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プロフィール
- 正田耕三とは
- アマチュア時代
- プロ野球選手時代
- 現役引退後
- 打撃
- 練習量
- 高橋慶彦との関係
- 年度別打撃成績
- タイトル
- 表彰
- 記録
- 背番号
- 出演番組
- 関連項目
正田耕三(しょうだこうぞう、1962年1月2日-)は、和歌山県和歌山市出身の元プロ野球選手(内野手)。
アマチュア時代
| 和歌山市の和歌山市駅近くにある蕎麦屋Number、1998年8月13日号、P.113の長男として生まれる。 |
| 小学校3年生で野球を始め、城東中学では学童野球で全国優勝を経験した。 |
| なお旧名は「耕造」だったが、中学時代に自宅の階段から落ちて足を骨折したのを機に改名した月刊THECARP。 |
| 市和歌山商高では石井毅と嶋田宗彦のバッテリーを擁する箕島高校の存在もあり、甲子園出場はならなかった。 |
| 高校卒業後は新日鉄広畑へ進み、にはロス五輪代表として二塁を守り、主に一番打者を務めて15打数6安打の成績で金メダル獲得に貢献した。 |
| 監督の松永怜一からはプレーとともにリーダーシップを賞賛されている。 |
| オリンピック後、同年のドラフト会議で広島東洋カープから2位で指名された。 |
| 正田自身は少年時代から熱狂的な阪神タイガースファンであり、かつ事前の打診なく指名したことから入団が危ぶまれたが、「自分は阪神ファンだが、プロであるからこれからは広島に野球をしにいく」と語りカープに入団後藤正治『スカウト』。 |
| アマの最高峰でプレーした事でさらに一段階上のレベルに挑戦したくなり、もし芽が出なければ3年で辞めて家業の蕎麦屋を継ぐつもりだったという週刊ベースボール、1998年12月21日、P.12。 |
プロ野球選手時代
| プロ1年目の途中でスピードについて行けなくなり、監督の古葉竹識の勧めで秋からスイッチヒッター転向に挑戦した。 |
| 睡眠と食事以外の時間はバットを常に握っていたという程の猛練習を積み、打撃コーチの内田順三も年間350日は朝から晩まで顔を合わせて指導した週刊ベースボール、1999年7月19日、P.18。 |
| 翌は規定打席には達しないものの90試合に出場し、打率も.288に上昇している。 |
| チームはリーグ優勝を果たし、正田は初めて野球をやってて良かったと感じたが週刊ベースボール、1998年12月21日、P.14、レギュラー定着を目指してオフのハワイへの優勝旅行にもバット2本を持参して練習を重ねた週刊ベースボール、1999年7月19日、P.19。 |
| 実家の蕎麦屋では「正田が本塁打を打つと蕎麦を半額にします」との張り紙がプロ入り後の2年間出されていたが、実施されたのはわずか1度だけであった。 |
現役引退後
| 近鉄球団が解散した後のまでは岡田彰布の下で阪神タイガース一軍打撃コーチを務め、2005年のリーグ優勝に貢献した。 |
| しかし2007年はチーム打率がリーグ最下位となって3位に終わり、責任を取る形でこの年限りで辞任した。 |
| にはデイリースポーツの野球評論家およびサンテレビの解説者に就任。 |
| 同年秋には韓国プロ野球SKワイバーンズの秋季キャンプに臨時コーチとして参加し、翌にワイバーンズの二軍総合コーチに就任した。 |
| 同年7月、打線不振による配置転換で伊勢孝夫に代わって一軍打撃コーチに昇格し、シーズン終了まで務めた。 |
打撃
| 社会人時代は金属バットを使っていたため、左脇が開く癖があった。 |
| プロ1年目でスイッチヒッターの練習を始めた際、カープには高橋慶彦や山崎隆造など既にスイッチ転向に成功した選手がいたが、コーチの内田順三からの「真似が通用するほどプロは甘くないので自分のスタイルを樹立しろ」という助言に従っている。 |
| また、内田コーチの指示で1200グラムもある重いすりこぎ型のバットを使い、最短距離でバットをボールにぶつけるスイングを身に付けた。 |
| 右打席でも練習を重ね、同様のスイングを身につけたという。 |
| 若い頃から俊足を活かすゴロ打ちのスイングを磨いたことは、豊田泰光に高く評価されている週刊ベースボール、1998年10月19日、P.36。 |
| 右打席のみだったはケガもあって打率が.257と低く、正田自身はスイッチに転向しなければその程度が限界だったかも、と語っている。 |
| 左打席では一塁までの距離が2歩は短くなったといい、初めて首位打者となったには33本の内野安打を記録した週刊ベースボール、1988年6月13日、P.84。 |
| またその内バントヒットは15本に上り、バントの際のタイミングとポイントの良さが周囲に評価されている。 |
| セーフティーバントを意識させることで相手守備が浅くなり、ヒットゾーンが広がる効果もあったという週刊ベースボール、1988年6月13日、P.85。 |
| 左打ちを身につけるまでには苦労が多く、一時は転向をあきらめようかと感じたが、内田にすさまじい形相で一喝されて再び練習に取り組んだ週刊ベースボール、1989年10月16日、P.125。 |
