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戦国時代から安土桃山時代にかけての甲斐の武将・戦国大名。甲斐武田家第20代当主。武田二十四将の一人と数える場合もある。当初は諏訪氏を継いだため、諏訪... |
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武田信繁
人物に関する 書きかけ項目 です。 この記事を加筆・訂正 などして下さる 協力者を求めています ( ウィキプロジェクト 人物伝 )。 この「 武田信繁 (室... |
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プロフィール
- 武田信虎とは
- 武田宗家の統一から国衆勢力との抗争
- 甲斐統一と甲府開設
- 甲斐追放から晩年
- 人物
- 参考文献
- 関連作品
武田信虎(たけだのぶとら)は、戦国時代の武将。甲斐の守護大名・戦国大名。 武田信玄の父。甲斐源氏の宗家・武田氏第18代当主にあたる。
武田宗家の統一から国衆勢力との抗争
| 明応3年(1494年)1月6日、武田氏の第17代当主・信縄の嫡男として生まれる。 |
| 初名は信直。 |
| 室町期に甲斐国では守護代の跡部氏や国人勢力の台頭により守護武田氏の勢力が弱体化していたが、信虎の祖父にあたる信昌期には跡部氏を排斥し国人勢力を駆逐し、守護権力が回復する一方で河内領主の穴山氏や郡内領主の小山田氏など新勢力が台頭していた。 |
| これらの国人勢力は隣国駿河の今川氏や相模の伊勢氏(後北条氏)との連携し守護武田氏と対抗し、信縄期には信昌の嫡男信縄と信昌が後見する弟の油川信恵が対立し、武田宗家の内訌も関係し甲斐一国は乱国状態に陥っていた。 |
| その後、甲斐北西部の国衆今井氏を従わせるが、駿河今川氏に属していた河内の穴山信懸、西郡の大井氏との対決は続いた。 |
| 永正12年10月17日、信直は大井信達・信業父子の拠る西郡上野城(南アルプス市、旧中巨摩郡櫛形町)を攻め(『勝山記』『一蓮寺一蓮寺過去帳』)、今川氏は大井氏救援のため出陣し甲駿国境を封鎖している(『勝山記』『塩山年代記』)。 |
| 大井氏・駿河今川氏との抗争はその後も続き、今川氏は甲府盆地や都留郡にも侵攻し信直や小山田氏との合戦が展開された。 |
甲斐統一と甲府開設
| その後も国人領主今井氏や信濃の諏訪氏との争いに加え、に駿河の今川氏配下の土方城主福島正成を主体とする今川勢が富士川沿いに西郡まで侵攻し甲府へ迫ると、甲府館北東の要害山城へ退き、今川勢を飯田河原合戦(甲府市飯田町)、上条河原合戦(甲斐市、旧中巨摩郡敷島町)で撃退する。 |
| この最中に、要害山城では嫡男晴信が産まれている(『高白斎記』『王代記』)。 |
| 大永年間には対外勢力との抗争が本格化し、には、関東における両上杉氏と新興勢力の北条氏の争いに介入し、都留郡の甲相国境付近では相模国境で北条勢と争い、大永6年には梨の木平で北条氏綱勢を破っているが、以後も北条方との争いは一進一退を繰り返した。 |
| 翌大永7年には佐久郡出兵を行い、同年には駿河の今川氏親と和睦する。 |
| 甲斐国内の統一、対外勢力との和睦が確立した大永2年には富士登山を行っている『勝山記』に拠る。 |
| 信虎は『勝山記』妙法二年条に信虎が富士登山を行い「八要」を行ったとしており、『妙法寺記』系写本では「八要」を「八嶺」としている。 |
| 富士山頂の高所は八枚の蓮弁に見立てられて「八葉」と呼称され、後には富士山頂の高所を廻る御鉢参りの習俗が成立しており、御鉢参り習俗が戦国期に遡る可能性として注目されている。 |
