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つながりの強いひと
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中村八大
作品提供
青島(当時は中華民国、現在の中華人民共和国)出身の作曲家・ジャズピアニスト。『上を向いて歩こう』、『こんにちは赤ちゃん』、『遠くへ行きたい』、『明... |
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坂本九
作品提供
日本の俳優・タレント・歌手・司会者。神奈川県川崎市川崎区出身。日本大学中学校卒業、日本大学高等学校中退。愛称は九ちゃん(きゅうちゃん)。妻は女優・... |
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小沢昭一
小沢昭一(おざわしょういち、本名:小澤 昭一(読み同じ)、1929年4月6日-)は日本の俳優、俳人、エッセイスト、芸能研究者、元放送大学客員教授。日本新劇... |
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矢崎泰久
矢崎泰久(やざきやすひさ、1933年1月30日-)は元「話の特集」の編集長、フリージャーナリスト。私塾「学校ごっこ」常任講師。 |
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いずみたく
作品提供
日本の作曲家。元参議院議員(第二院クラブ)。本名は今泉隆雄(いまいずみたかお)。 |
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野坂昭如
野坂昭如(のさかあきゆき、1930年(昭和5年)10月10日-)は日本の作家、歌手、作詞家、タレント、政治家。放送作家としての別名は「阿木由紀夫」(あきゆき... |
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遠藤泰子
神奈川県横浜市出身のフリーアナウンサーである。元TBSアナウンサー。TBSラジオの『永六輔の誰かとどこかで』の中で、身長148cmで、血液型はBと話した。 |
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黒柳徹子
日本の女優、タレント、司会者、エッセイスト、ユニセフ親善大使、平和運動家である。血液型はA型。愛称は「トットちゃん」、「チャック」。日本のテレビ放送... |
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永千絵
娘
映画エッセイスト。成城大学文芸学部卒業。永六輔の長女。「月刊クロスロード」に連載中。 |
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渥美清
日本の俳優。本名、田所康雄(たどころやすお)。愛称は、寅さん、風天(俳号) |
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瀬戸内寂聴
日本の小説家、天台宗の尼僧。旧名は瀬戸内晴美(せとうちはるみ)。僧位は僧正。1997年文化功労者、2006年文化勲章。学歴は徳島県立高等女学校(現:徳島県... |
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中山千夏
友達
日本の作家。元女優、テレビタレント、歌手、声優、元参議院議員。50年におよぶ芸歴と多彩な活動歴を持つ。 |
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住井すゑ
奈良県出身の小説家。代表作は『橋のない川』で、部落差別について取り組む。夫は編集者・農民文学者の犬田卯。ジャーナリスト・エッセイストの増田れい子は... |
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井上ひさし
日本の小説家、劇作家、放送作家である。文化功労者、日本藝術院会員。本名は井上廈(いのうえひさし)。1961年から1986年までの本名は内山廈(うちやまひさ... |
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山下勇三
山下勇三氏死去/グラフィックデザイナー 2008/02/04 13:51 メールで記事を紹介 印刷する 一覧へ 山下 勇三氏(やました・ゆうぞう=グラフィックデ... |
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辛淑玉
友達
東京都生まれの在日韓国人3世。実業家、作家、カリフォルニア大学サンディエゴ校客員研究員。 |
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永麻理
