| 1930年10月8日に東京本郷区で生まれ、生後1ヶ月で、父の勤務先である満洲の大連に渡る。 |
| 1937年、小学校入学のために単身帰国し、東京市本郷区の富士前小学校に入学武満浅香『作曲家・武満徹との日々を語る』(小学館、2006年)のなかに、編集部が武満の小学生時代の同級生から得た証言として、武満が小学生のときに音楽教師から目をかけられ、放課後にピアノを習っていたというエピソードなどが掲載されている(p244-246)。 |
| この経験が後に独学で作曲やピアノに取り組む下地になっていたことが推察される。 |
| 、7年間にわたって叔父の家に寄留する。 |
| 叔母は生田流箏曲の師匠であり、初期の習作的な作品『二つの小品』(1949年、未完)には箏の奏法の影響が見られる楢崎洋子『武満徹』音楽之友社、2005年、12頁ただし、後年の武満は箏をあまり好まなかった(楢崎、2005年、12頁)。 |
| 1943年、旧制の私立京華中学校に入学するが、在学中の1945年に埼玉県の陸軍食糧基地に勤労動員される。 |
| 軍の宿舎において、同室の下士官が隠れて聞いていたフランスは当時の日本の敵国であったため。 |
| リュシエンヌ・ボワイエが歌うシャンソン『聴かせてよ、愛のことばを』(''Parlez-moid'amour'')何らかの原因でジョセフィン・ベーカーだと思いこみ、長らくそう記していた。 |
| 立花隆に指摘されて以来一時期は訂正していたものの、「客観的事実より、自分の記憶の中の事実を大切にしたい」として、ベーカーに戻している(立花隆「音楽創造への旅」『武満徹全集第2巻』小学館、2003年)。 |
| を耳にして衝撃を受ける。 |
| 現代音楽の研究者である楢崎洋子は、後年の『鳥は星型の庭に降りる』、『遠い呼び声の彼方へ!』など、いくつかの作品モチーフに、このシャンソンの旋律線との類似点があることを指摘している楢崎、2005年、19頁。 |
| 終戦後に進駐軍のラジオ放送を通して、フランクやドビュッシーなど、近代フランスの作曲家の作品に親しむ一方で、横浜のアメリカ軍キャンプで働きジャズに接した。 |
| やがて音楽家になる決意を固め、清瀬保二に作曲を師事するが、ほとんど独学であった。 |
| 京華高等学校卒業後、1949年に東京音楽学校(この年の5月から東京芸術大学)作曲科を受験するが、自分に合わないと感じたためか、二日目の試験を欠席する楢崎洋子『武満徹』音楽之友社、2005年、ISBN-4276221943、21頁。 |
| この時期の作品としては清瀬保二に献呈された『ロマンス』(1949年、作曲者死後の1998年に初演)のほか、遺品から発見された『二つのメロディ』(1948年、第1曲のみ完成)などのピアノ曲が存在する楢崎、2005年、8-13頁。 |
| 無名時代、ピアノを買う金がなく、町を歩いていてピアノの音が聞こえると、そこへ出向いてピアノを弾かせてもらっていたという芥川也寸志を介してそれを知った黛敏郎は武満と面識はなかったにもかかわらず自分のピアノを貸し与えた。 |
| 1950年に、作曲の師である清瀬保二らが開催した「新作曲派協会」第7回作品発表会において、ピアノ曲『2つのレント』を発表して作曲家デビューするが、当時の音楽評論家の山根銀二に「音楽以前である」と新聞紙上で酷評された『東京新聞』1950年12月12日付。 |
| 傷ついた武満は映画館の暗闇の中で泣いていたという。 |
| 2つのレントを一言で一蹴した山根ではあったが、必ずしも武満の創作を否定的に見ていなかったようで、例えば初演当初あまり評判が芳しくなかった『弦楽のためのレクイエム』については「外見がまずく評判が悪いかもしれないが自分は理解できる気がする」等と論評を書いている。 |
| (武満浅香『作曲家・武満徹との日々を語る』小学館、2006年、p46-47)。 |
| この頃、詩人の瀧口修造と知り合い、『2つのレント』の次作となるヴァイオリンとピアノのための作品『妖精の距離』(1951年)のタイトルを彼の同名の詩からとった。 |
| 同年、瀧口の下に多方面の芸術家が参集して結成された芸術集団「実験工房」の結成メンバーとして、作曲家の湯浅譲二らとともに参加、バレエ『生きる悦び』で音楽(鈴木博義と共作)と指揮を担当したほか、ピアノ曲『遮られない休息I』(1952年)などの作品を発表した。 |
| この最初期の作風はメシアンとベルクに強い影響を受けている。 |
