| 1996年5月6日、K-1GRANDPRIX'96で唯一の日本人として出場し、ベスト4まで進出した。 |
| 本人はこの大会での大活躍を「ただのビギナーズラックでした。 |
| 」と語っている。 |
| この大会以降、1999年初頭まで12試合で勝ち星が2つという大スランプに陥る。 |
| 1998年5月24日、K-1BRAVES'98で佐竹雅昭と対戦し、5R引き分け。 |
| 1999年2月28日、敵地イギリスでカークウッド・ウォーカーの保持するWAKOPRO世界ムエタイヘビー級王座に挑戦するも、1-2で判定負け。 |
| 武蔵はダウンこそ奪えなかったものの攻撃は積極的であり、判定負けという結果に場内からはブーイングも起きたという。 |
| 1999年6月20日、K-1BRAVES'99でカークウッド・ウォーカー(イギリス/王者)に3度目の挑戦(過去2度敗退)で、5R左ミドルキックでKO勝ちしWAKOPRO世界ムエタイヘビー級王座を獲得。 |
| 1999年10月3日、K-1GRANDPRIX'99開幕戦のGP1回戦で佐竹雅昭と再戦。 |
| 1Rにダウンを奪われたものの5R判定勝ち。 |
| この判定に佐竹は激怒しK-1を去ることになった。 |
| 試合後、「もし再戦ということであれば、自分はやります。 |
| 自分は自分の闘いをやっただけ。 |
| その結果ジャッジがああいう結果を出して、僕はそれに従っただけです。 |
| でも、自分の闘いとして納得いくものではなかった、という不満は残ってます。 |
| 」とコメントした。 |
| 1999年12月5日、決勝大会準々決勝では、ミルコ・"クロ・コップ"・フィリポビッチに2RKO負け。 |
| 右ミドルキックでミルコのあばら骨にヒビを入れるなど好調な出だしだったが、バッティングや投げ技などの反則戦法でペースと右目の視界を失い、最後には背を向けてしまう精神的な脆さが見られた。 |
| 試合後には「取りあえず練習してきた技は、ローも入ったしボディブローも入ったし、結構向こうは動揺していたと思う。 |
| だから、自分ではいい感じな出だしだったんで、力を出し切れないで悔しいですね。 |
| 」とコメントした。 |
| 2000年1月25日、地元日本で全盛期真っ只中のピーター・アーツと対戦。 |
| 1Rから左ミドルをヒットさせるなど本戦3Rを有利に進めたにもかかわらず、なぜか全ジャッジに30対30のドローとされ、スタミナの切れた延長RでKO負けを喫した。 |
| 同大会では、試合をインタビュールームで観戦していた天田ヒロミが、本戦3Rをドローとされたことに対して非常に驚いている様子が放送されている。 |
| この試合についてアンディ・フグは「アーツ戦こそが武蔵の弱さが出た試合だった。 |
| 運良くアーツが不調だったのに最初から勝てないと諦めているから負けるんだ」とコメント(格闘技通信No.249のインタビューより)しており、日本人初のアーツ越えを不運な形で逃すこととなった。 |
| 2000年3月19日、アンディ・フグに5R判定負け。 |
| ジャッジの一人はドローを付けたことについてアンディ・フグは「ドローをつけたのは冗談だと思います。 |
| その審判はコメディアンか何かだったのでしょう」とコメントしている。 |
| また、大会後の格闘技通信では「武蔵流」という文字に大きく×マークが付いたマークが表紙を飾り、武蔵の完敗を現していた。 |
| 2000年7月7日、K-1JAPANGP2000に出場。 |
| 前年に続いてJAPANGP2連覇を達成し、K-1を去った佐竹に代わり改めて日本人最強を証明した。 |
| 2000年12月10日、決勝大会準々決勝でレイ・セフォーに1RKO負け。 |
| 対戦予定だったマイク・ベルナルドが直前で欠場となり、急遽トリッキーなセフォーとの対戦が決まった。 |
| セフォーの素早い攻撃に対応できずに背を向けてしまうシーンも見られた。 |
| 2001年4月15日、アーネスト・ホーストに5R判定負け。 |
| 1998年の試合では何もできずにKOされた相手とほぼ互角に渡り合ったことで、武蔵の成長が見られた。 |
| 2001年6月24日、エベンゼール・フォンテス・ブラガと対戦。 |
| 前半は武蔵が優勢に試合を進めたが、ブラガがクリンチ状態から意図的に足を掛けて武蔵をマットに倒し、後頭部を強打。 |
| なんとか試合を続行するものの、それ以降は記憶のない状態で闘っていたと試合後に語っており、結局判定1-0のドローに終わる。 |
| このブラガの行為が「注意1」であったことに対し、武蔵は「あれで注意1じゃ反則したもん勝ちですね」と皮肉った。 |
| 2001年8月19日、2連覇中のJAPANGPに出場。 |
| 準々決勝で大石亨、準決勝で中迫剛にそれぞれ3R判定勝ちで決勝に進出するも、連続KOで勝ち上がってきたニコラス・ペタスに延長でダウンを奪われ判定負け。 |
| 試合後、ジェロム・レ・バンナに「お前の方が強いのになぜ負けたんだ!」と叱られたという(「K-110年の奇跡」のバンナインタビューより)。 |
| また、同インタビューでバンナは武蔵について「俺達は同志だし、俺はすごい武蔵ファンなんだ。 |
| 」と語っている。 |
| 2002年1月11日、一撃旗揚げ戦のメインイベントで野地竜太と対戦し、判定勝ちを収めた。 |