娘
日本のフリーアナウンサーである。株式会社クリエートプロ所属。 |
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三木鶏郎
スカウト
東京府東京市麹町区(現・東京都千代田区)出身の昭和前期から平成前期まで活躍していた作詞家、作曲家、放送作家、構成作家、演出家。本名は繁田裕司(しげ... |
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三波春夫
作品提供
新潟県三島郡越路町(現・長岡市)出身の大衆歌謡の歌手。紫綬褒章受章、勲四等旭日小綬章受章、新潟県民栄誉賞受賞。 |
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角川春樹
日本の実業家、映画監督、映画プロデューサー、俳人、冒険家。角川春樹事務所会長兼社長、幻戯書房会長。 |
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プロフィール
- 永六輔とは
- 略歴
- 楽曲作詞活動
- テレビ出演
- ラジオ出演
- 映画出演
- その他の活動
- 信条
- 出演しない放送局
- スポーツ等への嫌悪感
- 評価と批判
永六輔(えいろくすけ、1933年4月10日-)は、日本の元放送作家で、タレント、作詞家、エッセイストである。本名、永孝雄(えいたかお)。角刈り頭と細長い顔がトレードマーク。血液型はAB型。映画エッセイストの 永千絵は長女、元フジテレビアナウンサー(現在はフリー)の 永麻理は次女。 藤本義一とは遠戚である。
略歴
| 1946年に長野県立上田中等学校に入学するが翌年東京へ帰り早稲田中等学校に2年編入で転校。 |
| この間同校が学制改革により早稲田中学校・高等学校となったため3年で高等学校に昇級進学して卒業する。 |
| ラジオに興味を持ち、焼け跡の金属を換金し秋葉原で部品を買い鉱石ラジオを組み立てるグループを作る。 |
| そのグループのリーダーが渥美清であった。 |
| また、1948年から淀川長治が主催していた「東京映画友の会」の初期の参加メンバーであった佐藤有一『わが師淀川長治との五十年』(清流出版)より。 |
| 1952年に早稲田大学第二文学部へ入学。 |
| 大学では民俗学者であった宮本常一の影響を受ける。 |
| 在学中に三木鶏郎(『日曜娯楽版』の発案者)にスカウトされ、トリローグループのメンバーとして放送作家、司会者としてデビューする。 |
| 早稲田大学第二文学部史学科を1954年に中退。 |
| 以後、ラジオ・テレビ番組の企画・演出や、ピアニストで作曲家の中村八大らと組んでの歌曲作詞、また軽妙な語り口を生かしたタレントとしての活動など、マルチプレイヤーとして活動を続けてきた。 |
| 特にラジオパーソナリティーとしての知名度が高い。 |
| 古今の芸人についての研究や、政府によるメートル法の厳しすぎる施行で過度に排除された尺貫法の復権を志す運動永六輔『職人』岩波書店〈岩波新書〉、157-168頁。 |
| 、佐渡島の独立運動、「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)など、ユニークな取り組みも多い。 |
| 1958年には、石原慎太郎、江藤淳、谷川俊太郎、寺山修司、浅利慶太、黛敏郎、福田善之ら若手文化人らと「若い日本の会」を結成し、60年安保に反対した。 |
| 1960年代には1年間大阪で漫才作家の修行を積み若井はんじ・けんじらの漫才台本を書く。 |
| この頃にのちにやなぎ句会で一緒になる桂米朝と出会う。 |
| 1977年革新自由連合の結成に参加し政治活動にも進出。 |
| 1983年6月26日執行の第13回参議院議員通常選挙に比例代表区から出馬したが落選。 |
| 以降選挙への立候補からは撤退している。 |
| 1994年には『大往生』を発表。 |
| 日本のあちこちの無名の人々の生、死に関する様々な名言を集めたこの本は、200万部を超える大ベストセラーとなる。 |
| 他に、多方面でのエッセイの著作が多数ある。 |
| 2000年に、全業績で菊池寛賞を受賞。 |
| 2002年-2007年まで、校長が中山千夏、講師陣が永、矢崎泰久、小室等という私塾「学校ごっこ」に係わった。 |
| 2008年6月、第45回ギャラクシー賞において、ギャラクシー賞45周年記念賞を受賞。 |
| 趣味は旅と読書で、特に旅に関しては1年中どこかに出掛けている。 |
| スポーツではラグビーが好きである。 |
| 音楽ではシャンソンが好きで、石井好子との学生時代からの交友関係もあった。 |
| その一方で、演歌はあまり好きでないが「好きな演歌もある」そうである『誰かとどこかで』2010年11月11日放送分。 |
| 2010年11月3日、 |
| また、乳癌患者の支援者である事も公表。 |
| またパーキンソン病も患っていることも表明した。 |
