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つながりの強いひと
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中井 俊已 このカテゴリへ戻る
【イメージを拡大】 要相談 (交通費・宿泊費の実費が別途必要。)
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識別番号: m055
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プロフィール
- 永井隆とは
- 明治
- 昭和(戦前)
- 昭和(戦後)
- 長崎原爆投下の永井による宗教的解釈
- 死後
- 著書
- 関連施設
- 関連サイト
永井隆(ながいたかし、1908年(明治41年)2月3日-1951年(昭和26年)5月1日)は医学博士。「長崎の鐘」、「この子を残して」の著書がある。
明治
| 1908年(明治41年)2月3日-島根県松江市にて、医師であった父寛、母ツネの長男(5人兄弟)として誕生。 |
| 祖父の文隆より1字を授かり隆と命名される。 |
| 父の医院開業のため飯石郡飯石村(現・雲南市三刀屋町)に移り住み、幼少青年期をすごす。 |
昭和(戦前)
| 1928年(昭和3年)4月-(旧制)島根県立松江中学校を経て、長崎医科大学(現:長崎大学医学部)に入学。 |
| 大学入学まではスポーツの苦手な優等生であったが、身長171センチ、体重70キロと大柄な体格であったことから長崎医大篭球部に誘われ、メモ書きを怠らない熱心さで、明治神宮で行なわれた全国大会3等、西日本選手権制覇などに貢献。 |
| 1931年(昭和6年)。 |
| 浦上天主堂近くの森山家に下宿。 |
| 森山家の一人娘の緑(洗礼名:マリア)は後に妻となる人物。 |
| 森山家はカトリックであったことから、カトリックに興味を持ち始めたと言われている。 |
| 1932年(昭和7年)。 |
| 3月-大学の卒業式では答辞を読むことになっていたが、直前に急性中耳炎になり、耳が不自由になる。 |
| そのため、内科医の道を断たれ、放射線科を専攻することとなる。 |
| 4月-大学卒業後、助手として放射線医学教室にとどまり、放射線物理療法の研究に取り組む。 |
| 1933年(昭和8年)2月1日-幹部候補生として広島歩兵連隊に入隊し、満州事変に出征する。 |
| 1934年(昭和9年)。 |
| 2月1日-出征より帰還し、大学の研究室助手に復帰。 |
| 6月-洗礼を受け、カトリックの信徒組織である聖ヴィンセンシオ会に入会(洗礼名:パウロ)。 |
| 無料診断・無料奉仕活動などを行い、この頃に培った奉仕の精神が、晩年の行動へと結びついて行く。 |
| 8月-森山緑と結婚。 |
| 緑との間に一男二女長女は原爆投下前に夭折読みは「ようせつ」。 |
| 意味は「若くして亡くなること」。 |
| をもうけた。 |
| 1937年(昭和12年)-長崎医科大学(現長崎大学医学部)の講師に就任。 |
| 日支事変に第5師団衛生隊隊長として出征。 |
| 1940年(昭和15年)-長崎医科大学助教授・物理的療法科部長に就任。 |
| 1944年(昭和19年)3月3日-『尿石の微細構造』で医学博士号を授与。 |
| 1945年(昭和20年)。 |
| 6月-長年の放射線研究による被曝で白血病と診断され、余命3年の宣告を受ける。 |
| (正常値は白血球7000程度、赤血球500万程度)。 |
| 8月9日-長崎市に原子爆弾が投下。 |
| 爆心地から700メートルの距離にある長崎医大の診察室にて被爆。 |
| 右側頭動脈切断という重傷を負うも、布を頭に巻くのみで救護活動にあたった。 |
| 8月10日-帰宅。 |
| 台所跡から骨片だけの状態となった緑の遺骸を発見し、その骨片を拾い埋葬する。 |
| 8月12日-救護班を組織し、被爆者の救護に当たる。 |
昭和(戦後)
| 1945年(昭和20年)。 |
| 9月10日頃-昏睡状態に陥る。 |
| 直前、辞世の句として一句。 |
| 「光りつつ秋空高く消えにけり」。 |
| 9月20日-再び昏睡状態に陥る。 |
| このため救護班は解散。 |
| 10月15日-「原子爆弾救護報告書」(第11医療隊)を作成し、長崎医大に提出。 |
| 1946年(昭和21年)。 |
| 1月28日長崎医科大学教授に就任。 |
