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毛沢東
毛沢東とは
生い立ち
教師時代
中国共産党創立
第1次国共内戦-日華事変時代
第2次国共内戦
中華人民共和国建国
独裁化
中ソ対立
文化大革命
米中接近と日中国交締結
死去
死後
参考文献
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1893年
清国(中国)湖南省湘潭県韶山村の小作農の家庭にて、父...
1907年
弱冠14歳でと最初の結婚をするも、1910年、年上の妻はわ...
毛 沢東(もう たくとう、1893年12月26日 - 1976年9月9日)は、中華人民共和国の政治家、軍人、思想家。
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1893年、清国(中国)湖南省湘潭県韶山村の小作農の家庭にて、父・毛貽昌、母・文素勤の5人兄弟の三男として生まれる。
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ただし、長男と次男は夭逝したため、事実上の長男扱いであった。
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毛沢東はその才覚で地主までなりあがった厳格な父によって子供のうちから労働に従事させられつつ、勉学にも励んだ。
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小学校を卒業後、長沙の中学に通う。
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1907年、弱冠14歳で羅一秀と最初の結婚をするも、1910年、年上の妻はわずか20歳で死去した。
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なお、中学入学の際に明治維新に関心を持っていた毛は、父に幕末の僧月性の詩(將東遊題壁)を贈り、意気込みを示した。
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將東遊題壁 釋月性。
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男兒立志出郷關 男児 志を立てて 郷関を出づ。
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學若無成不復還 学 もし成るなくんば 復還らず。
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埋骨何期墳墓地 骨を埋むるに 何ぞ墳墓の地を 期せんや。
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人間到處有靑山 人間 到るところ青山あり。
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その後、従兄から贈られた中国近代化を説く本に刺激を受けて16歳で故郷を離れ、いくつかの学校や地方軍などを転々とし、
アダム・スミス やモンテスキューなどの社会科学系の書物に触れる。
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1917年、孫文の同志だったアジア主義者の
宮崎滔天 を故郷の湖南省の講演に招待し、日本が欧米白人のアジア支配を打破したことを聞いて喜んだ。
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毛は日露戦争について米国記者エドガー・スノウに、戦争当時の日本の歌詞を紹介し、次のように告白している(なお左記に紹介する詩が、日露戦争時のものかどうかには諸説ある)。
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「雀は歌い 鶯は踊る 春の緑の野は美しい ざくろの花は紅にそまり 柳は青葉にみち 新しい絵巻になる 当時わたしは日本の美を知り、感じとり、このロシアに対する勝利の歌に日本の誇りと力を感じたのです」『中国の赤い星』、筑摩文庫。
■
辛亥革命では、湖南の連隊兵士として入隊する。
■
清朝が事実上崩壊したことにより、毛は軍を除隊して学校へ戻った。
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■
1918年に湖南省立第一師範学校を卒業。
■
1919年の五・四運動の間は、教授で恩師の
楊昌済 (のち、義理の父親となる)とともに中華民国北京政府の首都である北京へ上京する。
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楊の推薦により、北京大学の図書館にて館長の
李大釗 とともに司書補として勤めるかたわら、『
新青年 』の熱心な寄稿者となる。
■
毛は同大学の聴講生として登録し、
陳独秀 、胡適、そして銭玄同のような知識人たちと2、3の講義やセミナーに出席した。
■
上海に滞在中の毛は、共産主義理論を取り入れるためにできる限り読書に従事した。
■
翌1919年、帰郷して長沙の初等中学校で歴史教師となり、『湘江評論』を創刊するが4号で省政府から発禁処分を受ける。
■
この頃、新式学校の設立を計画したり
陳独秀 や
李大釗 と会ったりしており、1920年には長沙師範学校付属小学校長になると同時に啓蒙的な書籍を扱う出版社を設立している。
■
父の遺産や事業による収入はかなりのもので、毛沢東の生活は安定していたといわれる。
■
同年、楊の娘で学友の
