇(あめよろず... |
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堅塩媛
堅塩媛 天智紀には塩という人物が遠智娘(持統天皇母)に嫌われて、 「堅塩」と呼ばれることになったことが描かれています。 さて、堅塩媛ー。 欽明妃で用明... |
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プロフィール
- 欽明天皇とは
- 和風諡号
- 系譜
- 即位
- 大臣・大連
- 任那
- 即位年をめぐる議論
- 仏教公伝
- 皇居
- 御陵
- 異説
- 在位年と西暦との対照表
- 参考文献
- 関連項目
欽明天皇(きんめいてんのう、 継体天皇3年(509年)- 欽明天皇32年4月15日(571年5月24日))は、第29代天皇(在位: 宣化天皇4年12月5日(539年12月30日)- 欽明天皇32年(571年)4月15日)。和風諡号は天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)。別名、志帰嶋天皇・斯帰斯麻天皇(いずれも「しきしまのすめらみこと」と呼ぶ)。この代に、百済より仏教が公伝し、任那が滅亡した。
和風諡号
| 天国押波流岐広庭天皇(あめくにおしはるきひろにわのすめらみこと)-『古事記』。 |
| 天国排開広庭天皇(あめくにおしはらきひろにわのすめらみこと)-『日本書紀』。 |
| 阿米久爾意斯波留支比里爾波乃弥己等(あめくにおしはるきひろにわのみこと)-『天寿国繍帳』。 |
| 天國案春岐廣庭天皇-『元興寺伽藍縁起』。 |
系譜
| 継体天皇の嫡子で、母は手白香皇女たしらかのひめみこ。 |
| 仁賢天皇の皇女、雄略天皇の孫娘。 |
| 皇后:石姫皇女いしひめのひめみこ。 |
| 宣化天皇の皇女。 |
| 箭田珠勝大兄皇子(やたのたまかつのおおえのみこ、八田王)。 |
| 渟中倉太珠敷尊(ぬなくらのふとたましきのみこと、敏達天皇)。 |
| 笠縫皇女(かさぬいのひめみこ、狭田毛皇女)。 |
| 妃:稚綾姫皇女わかやひめのひめみこ、『古事記』に小石比賣命。 |
| 宣化天皇の皇女。 |
| 石上皇子(いそのかみのみこ、上王)。 |
| 妃:日影皇女ひかげのひめみこ、『古事記』になし。 |
| 宣化天皇の皇女?。 |
| 倉皇子くらのみこ。 |
| 『古事記』に宗賀之倉王として、母は糠子郎女。 |
| 妃:堅塩媛きたしひめ。 |
| 蘇我稲目宿禰の女。 |
| 大兄皇子(おおえのみこ、用明天皇)。 |
| 磐隈皇女(いわくまのひめみこ、夢皇女) 伊勢斎宮。 |
| 臘嘴鳥皇子(あとりのみこ、足取王)。 |
| 額田部皇女(ぬかたべのひめみこ、推古天皇)。 |
| 椀子皇子(まろこのみこ、麻呂古王)。 |
| 大宅皇女(おおやけのひめみこ)。 |
| 石上部皇子(いそのかみべのみこ、伊美賀古王)。 |
| 山背皇子(やましろのみこ、山代王)。 |
| 大伴皇女(おおとものひめみこ)。 |
| 桜井皇子(さくらいのみこ、桜井之玄王) 吉備姫王の父。 |
| 肩野皇女(かたののひめみこ、麻奴王)。 |
| 橘本稚皇子(たちばなのもとのわかみこ)。 |
| 舎人皇女(とねりのひめみこ、泥杼王) 当麻皇子の妃。 |
| 妃:小姉君おあねのきみ。 |
| 蘇我稲目宿禰の女。 |
| 茨城皇子(うまらきのみこ、馬木王)。 |
| 葛城皇子(かずらきのみこ)。 |
| 穴穂部間人皇女(あなほべのはしひとのひめみこ) 用明天皇の皇后・聖徳太子の母・田目皇子の妃。 |
| 穴穂部皇子(あなほべのみこ、須賣伊呂杼・天香子皇子・住迹皇子)。 |
| (宅部皇子)→宣化天皇の皇子か。 |
| 泊瀬部皇子(はつせべのみこ、長谷部若雀命・崇峻天皇)。 |
