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つながりの強いひと
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楽毅
中国戦国時代の燕国の武将。燕の昭王を助けて、斉を滅亡寸前まで追い込んだ。昌国君、または望諸君とも呼ばれる。 |
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恵文王
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趙武
中国春秋時代の晋の政治家。父の代に一度は滅亡した趙氏を再興させ、晋と楚の和睦を成し遂げる大功をあげた。 |
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武王
周朝の創始者。殷の最後の帝辛(いわゆる紂王)を滅ぼし、周を立てた。文王の次子。同母兄に伯邑考、同母弟に管叔鮮、周公旦、蔡叔度、霍叔処、康叔封らがい... |
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司馬遷
中国前漢時代の歴史家で、『史記』の著者。姓は司馬。名は遷、字は子長。司馬氏は周代の記録係の家系であり、父は前漢の太史令となった司馬談。官名により太... |
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始皇帝
始皇帝(,シーフアンティ)または秦始皇(,チンシーフアン)と称される。元来は秦王として紀元前246年に即位した。前221年には史上初めて中国を統一し、中国史上... |
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蘇秦
中国戦国時代の弁論家。張儀と並んで縦横家の代表人物であり、諸国を遊説して合従を成立させたとされる。蘇代の兄。 |
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昭襄王
中国戦国時代・秦の第28代君主、第3代の王。孝文王(柱)(安国君)の父。始皇帝(政)の曽祖父。 |
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周王
多くの面で狩猟採集経済に依存していた。その様子は、後期に「歴史学特殊講義」で紹介する『詩経』「七月」の詩などからも窺える。周代の生産関係についても... |
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平原君
中国戦国時代の趙の公子で政治家。氏は趙、諱は勝。武霊王の子、恵文王の弟。食客を集めて兄恵文王、続いて甥孝成王を補佐した。戦国四君の一人。人士を好み... |
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孟嘗君
中国戦国時代の政治家。戦国四君の一人。姓は&23296;(ぎ、女偏に為)、氏は田、諱は文。諡が孟嘗君である。斉の威王の孫に当たる。 |
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宮城谷昌光
日本の時代小説・歴史小説作家である。古代中国の偉人にスポットを当てた作品を得意とする。代表作に『重耳』、『孟嘗君』など。本名は宮城谷誠一(みやぎた... |
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恵王
中国戦国時代の魏の第3代君主(在位:紀元前369年-紀元前319年)。または初代の王。姓は姫。氏は魏。諱は罃(おう)。 |
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文王
中国の周朝の始祖。姓は姫、諱は昌。父季歴と母太任の子。周王朝の創始者である武王の父にあたる。文王は商に仕えて、三公(特に重要な三人の諸侯)の地位に... |
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張儀
張儀(ちょうぎ ?-紀元前309年)は中国戦国時代の遊説家、政治家。魏の人。蘇秦と共に縦横家の代表的人物とされ、秦の宰相として蘇秦の合従策を連衡策で打... |
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藺相如
中国の戦国時代の末期に趙の恵文王の家臣。「完璧」や「刎頸の交わり」の故事で知られる。司馬遷は『史記』の中で、藺相如のことを文武知勇の将と賞している。 |
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荊軻