楊開慧 と結婚し、岸英・岸青・岸龍の男子3人をもうけた。
■
1930年10月、
蒋介石 率いる中国国民党は
楊開慧 と岸英・岸青を捕えた(岸龍はすでに死亡)。
■
楊開慧 は殺害され、その後、息子たちは親類に送り返されている。
■
この頃、毛は江西省出身の女性・
賀子珍 と暮らしていたHollingworth, Clare, Mao and the men against him (Jonathan Cape, London: 1985), p. 45.。
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1921年7月23日、毛沢東は第1回中国共産党全国代表大会(党大会)に出席する。
■
2年後、第3回党大会で中央委員会の委員5人のうちの1人に選ばれた。
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数年後、国民党の湖南支部を組織するようにという共産党中央委員会と国民党中央委員会からの指示を受けた毛は湖南に戻る
■
1924年の毛は、国民党の最初の全国大会の代表であり、国民党中央委員会の控えの幹部に選ばれていた。
■
同年、毛は国民党上海支部の幹部・省の書記となった。
■
毛は指導者の地位を生かして労働組合のオルグに力を注ぐ。
■
毛はしばらくの間、共産党が革命の重要な都市として重視した上海に残った。
■
しかしながら、党は労働組合運動を組織し、民族主義の同盟国との関係を築くという大きな難題に遭遇した。
■
党は困窮し、毛は革命に幻滅を感じて韶山に戻ってきた。
■
自宅にいる間の1925年に上海と広州で発生した暴動を聞いたことで、毛の関心は蘇った。
■
毛の政治的野心は蘇り、第2回国民党全国代表大会の議会の準備に参加するため、国民党の本部がある広東へ向かった。
■
1925年、毛は国民党の宣伝主任代行となった。
■
1927年の早期に、毛は緊急会議が開催された湖南へ戻り、
蒋介石 による北伐に続く農民による暴動の調査に基づく報告書を作成した。
■
これは毛の革命理論の応用の成功に対する最初の決定的な段階と考えられている。
■
コミンテルンの指導に従って国共合作に重要な役割を果たすが、1927年の上海クーデターで国共合作が崩壊すると、毛沢東は江西省で蜂起(
秋収起義 )するも失敗、配下の農民兵とともに孤立し、家族とも離れて湖南省と江西省の境にある井崗山に立てこもることになった。
■
この根拠地に潜伏中に
賀子珍 と関係を持ち、1929年には長女が誕生している。
■
同年、毛沢東は井崗山を去り、瑞金に江西ソヴィエトを建設、「中華ソヴィエト共和国臨時中央政府」の樹立を宣言してその主席となるが、以後4年間、国民党軍の執拗な攻撃にさらされた。
■
さらに中国共産党の本部が上海から瑞金に移ってきたことにより、毛沢東はソ連留学組中心だった党指導部によって主導権を奪われ、1932年8月には軍の指導権をも失った。
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■
国民党軍の度重なる攻撃によって根拠地を維持できなくなった紅軍は、1934年10月18日、ついに江西ソヴィエトを放棄して敗走、いわゆる「長征」を開始する。
■
この最中の1935年1月15日に、貴州省遵義で開かれた中国共産党中央政治局拡大会議(遵義会議)で、博古らソ連留学組中心の党指導部は軍事指導の失敗を批判されて失脚し、新たに
周恩来 を最高軍事指導者、張聞天を党中央の総責任者とする新指導部が発足した。
■
毛沢東は中央政治局常務委員に選出されて新指導部の一員となり、
周恩来 の補佐役となった。
■
しかし、毛沢東は
周恩来 から実権を奪っていき、8月19日、中央書記処(現在の中央政治局常務委員会)の決定により、毛沢東は
周恩来 に代わって軍事上の最高指導者の地位に就いた。
■
1936年秋には陝西省延安に根拠を定め、以後自給自足のゲリラ戦を指示。
■
同年12月12日に西安で起きた
張学良 ・楊虎城らによる
蒋介石 監禁事件(西安事件)で、コミンテルンの仲介により宿敵である
蒋介石 と手を結び、第二次国共合作を構築。
■
1937年に始まった日本軍との間で起きた日華事変では抗日戦線を展開、国民党軍とともに、アメリカやソビエト連邦などの連合国から得た軍事援助を元に日本軍と対峙する。
■
しかし、日中戦争において日本軍と交戦したのは主に国民党軍で、共産党軍は山奥の延安に隠れながら、朱徳率いる八路軍が日本軍へのゲリラ戦を行う以外は傍観し、力を温存した。
■
なお毛がまとめた持久戦論では日本軍の戦略を『包囲は多いが殲滅が少ない』と批判している。
■
1938年には長征時代の妻・
賀子珍 と離婚し、不倫の上で上海の元女優・江青と結婚した。
■
1940年には『新民主主義論』を著し、のちの「人民中国」の先見の明を示した。
■
遵義会議以降、党の実権を掌握していった毛沢東だったが、1942年からの整風運動によって党内の反毛沢東派を粛清していき、党内の支配権を確実なものとした。
■
1943年にはソ連留学組だった中央書記処総書記の張聞天を排除し、同年3月20日、中央政治局主席兼中央書記処主席(事実上の党主席)に就任して党の最終決定権を獲得した。
■
1945年、第7回党大会で毛沢東思想が党規約に指導理念として加えられ、6月19日の第7期1中全会において、毛沢東は正式に中国共産党中央委員会主席に就任した。
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■
1945年8月の中華民国を含む連合国に対する日本の降伏と、満州国を含む中国大陸からの日本軍の撤退後は、
蒋介石 率いる中国国民党軍との国共内戦となり、中国人民解放軍を率いて戦うこととなる。
■