| 「実験工房」内での同人活動として、上述の湯浅譲二や鈴木博義、佐藤慶次郎、福島和夫、ピアニストの園田高弘らと共に、メシアンの研究と電子音楽広義の意。 |
| 主にテープ音楽を手がけた。 |
| また武満はテープ音楽(ミュジーク・コンクレート)として、『ヴォーカリズムA.I』(1956年)、『木・空・鳥』(同年)などを製作し、これらを通して音楽を楽音のみならず具体音からなる要素として捉える意識を身につけていった。 |
| 「実験工房」に参加した頃より、映画、舞台、ラジオ、テレビなど幅広いジャンルにおいて創作活動を開始。 |
| 映画『北斎』の音楽(1952年、映画自体が制作中止となる)、日活映画『狂った果実』の音楽(1956年、佐藤勝との共作)、橘バレエ団のためのバレエ音楽『銀河鉄道の旅』(1953年)、劇団文学座のための劇音楽『夏と煙』(1954年)、劇団四季のための『野性の女』(1955年)、森永チョコレートのコマーシャル(1954年)などを手がけた。 |
| これらの作品のいくつかには、ミュジーク・コンクレートの手法が生かされているほか、実験的な楽器の組み合わせが試みられている。 |
| また作風においても、前衛的な手法から、ポップなもの、後に『うた』としてシリーズ化される『さようなら』(1954年)、『うたうだけ』(1958年)のような分かりやすいものまで幅が広がっている。 |
| また、1953年には北海道美幌町に疎開していた音楽評論家の藁科雅美毎日放送の音楽ディレクター、訳書『バーンスタイン物語』が病状悪化の早坂文雄を介して委嘱した「美幌町町歌」を作曲している。 |
| この間、私生活においては1954年に若山浅香と結婚した。 |
| 病に苦しんでいた武満夫妻に團伊玖磨は鎌倉市の自宅を提供して横須賀市に移住した。 |
| 1957年、『弦楽のためのレクイエム』を創作。 |
| 日本の作曲家はこの作品を黙殺したが、この作品のテープを、1959年に来日していたストラヴィンスキーが偶然NHKで聴き、絶賛し、後の世界的評価の契機となるストラヴィンスキーは「厳しい、実に厳しい。 |
| このような曲をあんな小柄な男が書くとは…」と称賛したといわれる(『最新名曲解説全集7(管弦楽曲IV)』音楽之友社、458頁。 |
| 秋山邦晴執筆。 |
| 1958年に行われた「20世紀音楽研究所」(吉田秀和所長、柴田南雄、入野義朗、諸井誠らのグループ)の作曲コンクールにおいて8つの弦楽器のための『ソン・カリグラフィI』(1958年)が入賞したことがきっかけとなり、1959年に同研究所に参加。 |
| 2本のフルートのための『マスク』(1959年)、オーケストラのための『リング』(1961年)などを発表する。 |
| 大阪御堂会館で行われた『リング』の初演で指揮を務めた小澤征爾とは、以後生涯にわたって親しく付き合うことになる楢崎、2005年、84頁。 |
| この時期の作品では、ほかに日本フィルハーモニー交響楽団からの委嘱作品『樹の曲』(1961年、「日フィルシリーズ」第6回委嘱作品)、NHK交響楽団からの委嘱作品『テクスチュアズ』(1964年、東京オリンピック芸術展示公演)などがある。 |
| 1960年代には小林正樹監督の『切腹』(1962年、第17回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、羽仁進監督の『不良少年』(1961年、第16回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、勅使河原宏監督の『砂の女』(1964年、第19回毎日映画コンクール音楽賞受賞)、『他人の顔』(1966年、第21回毎日映画コンクール音楽賞受賞)などの映画音楽を手がけ、いずれも高い評価を得ている。 |
| 武満自身は、若い頃から映画を深く愛し、年間に数百本の映画を新たに見ることもあった。 |
| スペインの映画監督ヴィクトル・エリセの映画エル・スールを父親の視点から絶賛しているほか、ロシア(ソ連)の映画監督アンドレイ・タルコフスキーに深く傾倒し、タルコフスキーが1987年に他界すると、その死を悼んで弦楽合奏曲『ノスタルジア』を作曲している。 |
| 1962年にNHK教育テレビ『日本の文様』のために作曲した音楽は、ミュジーク・コンクレートの手法で変調された筑前琵琶と箏の音を使用しており、武満にとっては伝統的な邦楽器を使用した初の作品となった。 |
