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本庄繁
日本の陸軍軍人。第10師団長・関東軍司令官・侍従武官長を歴任し階級は陸軍大将正三位勲一等功一級男爵に至る。軍を退いてからは軍事保護院総裁や枢密顧問官... |
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鄭孝胥
清末の官僚・満州国の政治家・書家。字は太夷、号は蘇戡・蘇盦等。満州国の初代国務院総理(首相)。 |
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武藤山治
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日本の音楽評論家、編集者。株式会社ミュージック・マガジンの元・取締役会長、代表取締役。「中村とうよう事務所」代表。武蔵野美術大学客員研究員。ジャズ... |
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宇垣一成(うがきかずしげ、慶応4年6月21日(1868年8月9日)-昭和31年(1956年)4月30日)は日本の陸軍軍人、政治家である。成城学校から陸軍士官学校、陸軍... |
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プロフィール
- 武藤信義とは
- 経歴
- エピソード
- 男爵武藤信義へ御沙汰
- 栄典
- 関連項目
武藤信義(むとうのぶよし、1868年9月1日(慶応4年7月15日)-1933年7月27日)は、日本の陸軍軍人。元帥、陸軍大将、正二位勲一等功一級男爵。関東軍司令官兼駐満大使兼関東長官・教育総監・軍事参議官・東京警備司令官等を歴任した。
経歴
| 慶応4年、佐賀藩士・武藤信直の次男として生まれる。 |
| 教師を志して佐賀師範学校に入学するも、失望して中退したのちは陸軍を志して陸軍教導団へ入団する。 |
| 卒業後、陸軍歩兵二等軍曹(後の伍長に相当する)に任官。 |
| 陸軍士官学校を明治25年7月23日卒業。 |
| 翌年3月13日に陸軍歩兵少尉に任官。 |
| 卒業後、歩兵第24連隊小隊長として日清戦争に出征。 |
| 戦後は陸軍大学校に入校。 |
| 明治32年、第13期の首席の成績を修めて恩賜の軍刀を授けられる。 |
| 日露戦争における鴨緑江会戦勝利の功により、鴨緑江軍参謀に進む。 |
| 日露戦帰還後は、ロシア公使館付武官補佐官、明治41年12月21日に参謀本部欧米課長。 |
| 明治44年1月26日に陸軍大佐、大正元年12月18日から近衛歩兵第4連隊長、大正4年4月10日から参謀本部作戦課長を務める。 |
| 大正5年(1916年)5月2日陸軍少将、歩兵第23旅団長。 |
| 大正7年7月24日に参謀本部附を命ぜられてハルピン特務機関長。 |
| 同年11月9日からオムスク特務機関長、シベリア出兵にあっては現地支援した。 |
| 大正8年1月15日参謀本部第1部長、同年7月25日陸軍中将、総務部長に移る。 |
| 大正10年5月5日第3師団長に親補、翌年11月24日参謀次長。 |
| 大正14年5月1日に軍事参議官に親補、翌年3月2日から東京警備司令官を兼ねて陸軍大将に親任。 |
| 同年7月28日に関東軍司令官に就任。 |
| 昭和2年8月26日、教育総監。 |
| 昭和5年2月、参謀総長職を辞退して金谷範三に譲る。 |
| 昭和7年5月15日に五・一五事件が起った事により引責辞任、5月26日から軍事参議官に退く。 |
| 昭和7年8月8日再び関東軍司令官に就任、満州国駐在特命全権大使と関東長官を兼務。 |
| 9月15日に同国務総理・鄭孝胥との間で日満議定書を調印。 |
| 満州国内の治安維持や熱河平定の軍功により、昭和8年5月3日に元帥号を賜る。 |
| 昭和8年7月22日、黄疸に罹って新京で倒れ、8月27日午前7時50分薨去。 |
| 薨去に際し、7月27日付で正二位勲一等旭日桐花大綬章・功一級金鵄勲章。 |
| またこの際、男爵位の授爵を打診されたものの、家族が辞退した事によって8月6日に改めて授爵した。 |
| 天皇から御沙汰書を賜る。 |
| 墓所は東京都文京区・護国寺墓地。 |
エピソード
| 陸軍士官学校候補生第3期の同期には、朝久野勘十郎中将・大野豊四中将や、長谷川好道元帥の嗣子長谷川猪三郎少将らがいる。 |
| ロシア語が堪能だった武藤は、日露戦争開戦前にウラジオストク偵察に赴き、開戦時は陸軍少佐・近衛師団参謀として出征する。 |
| 鴨緑江渡河にあたっては、朝鮮服を着用して現地の子供二人を借りるなどして敵地を偵察し、その情報に基づいて渡河計画が立てられた。 |
| 人格者で知られた武藤は、軍人としての地位も極めたものの、元帥の条件は満たしていないとの声もあった。 |
| 武藤の元帥推薦に動いたのは荒木貞夫陸軍大臣であったという。 |
| 昭和8年に65歳に達したが、この年齢は陸軍大将の定年で同時に予備役編入となる筈であった。 |
| その背景には、武藤以外に関東軍司令官の適任者がいない事や武藤・荒木が属する反長州閥の弱体化を怖れたためという。 |
| なお、下士官出身で元帥号を賜ったのは武藤のみである。 |
| 鈴木荘六の後任として参謀総長職を打診されたものの、辞退して後輩の金谷範三に譲ったされる。 |
| 関東軍司令官・特命全権大使・関東長官を兼務した武藤は、満州における軍事・行政・外交を掌握して「これほど権力を掴んだ者は明治維新以来いない」と評されたという。 |
| 元帥陸軍大将時に武藤に下賜された元帥刀・元帥徽章は現在も靖国神社にて保存されている。 |
| 武藤家は男爵位を授けられたものの、武藤没後は女戸主となったため、のちに爵位を返上している。 |
男爵武藤信義へ御沙汰
| 男爵武藤信義へ御沙汰(昭和8年8月6日)。 |
| 至誠ヲ寛厚ニ藏シ果斷ヲ沈毅ニ發ス乃チ參議ノ官ニ補セラレテ籌ヲ帷幄ニ運ラシ遂ニ元帥ノ府ニ列シテ務ニ樞機ニ服ス持節命ヲ銜ミテ文武ノ大任ヲ全クシ善隣誼ヲ敦クシテ朝野ノ重望ニ副ヘリ遽ニ溘亡ヲ聞ク曷ソ軫悼ニ勝ヘム宜シク使ヲ遣ハシ賻ヲ賜ヒ以テ弔慰スヘシ。 |
栄典
| 元帥:昭和8年5月3日。 |
| 正二位:昭和8年7月27日。 |
| 勲一等旭日桐花大綬章:昭和8年7月27日。 |
| 勲一等旭日大綬章:大正9年11月1日。 |
| 功一級金鵄勲章:昭和8年7月27日。 |
| 男爵:昭和8年8月6日。 |
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武藤信義さんについてのひとこと紹介
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