中国人民解放軍はソ連からの軍事援助を受けつつ、アメリカ政府内の共産主義シンパの抵抗により、アメリカ政府からの軍事支援を削減された国民党軍に勝利を重ね、徐州を中心とする大規模な准海戦役に勝利し、1949年1月には北平(北京)に入城する。
■
同年4月23日には国民党政府の根拠地・首都南京を制圧した。
■
1949年10月1日、毛沢東は天安門で中華人民共和国の建国を宣言した。
■
その後に勃発した朝鮮戦争では、ソビエト連邦とともに北朝鮮を支持して中国人民志願軍を派遣。
■
この戦争で、長男の
毛岸英 を国連軍の一国であるアメリカ空軍の爆撃で失っている。
■
建国後は国家主席として階級を撤廃した共産主義社会の建設に力を注ぐが、1956年の「百花斉放
百家争鳴 」運動で、多くの知識人から硬直した政策を批判されたため、これを弾圧するために1957年6月に反右派闘争を開始し、少なくとも全国で50万人以上を失脚させ投獄した。
■
さらに「イギリスを15年以内に追い越す」ことを目標とし、1958年に大躍進政策を発動。
■
大量の鉄増産のため、農村での人海戦術に頼る「土法高炉」と呼ばれる原始的な製造法による小規模分散生産を採用し、量のみを重視し質は全く度外視したため、使い物にならない鉄くずが大量に生産された。
■
こういったことから大躍進は大失敗し、発動されてから数年で2000万人から5000万人以上の餓死者を出した
三橋貴明 は大躍進政策について、毛沢東に命じられたノルマを達成できなかった各地の共産党員たちは、揃って水増しした「数字」を中央政府に送り、それを受け取った毛沢東は気を良くしてさらに水増ししたノルマを命じるという悪循環に陥った結果、推計5000万人が餓死し、大躍進政策は史上最大の愚行に終わったと指摘する(『中国経済 隠された危機』、42ページ)。
■
1950年代中旬からは中ソ対立が深刻化し、1960年には中華人民共和国に派遣されていたソ連の技術者全員が引き上げたほか、キューバ危機におけるソビエト政府の対応を公式に非難するなど、かつて蜜月であった中ソ関係は一気に冷え込むこととなった。
■
こうした大躍進の失敗は主席である毛沢東の権威を傷つけ、1959年に国家主席の地位を
劉少奇 に譲ることとなり、さらには1962年1月に開催された七千人大会において大躍進政策に対する自己批判をせざるを得ない状況にまで追い込まれた。
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1965年11月、北京市副市長でもあった呉晗の『海瑞罷官』を「大毒草」であるとした
姚文元 の「新編歴史劇『海瑞罷官』を評す」の論文が上海の新聞『文匯報(ぶんわいほう)』に掲載、これが端緒となり、1966年5月北京大学に反革命批判の壁新聞が貼り出され、事実上文化大革命が始まった。
■
毛沢東は過激派青年たちの暴力行為に対し「
造反有理 (謀反には理由がある)」として積極的に支持、自ら天安門広場に赴き、100万名の紅衛兵を煽動し「四旧打破」のスローガンを打ち立て、運動は全国の学生ら、青年層に拡大した。
■
これらにより、江青や林彪らを中心とし、実権派(経済政策の柔軟化を唱える党員は「走資派」という蔑称のレッテルを貼られた)・修正主義者(「
スターリン 批判」をきっかけに個人崇拝を厳しく戒め始めた当時のソ連共産党・フルシチョフ路線に倣い、毛沢東個人崇拝見直しと代替権力として党官僚強化を唱えた党員をこう呼称した)として糾弾する広汎な暴力的大衆運動である「
プロレタリア 文化大革命(文革)」への流れが決定付けられた。
■
文化大革命では、紅衛兵による大量の殺戮が行われ、その範囲は
劉少奇 (1968年に失脚)ら中央指導部にまでおよび、教師ら「知識人」や、中国国民党と少しでも関わりのあった者を徹底的に迫害、文化財を破壊する等の極端な「左」傾偏向主義運動に発展し、その犠牲者の合計数は数百万数千万とも言われている。
■
この流れの中、毛沢東の奪権目標であった
劉少奇 ・
鄧小平 らの「実権派」は次々と打倒されたが、紅衛兵組織は互いに抗争を始め、毛沢東ですら統制不可能な状況に陥った。
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■
毛沢東が世界に注目された最後の事件は1972年2月18日、北京における毛沢東=ニクソン会談である。
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その後、1972年アメリカの同盟国である日本の首相(当時)の
田中角栄 もニクソンのあとを追うように訪中して首脳会談を行い、国交を樹立(「正常化」)する。
■
right|150px|thumb|天安門広場に飾られる毛沢東の肖像画。
■
毛沢東の死の直後に腹心の
張春橋 、江青、
姚文元 、
王洪文 の四人組は逮捕・投獄され、文化大革命は事実上終結した。
■
遺体は現在、北京市内の天安門広場にある毛主席紀念堂内に安置され、永久保存、一般公開されている。
■
毛沢東の死去後、江青ら四人組を逮捕失脚させて党主席に就任した
華国鋒 は「二つのすべて」(毛沢東の指示は全て守る)の方針を打ち出した。
■
毛沢東思想として知られる彼の共産主義思想は、海外、特にインド以東のアジアとラテンアメリカの共産主義者にも影響を与えた。
■
ユン・チアン、ジョン・ハリデイ著(
土屋京子 訳)『マオ――誰も知らなかった毛沢東』上・下巻(講談社、単行本、2005年11月、ISBN 4-06-206846-X/ISBN 4-06-213201-X)。
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支離滅裂で大躍進の意味すら理解できていない悲惨な本
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