| 家督相続問題を契機として、元就は尼子経久と次第に敵対関係となり、ついには大永5年(1525年)に尼子氏と手切れして大内義興の傘下となる立場を明確にした。 |
| そして享禄2年(1529年)には、かつて毛利幸松丸の外戚として元就に証人を出させるほどの強大な専権を振るい、尼子氏に通じて相合元綱を擁立しようと画策した高橋興光ら高橋氏一族を討伐。 |
| 高橋氏の持つ安芸から石見にかけての広大な領土を手に入れたが、高橋一族討伐の際、元就は高橋氏の人質となっていた長女を殺害されたと言われるがそれを裏付ける一次史料はない。 |
| 一方で、長年の宿敵であった宍戸氏とは関係の修復に腐心し、娘を宍戸隆家に嫁がせて友好関係を築き上げた。 |
| その他、一時大内氏に反乱を起こし窮地に追いやられた天野氏や、安芸武田氏と関係が悪化した熊谷氏とも誼を通じ、安芸国人の盟主としての地位を確保した。 |
| 天文2年(1534年)9月23日付けの『御湯殿上日記』(宮中の日誌)に、大内義隆より「大江のなにがし」を応永の先例に倣って官位を授けるように後奈良天皇に申し出があったという記事がある。 |
| これは毛利(大江)元就をその祖先である毛利光房が称光天皇より従五位下右馬頭に任命された故事に倣って同様の任命を行うようにという趣旨であった。 |
| 元就は義隆を通じて4,000疋を朝廷に献上する事で叙任が実現の運びとなった。 |
| これによって推挙者である大内義隆との関係を強めるとともに、当時は形骸化していたとは言え、官位を得ることによって安芸国内の他の領主に対して朝廷・大内氏双方の後ろ盾があることを示す効果があったと考えられている。 |
| また、同時期には安芸有力国人である吉川氏当主吉川興経から尼子氏との和睦を斡旋されるが、逆に尼子方に断られてしまっている。 |
| 天文8年(1539年)、従属関係にあった大内氏が、北九州の宿敵少弐氏を滅ぼし、大友氏とも和解したため、安芸武田氏の居城佐東銀山城を攻撃。 |
| 尼子氏の援兵を武田氏は受けたものの、これにより、城主武田信実は一時若狭へと逃亡している。 |
| 後に信実は出雲の尼子氏を頼っている。 |
| 天文9年(1540年)には経久の後継者である尼子詮久率いる3万の尼子軍に本拠地・吉田郡山城を攻められるが(吉田郡山城の戦い)、元就は即席の徴集兵も含めてわずか3000の寡兵で籠城して尼子氏を迎え撃った。 |
| 家臣の福原氏や友好関係を結んでいた宍戸氏らの協力、そして遅れて到着した大内義隆の援軍・陶隆房の活躍もあって、この戦いに勝利し、安芸国の中心的存在となる。 |
| 同年、大内氏とともに尼子氏の支援を受けていた安芸武田氏当主・武田信実の佐東銀山城は落城し、信実は出雲へと逃亡。 |
| 安芸武田氏はこれにより滅亡した。 |
| また、安芸武田氏傘下の川内警固衆を組織化し、後の毛利水軍の基礎を築いた。 |
| 天文11年(1542年)から天文12年(1543年)にかけて、大内義隆を総大将とした第1次月山富田城の戦いにも、元就は従軍。 |
| しかし吉川興経らの裏切りや、尼子氏の所領奥地に侵入し過ぎたこともあり、補給線と防衛線が寸断され、更には元就自身も4月に富田城塩谷口を攻めるも大敗し、大内軍は敗走する。 |
| この敗走中に元就も死を覚悟するほどの危機にあって渡辺通らが身代わりとして奮戦の末に戦死、窮地を脱して無事に安芸に帰還することができた。 |
| しかし大内・尼子氏の安芸国内における影響力の低下を受けて、常に大大名の顔色を窺う小領主の立場から脱却を考えるようになる。 |
| 元就は手始めに天文13年(1544年)に、強力な水軍を擁する竹原小早川氏の養子に三男・徳寿丸を出した。 |
| 同年、備後三吉氏へ遠征に出た尼子晴久の兵を撃退すべく、児玉就忠・福原貞俊を派遣するが敗北している。 |
| 天文16年(1547年)、妻・妙久の実家である吉川家の乗っ取りを企む。 |
| 当時吉川経世ら一族や重鎮と、新参の家臣との対立が激しくなっており、家中の統制ができなくなっていた。 |
| 元就は、吉川国経の外孫に当たる次男・元春を吉川氏に養子として送り込んだ。 |
| 吉川家当主の吉川興経を強制的に隠居させ、興経の隠居後の天文19年(1550年)に、将来の禍根を断つため興経とその一家を殺害。 |
| 一方で、先の月山富田城の戦いで当主・小早川正平を失っていた沼田小早川氏の後継問題にも介入した。 |
| 当主・小早川繁平が幼少かつ盲目であったのを利用して家中を分裂させ、後見役の重臣であった田坂全慶を謀殺した上で繁平を出家に追い込み、分家の竹原小早川当主で元就の実子である小早川隆景を後嗣にさせている。 |
| これにより、小早川氏の水軍を手に入れ、また「毛利両川体制」が確立、毛利氏の勢力拡大を支えることになるのである。 |
| これにより安芸・石見に勢力を持つ吉川氏と、安芸・備後・瀬戸内海に勢力を持つ小早川氏、両家の勢力を取り込み、安芸一国の支配権をほぼ掌中にした。 |
| 天文19年(1550年)7月13日に家中において専横を極めていた井上元兼とその一族を殺害し、その直後に家臣団に対して毛利家への忠誠を誓わせる起請文に署名させ、集団の統率力を強化。 |
| 後に戦国大名として飛躍するための基盤を構築していく。 |