| 2002年3月3日、K-1WORLDGP2002inNAGOYAでグラウベ・フェイトーザと対戦。 |
| 試合終了後には互いに勝利をアピールしたが、お互いに決め手が無くドローとなった。 |
| 2002年4月21日、K-1BURNING2002でK-1デビュー戦のセーム・シュルトと対戦。 |
| パンチを何度もヒットさせ判定にもつれ込むが、1-2の微妙な判定で敗れる。 |
| 2002年7月14日、K-1WORLDGP2002inFUKUOKAでジョシー・デンプシーと対戦。 |
| パンチと蹴りを何度もヒットさせ判定勝ち。 |
| 2002年9月22日、JAPANGPに出場し3度目の優勝を達成。 |
| 2002年12月7日、決勝大会準々決勝でジェロム・レ・バンナと対戦。 |
| アグレッシブに打ち合い会場を沸かせたが、攻撃力の差で徐々に押され2RKO負け。 |
| K-1最後の解説となった石井館長には「絶対に背中を向けちゃダメ。 |
| 2003年6月29日、K-1BEASTII2003でモンターニャ・シウバと対戦。 |
| シウバが反則のマウントパンチを連打するという前代未聞の行動を取り、武蔵の反則勝ちとなった。 |
| K-1競技統括プロデューサーの角田信朗は、「モンターニャをK-1から追放したい。 |
| 2003年7月27日、メルボルンでクリス・クリソポリディスと対戦。 |
| ジェロム・レ・バンナ、アーネスト・ホースト、マーク・ハント、ステファン・レコ、ミルコ・クロコップら優勝候補がことごとく欠場した大会ではあったが、準々決勝でレイ・セフォーに判定勝ち、準決勝ではピーター・アーツに2-0で判定勝ちし、1994年大会の佐竹雅昭以来、日本人として9年ぶりのK-1GP準優勝を記録した。 |
| しかし、セフォーが病気で体調不良であることを大会前日会見で明かしていたのに加え、アーツ戦の微妙な判定に対してもアーツは不満を示し、会場で観戦していたアーネスト・ホーストも「あれはアーツの勝ちか、最低でもドローで延長が妥当だ」と語った。 |
| 2000年の初対決では微妙な判定で逃した日本人初のアーツ越えという快挙をついに達成したが、優勝候補不在の大会であったためあまり評価は上がらなかった。 |
| 2004年3月27日、K-1WORLDGP2004inSAITAMAで曙と対戦。 |
| 2004年5月3日、新日本プロレス所属の柴田勝頼と異種格闘技戦を行い左ハイキックで勝利。 |
| この日、記者会見で柴田と乱闘したり、試合で倒れている柴田に攻撃(反則)したりと一度だけプロレスを体験する。 |
| 2004年6月6日、K-1WORLDGP2004inNAGOYAでレイ"マーシレス"マーサーと対戦。 |
| 2004年9月25日、シリル・アビディを相手にキレのある動きで蹴り技を次々のヒットさせて判定勝ち。 |
| 解説の谷川貞治と長嶋一茂にも絶賛され、昨年の準優勝者の実力を見せつけた。 |
| 2004年12月4日、K-1WORLDGP2004決勝大会の準々決勝で絶好調のレイ・セフォーと対戦。 |
| 決勝戦では、レミー・ボンヤスキーと対戦し、第1Rにダウンを奪われるが、微妙な判定で延長に突入し、再延長戦の末に判定負け。 |
| 大会後、武蔵とボンヤスキーの両者に対する贔屓判定に対して、大会主催者のFEGとフジテレビに抗議の電話とメールが殺到した。 |
| 2005年9月23日、K-1WORLDGP2005inOSAKA開幕戦でフランソワ・"ザ・ホワイトバッファロー"・ボタに蹴りを当てつつパンチを殺して判定勝ち。 |
| 2005年11月19日、K-1WORLDGP2005inTOKYO決勝戦では、準々決勝でルスラン・カラエフと対戦し、延長判定勝ち。 |
| 2005年12月31日、K-1PREMIUM2005Dynamite!!でボブ・サップと対戦。 |
| 2006年4月29日、K-1WORLDGP2006inLASVEGASで前年優勝のセーム・シュルトに判定負け。 |
| ハリッドに敗北したショックで出場するかどうか迷っていたこともあり、オファーを断らない武蔵にしては珍しく試合の受諾に時間がかかった |
| 2007年9月29日のK-1WORLDGP2007INSEOULFINAL16へ主催者推薦枠での出場に最後の望みを寄せていたものの、澤屋敷純一が同枠で出場することになり、6年連続での本大会はならず。 |
| 2008年4月13日、K-1WORLDGP2008INYOKOHAMAで澤屋敷純一と対戦し、3ダウンを奪いKO勝ち。 |
| これに対してゲガール・ムサシは「僕は日本人でもなく、K-1ファイターでもないのに、勇気を出してアウェーである日本のリングでK-1ルールで武蔵と戦ったんだから、屈辱を晴らしたいなら僕が住んでいるオランダのリングで総合格闘技ルールで再戦するのが筋じゃないの?」とコメントしている格闘技通信2009年3月号。 |
| 2010年4月3日、K-1WORLDGP2010INYOKOHAMAにて引退セレモニーが行われ、藤原紀香やジェロム・レ・バンナなどから花束を贈られたほか、師匠の石井和義からは黄金のグローブを贈られた |
| 2010年10月23日、ZeppTokyoで開催された自主興行「MUSASHIROCKFESTIVAL」の中で、弟のTOMOを相手に再度引退試合(3分2Rのエキシビションマッチ)を行った |