中国戦国時代末期の刺客。燕の太子の命を受け、策略を用いて秦王の政(後の始皇帝)を暗殺しようとするが、失敗し逆に殺された。 |
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安西篤子
日本の小説家。神戸市須磨区村雨町生まれ。父は横浜正金銀行勤務の安西政一郎。幼少時父の勤務でドイツ、中国に住まい、青島高等女学校をへて、1945年神奈川... |
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荘王
荘王(そうおう、?-紀元前591年 在位:紀元前614年-紀元前591年)は中国春秋時代の楚の第6代の王。姓は羋、氏は熊、諱は侶、または旅、諡は荘。楚の歴代君主... |
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プロフィール
- 武霊王とは
- 生涯
- 胡服騎射
- 評価
- 武霊王を題材にした小説
武霊王(ぶれいおう、?-紀元前295年、在位紀元前326年-紀元前298年)は、中国戦国時代の趙の君主。姓は嬴。氏は趙。諱は雍(『史記索隠』に拠る)。粛侯の子。胡服騎射を取り入れて趙を軍事大国とした。
生涯
| 紀元前326年、粛侯が死に、趙侯の位を受け継ぐ。 |
| この時に武霊王はまだ幼かったので、粛侯時代の貴臣である肥義の意見を聞いた。 |
| 紀元前319年、この頃諸国は相次いで王号を称えるようになっていたが、武霊王は「趙にはその実質が無い」と言ってあくまで君と呼ばせていた(子の恵文王の時代から王号を使うようになり、父の諡にも王号を贈った)。 |
| 紀元前315年、隣国の燕が大混乱に陥り、君主不在の状態になっていた。 |
| 武霊王は燕の公子職を招き、趙の後ろ盾を付けて燕の君主として立てようとしたが、燕では昭王が君主となった。 |
| 紀元前311年、武霊王は美女の夢を見て、その夢を回りに聞かせていた。 |
| これを聞いた呉広と言う男が、自分の娘の孟姚が夢の美女とそっくりであると思って武霊王に献上した。 |
| 武霊王は大いに喜んで孟姚を寵愛した。 |
| 孟姚が生んだ公子何が、後の恵文王である。 |
| 紀元前310年、郊外に野台を作ってそこから中山や斉を眺めた。 |
| これらの国を征服する野望を見せたのである。 |
胡服騎射
| 紀元前307年、野望を達成するための準備として胡服騎射を取り入れることを考える。 |
| 胡服騎射とは、それまでの中華世界の貴族戦士の伝統的な戦術が、3人の戦士が御者と弓射、戈による白兵戦を分担する戦車戦だったのに対して、北方遊牧民族の、1人の特殊訓練を受けた戦士が直接1頭の馬に乗馬しながら弓を放つ戦法のことである。 |
| 当時の大夫たちは裾が長く、下部がスカート状の服を着ていた。 |
| 乗馬のためにはこれは非常に邪魔であり、胡服騎射には遊牧民の乗馬に適したズボン式の服装(胡服)を着る必要がある。 |
| これを下問した所、肥義はすぐに賛成したが、武霊王の叔父の公子成はこれに反対した。 |
| 中華思想が強く、遊牧民を「蛮夷」と呼んで見下し、直接馬に乗る事を蛮行と見なしていた当時では、肥義のように賛成する者の方が珍しく、公子成が反対したのも無理はなかった。 |
| しかし、武霊王は粘り強く説得を続け、胡服騎射を取り入れることに成功した。 |
| 同年、秦の武王が没したので、燕にいた公子稷を送り込んで秦君とした。 |
| これが昭襄王である。 |
| 紀元前298年、それまで太子に立てていた公子章を廃し、公子何を太子に立てた後に位を譲ったが、自らは「主父」と名乗り、実質的な権力を握り続けた。 |
| 紀元前296年、それまで何度か攻撃して、半ば征服していた中山を完全に滅ぼし、版図に入れた。 |
| 紀元前295年、公子章に憐れみの心を起こして趙の北の代の君として置こうと考えたが、これが公子章に恵文王に対しての反乱を決意させる。 |
| 公子章は反乱を起こすが、失敗し主父の元へと逃げ込み、主父はこれを匿った。 |
| 恵文王側の李兌と公子成は主父の館を包囲し、公子章はその中で死亡した。 |
| ここで反乱は終わったが、主父に対して兵を向けた格好となった李兌たちは後で主父に誅殺されることを恐れて包囲を続け、3ヶ月の包囲の後に主父は餓死した。 |
評価
| 司馬遷は「武霊王が後継を逡巡し、餓死したことで天下の物笑いとなった(為天下笑、豈不痛乎)」と厳しい評価を与えている。 |
| 『史記』「趙世家」。 |
武霊王を題材にした小説
| 桐谷正『武霊王』(祥伝社、2003年)。 |
| 安西篤子「胡服の王」(『洛陽の姉妹』所収、講談社、1999年)。 |
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