| 外出中に転倒して肋骨を骨折した事もあり、それらの影響もあって呂律が回らないことが続き一時は引退も考えたと語る事もあったが、最近は症状が良くなりラジオでも会話が滑らかになってきている。 |
楽曲作詞活動
| 中村八大からの依頼がきっかけで作詞活動を始める永六輔『大往生』岩波書店〈岩波新書〉、1994年、122頁(1992年の『話の特集』8月号からの再録)。 |
| 1959年-1966年にかけて中村八大とのコンビにより数々のヒット曲を飛ばし、特に坂本九が唄って大ヒットした「上を向いて歩こう」がアメリカ合衆国でスキヤキ・ソングとタイトルを変え『ビルボード』のウィークリーチャート(Hot100)で1位(1963年6月15日付けから3週連続)に輝くという金字塔を打ち立てている。 |
| しかしラジオの活動に重きをおくようになった1967年以降は作詞活動から後退し、1969年以降は付き合いを除く作詞活動から撤退した。 |
| 永が作詞家として全盛期を迎えたのは、日本のミュージックシーンに作詞・作曲から歌まで1人で手がけるシンガーソングライターが登場した時期でもあった。 |
| ビートルズが来日した1966年は、美輪明宏が「ヨイトマケの唄」を、さらに荒木一郎が「空に星があるように」を、自ら作詞・作曲し歌ってヒットさせた年でもある。 |
| 作詞をやめた理由としては、「テレビに出れば何でも流行するのか」と怖くなったことがあげられる『放送80年 それはラジオからはじまった』NHKサービスセンター。 |
| また、永が多くの詞を提供した作曲家である中村八大といずみたくの2人は、同世代であり互いの曲を意識しあったが、共通の友人でもある永には複雑な思いがあった。 |
| 特に板挟みのような状況ではなく作曲家2人は仲が良かったのだが、それだけに「友達でいることを優先」したかったことも、その理由のひとつだったと後に本人は述べている永六輔『大往生』岩波書店〈岩波新書〉、1994年、120頁(『話の特集』1992年8月号の再録)・124頁(毎日新聞1992年6月16日の再録)。 |
| それとともに、シンガーソングライターの出現により「自分が歌いたい歌を作詞すればよい」と思うようになったということもあげられるが、それはシンガーソングライターを否定するものではなく、きたやまおさむとは『土曜ワイド』にたびたびゲストとして招いたり、逆にNHK-FMの『きたやまおさむのレクチャー&ミュージック』に永がゲスト出演する(2010年12月10日・17日など)という仲である。 |
| 永は1974年に野坂昭如・小沢昭一と中年御三家を結成して日本武道館でコンサートをしているが、これは単なる話題づくりで終わっている。 |
テレビ出演
| テレビ番組の出演は、テレビ朝日の『徹子の部屋』、よみうりテレビの『遠くへ行きたい』、NHKの『視点・論点』、山梨放送の旅番組、朝日ニュースターの『痛快!おんな組』、そして不定期にあるドキュメンタリー番組の案内人しかテレビ出演をしないとされている(他にNHKの特別番組においてVTR出演することもある)。 |
| かつてTBSテレビ放送40周年記念特別番組の際、タレントが永が行っていたラジオ番組紹介コーナーの進行を無断で遮ったことに憤慨し、生放送であるにもかかわらず途中で退場したことがあり、これを境にテレビへの出演に消極的になったとされている(なお他のテレビ番組でも途中退場したことがある)。 |
| 『全国こども電話相談室』に回答者として出演した際、「どうやったらテレビに出られますか?」という質問に対し「出なくてもいい」という趣旨の答えを返し、「もっといろいろなものに興味を持ちなさい」と子供を諭した逸話がある。 |
| 永がラジオを主体に活動するようになったのは、元々テレビカメラに取り囲まれるのとドーランを塗って出るのを嫌がっていたのに加え、ちょうどテレビにワイドショーが登場し、その手法に早くから幻滅を覚えてしまったことが原因であるといえよう。 |
| しかし、テレビというメディア自体は否定しておらず、後に深夜番組『2×3が六輔』に出演して、自分の存在を確かめさせた(本人談)。 |
| また、上記の通り現在は殆どテレビに出ないにもかかわらず旅先で会った人から「いつもテレビで見てます」と声をかけられることはラジオやエッセイなどで度々ネタにしている。 |
ラジオ出演
| それまで構成作家として関わってきたラジオ番組だが1959年放送開始の『昨日の続き』(ラジオ関東)にて初めて出演することとなる。 |
| この番組は当時としては珍しい台本無しのフリートークで進められる番組で、番組そのものは1971年まで続いた(ただし永六輔は途中で降りた)。 |
| 1966年に『夢であいましょう』が終了すると活躍の場をラジオに求め、翌年の1967年に『誰かとどこかで』がスタートする。 |
| それ以降は、ラジオに重きを置くようになっているが、TBSラジオ以外の首都圏のラジオ局では最近は定時番組(レギュラー)での仕事をしていない。 |
| ちなみに、自身担当のラジオ番組では、番組挨拶をせずにオープニングトークに入る事が多い。 |