| その後、前述の映画『切腹』では筑前琵琶と薩摩琵琶が西洋の弦楽器とともに使用され、1964年の映画『暗殺』(監督:篠田正浩)、『怪談』(監督:小林正樹)では琵琶と尺八が、1965年の映画『四谷怪談』(監督:豊田四郎)では竜笛、同年のテレビドラマ『源氏物語』(毎日放送)では十七弦箏とともに鉦鼓、鞨鼓など、雅楽の楽器も使用されたこの頃の作品、クーセヴィツキー財団からの委嘱によって作曲された弦楽合奏のための『地平線のドーリア』(1966年)は、邦楽器は一切使用していないものの、雅楽での音の動きが反映されている(楢崎、2005年、84)。 |
| 1966年のNHK大河ドラマ『源義経』の音楽においては邦楽器はオーケストラと組み合わされている。 |
| これらの映画や映像のための音楽での試行実験を踏まえ、純音楽においても邦楽器による作品を手がけるようになった。 |
| その最初の作品である『エクリプス』(1966年)は琵琶と尺八という、伝統的な邦楽ではありえない楽器の組み合わせによる二重奏曲である。 |
| この『エクリプス』はアメリカで活動中の小澤征爾を通じてニューヨーク・フィル音楽監督レナード・バーンスタインに伝えられ、このことから、同団の125周年記念の作品が委嘱されることとなった。 |
| こうしてできあがった曲が、琵琶と尺八とオーケストラによる『ノヴェンバー・ステップス』(1967年)である。 |
| この作品を契機として武満作品はアメリカ・カナダを中心に海外で多く取り上げられるようになった楢崎、2005年、101頁。 |
| 1970年には、日本万国博覧会で鉄鋼館の音楽監督を務め、このための作品として『クロッシング』、『四季』(初の打楽器アンサンブルのための作品)、テープ音楽"YearsofEar"を作曲、翌1971年には札幌オリンピックのためにIOCからの委嘱によってオーケストラ曲『冬』を作曲した。 |
| 1973年からは「今日の音楽」のプロデュースを手がけ、海外の演奏家を招いて新しい音楽を積極的に紹介した。 |
| 1975年にFM東京の委嘱によって作曲された『カトレーン』は同年に文化庁芸術祭大賞、翌年に第24回尾高賞を受賞するなど、国内で高い評価を得た楢崎、2005年、119頁。 |
| また、『ノヴェンバー・ステップス』以後には海外からの注目も高まり、1968年と69年には「キャンベラ・スプリング・フェスティバル」のテーマ作曲家、1975年にはイェール大学客員教授、1976年と77年にトロントで開催された「ニューミュージック・コンサーツ」ではゲスト作曲家として招かれた。 |
| 1980年に作曲されたヴァイオリンとオーケストラのための『遠い呼び声の彼方へ!』は、前衛的な音響が影をひそめ、和声的な響きと「歌」を志向する晩年の作風への転換を印象続ける作品となった楢崎、2005年、129頁。 |
| 晩年、それまで手をつけていなかったオペラに取り組もうと意欲を見せるが、作品は完成の日の目を見ることはなかった。 |
| タイトルは『マドルガーダ』(邦題は『夜明け前』)となる予定であった台本はすでに完成されており、2005年、野平一郎によって作曲された。 |
| 1995年、膀胱、および首のリンパ腺にがんが発見され、また、間質性肺炎を患っていた彼は数ヶ月の入院生活を送ることになるこの時期の闘病日記が死後に発見された。 |
| また、娘のために、さまざまな料理のレシピをイラストつきで記していた。 |
| これらは『サイレント・ガーデン――滞院報告・キャロティンの祭典』(新潮社)で見ることができる。 |
| 退院後、『森のなかで』『エア』を作曲。 |
| これらが完成された最後の作品となった未完の作品に、フルート、ハープ、オーケストラのための『ミロの彫刻のように』がある。 |
| 1996年2月20日、65歳で死去直接の死因は間質性肺炎(楢崎洋子『武満徹』音楽之友社、他)。 |
| ピーター・バート『武満徹の音楽』(音楽之友社)では、がんとなっている。 |
| 政治にも関心が深く、1960年代の安保闘争の折には「若い日本の会」や草月で開かれた「民主主義を守る音楽家の集い」などに加わり自身もデモ活動に参加していた(ただし体調が悪くなっていたのですぐ帰っていたらしい岩城宏之対談集「行動する作曲家たち」新潮社、1986、p33、岩城との対談における武満の発言より)。 |
| 一方で音楽による政治参画については否定的だったようで、1970年代、自身も参加した音楽グループ「トランソニック」の季刊誌上で見解を示した。 |
| 当時、政治と音楽との関わり方を模索していた高橋悠治が同季刊誌で様々な音楽家からアンケートをとった中で武満は否定的な見解を示した。 |