| 篠塚利夫の広角打法には憧れを感じていたが、篠塚が二塁走者となった際に緩い球の打ち方を尋ねて「自分も力を抜いて打てばいい」という返答を聞き、真似ができないと感じたという。 |
| なお、は1年ぶりにスイッチに復帰したが、体がスイングを覚えていてブランクを感じなかった。 |
| 手首の負担軽減のため、同年からはバットを軽量の880グラムに変えている。 |
練習量
| 高橋慶彦とともにカープの中でも屈指の猛練習をする事で知られ、のキャンプでは高橋が2万本の素振りを行えば正田は4万本をこなした、といわれる。 |
| また、シーズン中も広島でのナイター終了後には西区三篠町の合宿所練習場、または大野町の屋内練習所のいずれかでピッチングマシン相手の打撃練習を毎日深夜に行なっていた。 |
| の湯布院での自主トレ終了後には、200折の温泉饅頭を持ってそれぞれの練習場の近所の家を回って騒音を詫びたという越智正典『二番打者物語』ダイヤモンド社、1995年、P.20。 |
| 1988年のオールスターゲーム出場が決まった際にはその間の練習時間が減ることを心配するほどで、一時はコーチから練習を止められることもあった。 |
| 首位打者を獲得してからも左打ちを磨くためビジターでも午前中に打ち込んでから球場入りし、ホームではさらに球場での早出特打を行っていた。 |
| 素質を補うために練習を重ねたといい、現役晩年のでも球界屈指の練習量で知られた金本知憲や緒方孝市に負けない数のスイングをこなしたという週刊ベースボール、1996年12月23日、P.56。 |
高橋慶彦との関係
| 高橋慶彦は「試合に出るならケガのことは絶対に口にするな」という衣笠祥雄の教えを固く守っており、5月に正田が右肩の故障をおして出場している事が新聞記事になった際、対戦相手の投手を利すると考えて苦言を呈した海老沢泰久『ヴェテラン』、文春文庫、P.261。 |
| 一方、正田はケガ自体は他人に話しても痛みなどを訴えることはなく週刊ベースボール、1988年9月12日、P.118、高橋の説明不足もあって正田はこれに反発して口を利かなくなり、数日後の神宮球場での練習中に高橋がいきなり正田の尻を蹴ってつかみ合い寸前の騒ぎとなっている海老沢泰久『ヴェテラン』、文春文庫、P.262。 |
| これはスポーツ紙などでも報じられ、高橋がロッテにトレードされる遠因にもなった。 |
| また高橋からは打撃・走塁など多くのことを学んだが、二遊間のランダウンプレイを巡って試合中に高橋と口論することも度々あった。 |
タイトル
| 首位打者:2回(1987年、1988年)。 |
| 盗塁王:1回(1989年)。 |
表彰
| ベストナイン:2回(1988年、1989年)。 |
| ゴールデングラブ賞:5回(1987年-1991年)。 |
| 月間MVP:1回(1993年4月)。 |
| オールスターゲームMVP:1回(1988年第3戦)。 |
記録
| 初出場:1985年5月22日、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子園球場)、9回に代打で出場し、山本和行の前に三振。 |
| 初安打:1985年5月26日、対読売ジャイアンツ6回戦(広島市民球場)。 |
| 初本塁打:1986年5月22日、対中日ドラゴンズ7回戦(石川県立野球場)、1回に杉本正から左越満塁本塁打。 |
| 1000本安打:1994年4月10日、対読売ジャイアンツ戦(東京ドーム)。 |
| 1000試合出場:1994年5月22日、対横浜ベイスターズ戦(福井県営球場)※史上318人目。 |
| 250犠打:1997年5月30日、対横浜ベイスターズ戦(広島市民球場)。 |
| 1500試合出場:1998年6月17日、対ヤクルトスワローズ戦(明治神宮野球場)。 |
| 1500本安打:1998年7月10日、対ヤクルトスワローズ戦(広島市民球場)。 |
| オールスターゲーム出場:5回(1987年-1990年、1993年)。 |
| 1試合6盗塁(プロ野球タイ記録):1989年10月15日、対中日ドラゴンズ戦(広島市民球場)。 |
背番号
| 4(1985年-1998年)。 |
| 78(1999年-2004年)。 |
| 87(2005年-2007年、2010年-2011年)。 |
| 88(2009年)。 |
関連項目
| 和歌山県出身の人物一覧。 |
| 広島県スポーツ振興チャリティゴルフ大会。 |
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1962年
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正田 耕三(しょうだ こうぞう)は、和歌山県... |
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1985年
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初出場:、対阪神タイガース6回戦(阪神甲子... |
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投票数
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