| 信虎の富士登山については、甲斐一国の平定を成し遂げ駿河今川氏、相模後北条氏との緊張関係が続いている情勢から、自身の地位を確立するための宗教的示威行為であると考えられている(堀内亨『武田氏と富士山』、『山梨県史』通史編2中世第十一章第二節三)。 |
| 翌に信濃諏訪攻めを行うが、神戸・堺川合戦(諏訪郡富士見町)で諏訪頼満・頼隆に敗退する。 |
| には諏訪氏の後援を得て甲斐国人栗原兵庫・飯富虎昌らが反旗するが、信虎は今井信業・尾張守らを撃破し、同年4月には河原部合戦(韮崎市)で国人連合を撃破した。 |
| また、には上杉朝興の斡旋で上杉憲房の後室を側室とする。 |
| また、享禄元年には甲斐一国内を対象とした徳政令を発している『勝山記』に拠る。 |
| この徳政令は発令時期が不明だが、東国の戦国大名が発令した初めての事例である他、土一揆の勃発以前に発令されている点からも注目されており、『勝山記』では同年夏からの自然災害の頻発が記録されていることから収穫期の秋に発令されたものであると考えられている。 |
| 黒田基樹『享禄元年の徳政令』『山梨県史』通史編2中世第七章第一節三。 |
| 翌天文5年には、駿河で今川氏輝死後に発生した花倉の乱で善徳寺承芳(後の今川義元)を支援したことにより今川氏との関係は好転する。 |
| には長女・定恵院を義元に嫁がせ、今川氏の仲介により嫡男晴信の室に公家三条家の娘を迎え、今川氏とは和睦して甲駿同盟を結ぶ。 |
| さらに北条氏とも和睦するが、甲駿同盟は駿相同盟の破綻を招き、今川と北条は抗争状態となる(河東の乱)。 |
| には今井信元を浦城(旧北巨摩郡須玉町)で降伏させる。 |
| 『勝山記』諏訪氏とは諏訪頼満の孫諏訪頼重の時代になると和睦し、三女・禰々を頼重に嫁がせて和睦する『諏訪神社使御頭之日記』。 |
甲斐追放から晩年
| 信虎追放については同時代の記録資料のほか『甲陽軍鑑』にも見られるが、文書上からは同年9月23日に今川義元が晴信に隠居料の催促を求める文書が残されており(『堀江家文書』『戦武』4012号)、晴信と義元により隠居料など諸問題を含めた協定がおこなわれていたと考えられている。 |
| 信虎の駿河時代の給分は武田家からの隠居料のほか今川家からの支出もあり、給地も存在していた。 |
| 事件の背景には諸説ある。 |
| 信虎が嫡男の晴信(信玄)を疎んじ次男の信繁を偏愛しており、ついには廃嫡を考えるようになったという親子不和説や、晴信と重臣、あるいは『甲陽軍鑑』に拠る今川義元との共謀説などがある。 |
| また、『勝山記』などによれば、信虎の治世は度重なる外征の軍資金確保のために農民や国人衆に重い負担を課し、怨嗟の声は甲斐国内に渦巻いており、信虎の追放は領民からも歓迎されたという。 |
| 此年六月十四日武田太夫様(晴信)親ノ信虎ヲ駿河ヘ押シ越シ申シ候。 |
| 余リニ悪行ヲ成サレ候間、カヨウニメサレ候。 |
| サルホドニ地下、侍、出家、男女共ニ喜ビ満足候コト限リナシ。 |
| (『妙法寺記』)。 |
| 天文12年の上方遊歴においては京都から高野山・奈良を遊歴し、国主時代から交流のあった本願寺証如も使者を派遣して挨拶している(『証如上人日記』)。 |
| さらに信虎は武田家と師檀関係にあった高野山引導院を参詣し(なお、晴信は実弟信繁を介して謝礼を行っている)、さらに奈良へ赴き同年8月9日には多聞院英俊が信虎の奈良遊歴を記している(『多聞院日記』)。 |
| 信虎は奈良を遊歴すると同月15日には駿河へ戻っている。 |
| には今川義元の室になっている娘が死去している。 |
| その後は上方における消息もみられず駿河で過ごしていたと考えられているが、その後も上洛した在京奉公が確認される。 |