| 妃:糠子ぬかこ。 |
| 春日日抓臣の女。 |
| 春日山田皇女(かすがのやまだのひめみこ)。 |
| 橘麻呂皇子(たちばなのまろのみこ、麻呂古王)。 |
大臣・大連
| 大伴金村と物部尾輿を大連(おおむらじ)とし、蘇我稲目宿禰を大臣(おおおみ)としたが、直後の540年(欽明天皇元年)大伴金村は失脚する。 |
| これにより物部氏と蘇我氏の二極体制ができあがるが、特に蘇我氏とは541年(欽明天皇2年)に稲目の娘である堅塩媛や小姉君を妃とし、敏達天皇崩御後、彼女らの間に儲けた橘豊日皇子以降3人の弟・妹が、母親がれっきとした皇族である、甥の押坂彦人大兄皇子を差し置いて約40年大王(天皇)位につき、蘇我氏の全盛期が築かれる(ただ、当時は親子よりも兄弟の継承が一般的であった)。 |
任那
| 百済の聖明王(『三国史記』では聖王、中国の正史では諱を明とすると書かれている)の間とは541年より任那の復興について協議していたが、戦況は百済側に不利であり、552年には平壌と漢城を放棄(『三国史記』によれば538年)、さらに554年(欽明天皇15年)に新羅との戦で、聖明王が亡くなると新羅軍は勢いづき、562年(もしくは560年)に任那を滅ぼしてしまう。 |
| 562年(欽明天皇23年)には、新羅に討伐軍を送るが、敵の罠にかかってしまい退却する。 |
| 『日本書紀』には新羅は白旗を立てて欺いたと書かれている。 |
| 同年の『三国史記』の新羅本紀にも伽耶が反乱を起こしたため、軍隊を送り、白旗を立てて敵を驚かせたという似た記述が見られる。 |
| 同年高句麗にも軍を送っている(『三国史記』では554年に似た記述が存在する)。 |
| なお、任那は一つの国ではなく十国が集まった連合であるという記載が『日本書紀』にある。 |
| ちょうどこのころは、大和朝廷が任那への影響力を失い、新羅が任那を圧迫しており、百済の弱体化もあり、その勢力を維持できず新羅に勢力圏を明け渡した時期とも考えられる。 |
| 欽明天皇は、最後まで任那復興を夢見ながら亡くなったという。 |
| 第一皇子の箭田珠勝大兄皇子はすでに552年に早世していたため、554年に立太子させた渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)が即位した。 |
即位年をめぐる議論
| 前述通り『日本書紀』によれば、欽明天皇は庶兄・宣化天皇が崩御した後即位したとされているが、同書の紀年には幾つかの矛盾が見られ、それを解決するための議論がいくつか提示されてきた。 |
| まず、平子鐸嶺は父の継体天皇の没年を『古事記』の527年(丁未年4月9日)とし、その後2年ずつ安閑・宣化が在位して、『日本書紀』での継体の没年(継体天皇廿五年春二月丁未)にあたる531年に欽明天皇が即位したと主張した。 |
| これにたいして喜田貞吉は欽明の即位年は531年という点では同意するが、彼の即位を認めなかった勢力が3年後の534年に安閑を擁立、彼は1年で崩御したが、続いて宣化を擁立する等欽明朝と安閑・宣化朝は一時並立し、宣化の崩御により解消されたと主張した。 |
| 林屋辰三郎も大筋では喜田説に同意するが、継体は暗殺されたと主張した。 |
| また、水野祐・白崎昭一郎は継体の没年については平子説に同意するが、水野はその後は安閑が8年間在位し、535年に欽明が即位、宣化は架空の人物と見なし、白崎は安閑の在位は4年でその後はさらに4年宣化・欽明両朝が並立したとみなした。 |
| これに対して黒岩重吾は『日本書紀』継体天皇廿五年での『百済本記』引用「百濟本記爲文其文云大歳辛亥三月軍進至于安羅營乞乇城是月高麗弑其王安又聞日本天皇及太子皇子倶崩薨由此而言辛亥之歳當廿五年矣」天皇および太子、皇子が同時に死んだという記述等を根拠にそれぞれ実際には即位していない安閑・宣化は暗殺・軟禁され、大伴金村は任那4県を賄賂と引き換えに割譲したことではなく、彼ら庶兄を推したために後継者争いに敗れて失脚したと主張した。 |
