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つながりの強いひと
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水野忠成
江戸時代の大名、老中。駿河国沼津藩第2代藩主。沼津藩水野家9代。先代の水野忠隣の末期養子。幼名は牛之助、友五郎。官途は大和守、出羽守。のち従四位下、... |
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田沼意次
江戸時代中期の武士・大名。遠江相良藩の初代藩主である。相良藩田沼家初代。 |
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水野忠徳
江戸時代末期(幕末)の旗本、幕臣。諏訪頼篤の子。文政5年(1822年)に水野忠長の養嗣子となる。忠敬の父。初名は忠篤。号は癡雲(ちうん)。 |
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松平定信
江戸時代の大名、政治家。陸奥国白河藩第3代藩主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。定綱系久松松平家第9代当主。 |
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水野忠義
駿河沼津藩の第3代藩主。沼津藩水野家10代。寛政4年(1792年)9月26日、第2代藩主・水野忠成の三男として江戸浜町屋敷で生まれる。文化5年(1808年)12月11日... |
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水野忠恒
水野忠恒(みずのただつね、元禄14年8月6日(1701年9月8日)-元文4年6月28日(1739年8月2日))は江戸時代の大名。信濃松本藩第6代藩主。沼津藩水野家6代。4... |
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大久保忠佐
戦国時代から江戸時代初期にかけての武将、大名。駿河沼津藩主。徳川氏の家臣。大久保忠員の子。 |
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水野忠敬
駿河沼津藩の第8代藩主。のちに上総菊間藩主。沼津藩水野家15代。嘉永4年(1851年)7月10日、沼津藩水野家の分家の旗本・水野忠明の次男として生まれる。慶応... |
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松平康福
江戸時代中期の大名、政治家。老中、老中首座。はじめ5万400石だったが加増され6万余石となる。石見浜田藩主、下総古河藩主、三河岡崎藩主を経て再び浜田藩主... |
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水野忠誠
江戸時代末期の大名、老中。駿河国沼津藩第7代藩主。沼津藩水野家14代。 |
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青山幸完
美濃八幡藩の第2代藩主。郡上藩青山家6代。 |
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水野忠寛
はじめ旗本。のちに駿河沼津藩の第6代藩主。 [編集] 経歴. 文化4年(1807年)11月4日、沼津藩水野家の分家の旗本である水野忠紹(2代藩主 水野忠成の次男)の... |
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松平信志
丹波亀山藩の第5代藩主。丹波亀山藩形原松平家10代。天明5年(1785年)7月30日、丹波亀山藩分家で大身旗本の松平庸孝の長男として生まれる。享和2年(1802年... |
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徳川家治
徳川家治(とくがわいえはる)は江戸幕府の第10代将軍である(在職:宝暦10年(1760年)-天明6年(1786年))。父は第9代将軍・徳川家重。母は側室・お幸の方... |
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水野忠武
駿河沼津藩の第4代藩主。沼津藩水野家11代。文政7年(1824年)7月12日、第3代藩主・水野忠義の次男として江戸浜町屋敷で生まれる。文政8年(1825年)に兄の惣... |
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水野忠良
駿河沼津藩の第5代藩主。沼津藩水野家12代。天保5年(1834年)8月5日、第3代藩主・水野忠義の五男として江戸外桜田屋敷で生まれる。天保15年(1844年)に兄が... |
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徳川家慶
江戸幕府の第12代征夷大将軍(在位:1837年-1853年)である。11代将軍徳川家斉の次男で、母は側室の楽(香琳院)であった。 |
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田沼意正
陸奥下村藩の第5代藩主。遠州相良藩の初代藩主。相良藩田沼家6代。藩祖・田沼意次の四男。母は側室田代氏。正室は水野忠友の娘(のち離縁)。子は田沼意留(... |
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牧野康周
親
信濃小諸藩の第2代藩主。越後長岡藩分家牧野家4代。小諸藩初代藩主・牧野康重の長男。正室は六郷政晴の娘・玉子。子に牧野康満(長男)、本庄道堅(次男)、... |
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プロフィール
水野忠友(みずのただとも)は、江戸時代中期の旗本、大名、老中。三河国大浜藩主、駿河国沼津藩初代藩主。沼津藩水野家8代。
生涯
| 享保16年(1731年)2月3日、大身旗本水野忠穀の長男として生まれる。 |
| 水野家は元々信濃松本で7万石を食んでいたが水野忠恒(忠友の従兄にあたる)が刃傷事件を起こして改易され、家督は忠恒の叔父・忠穀に相続は許されたものの、大名の身分を剥奪され、信濃佐久郡7000石の旗本として辛うじて名跡を保っていた。 |
| 忠友は父死去に伴い12歳で家督を相続し、家治小姓(元文4年(1739年))、小姓組番頭格(宝暦8年(1758年))、御側衆(宝暦10年(1760年))を経て、若年寄となり、明和2年(1765年)に加増を受け都合1万3000石になり、三河大浜に城地を与えられ、再び大名に復活する。 |
| 更に駿河沼津に移り最終的に3万石となる。 |
| 幕府では一貫して田沼意次の重商主義政策を支え、若年寄、側用人、勝手掛老中格をへて、正式な老中になる。 |
| 天明6年(1786年)、意次失脚と同時に、忠徳と名乗らせ養嗣子としていた意次の子息を廃嫡とし、かわりに分家旗本の水野忠成(大和守)を養嗣子としたが、遅きに失した感は否めず、松平定信の指令で免職の憂き目にあう。 |
| 10年後の寛政9年(1797年)に再び老中(西丸付)に返り咲き、在職中の享和2年(1802年)9月19日に死去した。 |
| 後を養嗣子の水野忠成が継いだ。 |
経歴
| 1731年(享保16年)2月3日、誕生。 |
| 1742年(寛保2年)11月、家督相続。 |
| 1758年(宝暦8年)10月15日、小姓組番頭格奥勤兼御側御用取次見習に異動。 |
| それまでは、西丸小姓頭取。 |
| 1760年(宝暦10年)4月1日、御側御用取次側衆に異動。 |
| 1765年(明和2年)1月28日、1万3000石の三河国大浜藩主となる。 |
| 1768年(明和5年)11月15日、若年寄に異動し、勝手掛となる。 |
| 1777年(安永6年)4月21日、側用人、に異動。 |
| 加増(7000石)、駿河国沼津に国替(2万石)。 |
| 1780年(安永9年)、沼津城築城。 |
| 1781年(天明元年)9月18日、老中格に異動。 |
| 加増(5000石)、10月1日、勝手掛となる。 |
| 1785年(天明5年)1月29日、老中に異動。 |
| 加増(5000石)。 |
| 1788年(天明8年)3月28日、老中免職となり、雁間詰となる。 |
| 1797年(寛政9年)11月29日、西丸(徳川家慶付き)老中に就く。 |
| 1802年(享和2年)9月19日に死去、享年72。 |
| 法名:脩徳院譲譽興仁懿翁大居士。 |
| 墓所:静岡県沼津市出口町の千本山乘運寺と東京都文京区小石川の無量山傳通院壽經寺。 |
官歴
| 1747年(延享4年)12月19日、従五位下豊後守に叙任。 |
| 1768年(明和5年)8月16日、出羽守に遷任。 |
| 1777年(安永6年)4月21日、従四位下に昇叙。 |
| 1781年(天明元年)11月15日、侍従兼任。 |
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1731年
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大身旗本水野忠穀の長男として生まれる |
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1765年
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加増を受け都合1万3000石になり、三河大浜に... |
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