| 今川家では桶狭間の戦いにおける今川義元が敗死すると氏真へ当主交代し、武田家は川中島の戦い以降北信を巡る越後上杉氏との抗争が収束し、義元娘を正室とする晴信嫡男の義信が廃嫡される義信事件の発生など情勢の変化で甲駿関係は悪化し、甲駿同盟は手切となり武田氏による駿河今川領国への侵攻が開始される(駿河侵攻)。 |
| 『甲陽軍鑑』や『武田源氏一統系図』において信虎の再上洛は桶狭間以降としているが、公家の山科言継山科言継は弘治2年(1556年)に駿河へ下向しており、翌弘治3年2月25日の連歌会においては信虎の子信友が参加している。 |
| は義元生前の永禄元年から例年にわたり信虎への年始挨拶などを行っており(『言継卿記』)、信虎は京に邸をもち継続的に在京奉公を行っていたと考えられている。 |
| 信虎は在京前守護として将軍義輝に仕候し、言継は永禄2年(1559年)において信虎の身分を「外様」「大名」と記しており(『言継卿記』)、儀礼的には高い席次であり、信虎は上洛していた同じ甲斐源氏の一族でもある南部信長ら諸大名と交流しており、飛鳥井雅教や万里小路惟房ら公家との文化的交流もしており、永禄3年には菊亭晴季に末女を嫁がせている。 |
| 甲斐では信玄側室との間に生まれた勝頼が家督を継いでおり、に信虎は三男武田信廉の居城である高遠城に身を寄せ、勝頼とも対面したという(『軍鑑』)。 |
| 同年3月5日、伊那の娘婿・禰津神平の庇護のもと、信濃高遠で死去した。 |
| 葬儀は信虎が創建した甲府の大泉寺で行われ、供養は高野山成慶院で実施されている(『武田家過去帳』)。 |
人物
| 江戸時代に成立した『甲陽軍鑑』に拠れば、粗暴で傲慢であったという。 |
| 諫言した家臣を度々手打ちにしたと伝えられている。 |
| 内藤虎資、馬場虎貞、山県虎清、工藤虎豊ら、重臣の数々を一時の感情に任せて成敗したと言われる信虎に殺されて絶えた名跡の多くを、子の信玄が復活させている。 |
| 内藤氏→内藤昌豊、馬場氏→馬場信春、山県氏→山県昌景。 |
| 嫡男・晴信(信玄)に公家の三条公頼の娘を迎え、婚姻政策を展開して今川氏などの近隣勢力と同盟を結ぶなど、積極的な外交政策をとった。 |
| この婚姻により晴信と顕如が義兄弟(顕如の妻は三条氏の妹)の間柄となり、後の武田家の外交政策にも影響を及ぼした。 |
| 息子の武田信廉によって描かれた信虎の肖像画が現存している |
| 晴信以外の息子との関係は良かったとも推測されている。 |
| 名刀「宗三左文字」を所有しており、今川義元に伝わる。 |
| 桶狭間の戦い後に織田信長に渡ったが、本能寺の変により焼失した。 |
| 後に豊臣秀吉が焼け跡より回収し、豊臣秀頼より徳川家康に伝わり現在に至る。 |
関連作品
| 天と地と(1969年、NHK大河ドラマ、演:田崎潤)。 |
| 武田信玄(1988年、NHK大河ドラマ、演:平幹二朗)。 |
| 風林火山(2007年、NHK大河ドラマ、演:仲代達矢)。 |
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1494年
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武田氏の第17代当主・信縄の嫡男として生まれる |
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1559年
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おいて信虎の身分を「外様」「大名」と記して... |
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