| これらのうち、並立説については史料的根拠に乏しい事等を理由に反対する意見もあるが、もし書紀・水野説以外のいずれかが正しければ、欽明天皇は現在の皇室から少なくとも遡れる継体天皇以降の歴代天皇では昭和天皇・明治天皇に次いで長く在位した事になる。 |
| しかし、いずれも推測の域を出ないのが現状である。 |
| 天皇という称号が初めて使われた天皇が推古天皇または天武天皇で、それ以前は大王が使われていたという説も存在するが、ここでは扱わないこととする。 |
仏教公伝
| 552年(欽明天皇13年)に百済から仏像と経文が伝来する(仏教伝来そのものに関しては、『上宮聖徳法王帝説』(「志癸島天皇御世戊午年十月十二日」)『元興寺伽藍縁起』(天國案春岐廣庭天皇七年歳戊午十二月)を根拠として戊午年・538年とする説が有力である。 |
| 欽明天皇治世(540年-571年)には戊午の干支年が存在しないため、最も近い戊午年である538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力と考えられている。 |
| これによって、廃仏派の物部氏と崇仏派の蘇我氏の間で対立がおこり、物部氏は寺を焼き、仏像を投げ捨てる事までした。 |
| これにより物部氏と蘇我氏の間の確執が始まる。 |
皇居
| 都は磯城島金刺宮(しきしまのかなさしのみや、現在の奈良県桜井市金屋・外山)。 |
| 『古事記』に「師木島大宮」とある『古事記』欽明天皇段には「弟(おと)、天国押波流岐広庭(あめくにおしはるきひろには)天皇、師木島(しきしま)の大宮に坐しまして、天の下治めらしめしき」とある。 |
| 師木島の大宮は、奈良県磯城郡に位置する。 |
| 2010年6月3日に奈良県立橿原考古学研究所が桜井市にある脇本遺跡にて大型建物跡などが出土したと発表。 |
| 6世紀後半から7世紀にかけてのものであるため、欽明天皇の宮殿ではないかと推測されている{{citenews。 |
御陵
| 『古事記』には記載無し。 |
| 『日本書紀』、『延喜式』によれば、檜隈坂合陵(ひのくまのさかあいのみささぎ)に葬られた。 |
| 同陵は奈良県高市郡明日香村平田の梅山古墳(前方後円墳・全長140m)に治定されているが、橿原市の見瀬丸山古墳(五条野丸山古墳)とする説もある。 |
| なお、檜隈坂合陵には後に612年(推古天皇20年)に堅塩媛が改葬されている。 |
異説
| 韓国の言語学者の姜吉云(カン・ギルウン)は、金官伽倻第10代国王の仇衡王(生没年不詳・在位:521年-532年)が倭国に移住後、志帰嶋大王(欽明天皇)として即位したという説を唱えている。 |
| 日本でもドイツ文学者で古代史の愛好家だった鈴木武樹が同様の主張をしていた鈴木武樹『日本古代史99の謎』228頁、及び『古代史の魅惑と危険』155頁・173頁。 |
参考文献
| 『倭の正体』姜吉云、三五館、2010ISBN978-4-88320-465-6。 |
| 『日本古代史99の謎』鈴木武樹、産報出版、1975年。 |
| 『古代史の魅惑と危険』鈴木武樹、亜紀書房、1977年。 |
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2010年
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奈良県立橿原考古学研究所が桜井市にある脇本... |
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