| 7月-長崎駅近くで倒れる。 |
| 以来、病床に伏すこととなる。 |
| 11月17日-長崎医学会にて「原子病と原子医学」をテーマに研究発表を行う。 |
| 1948年(昭和23年)right|250px|thumb|永井隆が死までの3年あまりの日々を過ごした如己堂(長崎県長崎市)。 |
| 荒野となった浦上の地に花を咲かせようと、桜の苗木1000本を浦上天主堂をはじめとする各所に寄贈。 |
| これらの桜は「永井千本桜」と呼ばれた。 |
| 3月-浦上の人たちやカトリック教会の協力により、永井が療養を行なうための庵が完成する。 |
| 「己の如く人を愛せよ」の言葉から、庵の名前を「如己堂(にょこどう)」と名付ける。 |
| 8月-大学を休職し、療養に専念。 |
| 10月18日-来日中のヘレン・ケラーが見舞いに訪れる。 |
| 1949年(昭和24年)。 |
| 5月27日-昭和天皇に謁見する。 |
| 5月30日-ローマ教皇特使としてギルロイ枢機卿が見舞いに訪れる。 |
| 8月1日-長崎市長から表彰を受ける。 |
| 9月30日-長崎医科大学教授を退官。 |
| 12月3日-長崎市名誉市民の称号を受ける。 |
| 1950年(昭和25年)。 |
| 5月14日-ローマ教皇特使としてフルステンベルク大司教が見舞いに訪れ、ロザリオを下賜される。 |
| 1951年(昭和26年)。 |
| 2月3日-白血球数が39万を超える。 |
| 4月25日-右肩内出血により執筆不能となる。 |
| 5月1日-長崎大学付属病院に緊急入院。 |
| 5月2日-遺体解剖(医学解剖に献体する)。 |
| 5月3日-教会葬が執り行われる。 |
| 5月14日-長崎市公葬が執り行われ、長崎市坂本町にある国際外人墓地に葬られる。 |
長崎原爆投下の永井による宗教的解釈
| カトリック教徒でもあった永井は、原爆投下を「神の御摂理」と解釈し、さらに、原爆死没者を「汚れなき小羊の燔祭(ホロコースト)」、生き残った被爆者は「神が与えた試練であり、神に感謝」すべきと説いていたことが、元長崎大学教育学部教授高橋眞司が提起した浦上燔祭説の中で論評されている。 |
| ホロコーストの古い記録は、フラウィウス・ヨセフス・ベン・マタティア著「ユダヤ戦記」の中に、以下のように残っており、神学研究者や研究熱心なクリスチャンの間で知られていた。 |
| 「イエスの福音書の流布とほぼ同年代に当たる紀元後70年8月(ユダヤ暦第6月8日、9日、10日)、エルサレム神殿に立て篭もった何千人ものユダヤ人が、ローマ軍とマタティア・ハスモン王朝の母系子孫であるアグリッパⅡ世の同盟軍によって、大量焼死(ホロコースト)させられた。 |
死後
| 1952年(昭和27年)長崎市に市立永井隆記念館が開館。 |
| 1998年(平成10年)からは長男の誠一が館長を務めた。 |
| 次女の茅乃は作家として「娘よ、ここが長崎です―永井隆の遺児、茅乃の平和への祈り」を刊行している。 |
| 1991年(平成3年)には、永井隆の故郷、島根県雲南市で「永井隆平和賞」が創設され、「平和を願い、人々を愛する心」を育て、やさしく夢のある21世紀の世界をつくるために、全国から「愛」と「平和」をテーマにした作文・小論文を毎年募集している。 |
著書
| 永井の脱稿した年と著作の発行年は必ずしも一致しない(没後に発行されたものも含まれる)。 |
| 長崎の鐘(1946年8月)。 |
| 原子野録音(1947年~1951年「聖母の騎士」誌上にて連載)。 |
| 亡びぬものを(1948年1月)。 |
| ロザリオの鎖(1948年3月)。 |
| この子を残して(1948年4月)。 |
| 生命の河(1948年8月)。 |
| 花咲く丘(1949年4月)。 |
| いとし子よ(1949年10月)。 |
| 乙女峠(1951年4月)。 |
| 如己堂随筆(1957年12月)。 |
| 長崎の花上・中・下(1950年日刊東京タイムス誌上にて連載)。 |
関連施設
| 如己堂、永井隆記念館(長崎県長崎市)。 |
| 浦上天主堂(長崎県長崎市)-著書「長崎の鐘」の舞台。 |
| 永井隆博士記念館(島根県雲南市)。 |
| 長崎市立山里小学校あの子らの碑。 |
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永井隆さんについてのひとこと紹介
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