| 朝日放送・中部日本放送・琉球放送で仕事をしたことがあるが、個人的付き合いに留まっている(朝日放送はアナウンサーの道上洋三との、中部日本放送はつボイノリオとの親しい縁から、琉球放送は親交のあった灰谷健次郎が居を構えていた事から)。 |
| TBSラジオでかつて放送されていた『土曜ワイド』は久米宏が初めてレギュラーを受け持った番組であり、久米は永のことを「拾ってくれた」「恩人」と言っている久米麗子・久米宏『ミステリアスな結婚』にて。 |
| しかしのちに永自身が語ったところによると、久米は永からかなりぞんざいに扱われたため、当時はかなり恨んでいたという永六輔「テレビマンだった父より」『東京新聞』1987年5月21日(『たかがテレビされどテレビ』倫書房、1997年、60-62頁所収)が、愚痴ひとつこぼさず黙々とレポートし続けていたと、執筆当時フジテレビのアナウンサーであった次女麻理への手紙というスタイルで明かしていた。 |
| 現在でも「永さんの前に立つと緊張する」と語っているが、恨みはもっておらず、「大往生」がベストセラーとなった1994年にはニュースステーションの年末特番に「ベストセラー作家」として永がゲスト出演しているほか、2010年1月2日には『久米宏ラジオなんですけど』にゲスト出演している。 |
映画出演
| 男はつらいよ寅次郎純情詩集(1976年12月25日公開)-根津神社の警官。 |
| 理由(2004年12月18日公開 アスミック・エース)-喫茶店のマスター。 |
その他の活動
| 舞台監督としても活躍していた時代があり、現在でも自らのトークショーや地方講演などではプロの舞台監督を雇わずに自分で進行をしている。 |
| ただし、業界で唯一信頼を置いて舞台進行を任せる人物に勇村育世がおり、最近では永自らが構成・演出する舞台であるにもかかわらず、彼女を「舞台演出家」と他の出演者に紹介する程である。 |
| 初めてテレビ出演したのが浅田飴、初めてスポンサーラジオ番組を持ったのが桃屋だが、つながりができた理由は自身の語るところによると「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」だそうである。 |
| 自身の信念とは正反対の文藝春秋で記事を書くこともあるが、これも「江戸風俗・芸能に造詣が深いから」書けるとの事。 |
| 新潮社でも「江戸風俗・芸能に造詣が深い」との理由から長らく記事を書いていたが、親交のある灰谷健次郎が斎藤十一のやり方に抗議して絶縁した1997年以降疎遠となり、皇室寸劇封印事件で同社の雑誌に批判されてからは完全に絶縁した。 |
| 物柔らかく高めの声音が今上天皇に似ていて、永自身も今上の即位前から冗談の種にしている。 |
| NHKラジオ第一『話芸・笑芸・当たり芸』において「我は高田文夫を深く認識いたします」とのセリフでものまねを披露したこともあった。 |
| 自らを「男のおばさん」と標榜しており、ピーコなどと仲が良い。 |
| 「天皇陛下に公式の場で和服(着物)をおめしいただこう」という運動(「天皇に着物を!市民連合」略称「天着連」)を主催する形で、天皇と日本の民族衣装である着物に対する敬意を持つことを表明している。 |
| 2006年11月19日、日比谷公会堂で開かれた『週刊金曜日』主催の「ちょっと待った!教育基本法改悪共謀罪憲法改悪緊急市民集会」に参加し、「君が代」をアメリカの有名な行進曲「星条旗よ永遠なれ」のメロディーで歌う。 |
| また当日、この集会にて皇室コントが演じられ、悠仁親王を「猿のぬいぐるみ」に仕立て、前立腺癌を以前今上天皇が患ったことが笑いのネタにされた。 |
| このことについて、週刊新潮の取材に永は「車が渋滞して遅れ、3時半に到着したから、そのコント自体見てもいないし、全然わからない。 |
| その他、「浩宮が赤ちゃんを産んで、その方がまた赤ちゃんを産んで」等と発言した2003年8月9日にNHKで放送された『思い出のメロディー』において。 |
| 特別な名前が付けられていなかった三重県伊勢市の郷土うどんに「伊勢うどん」と名付けた"伊勢うどん永六輔さんが命名"中日新聞2011年1月1日朝刊5部三紀版7ページ。 |
信条
| アナログ人間であり、ポリシーとしてウェブ(インターネット)や電子メール、携帯電話など最先端のものを拒否し続けてきたが、AMラジオが付いた携帯電話端末が出たのを機に、携帯電話を所持するようになった(但し、電子メール機能は利用したことがないほか、2008年1月の放送では、「持ってなくても不便ではないから、常には持ってない」と発言している)。 |
| 最近の日本建築は建築基準法によりボルトで締めなければならないそうで、ボルトで締めず木材だけで建築した建物が地震で崩れないのになぜそういう建築を認めないのかと憤慨している。 |
| 佐渡を舞台として活動する伝統芸能をもとにした和太鼓集団である鼓童を積極的に取り上げ、『土曜ワイド』でも佐渡から生放送したことがある。 |
| かつては生活苦からやむにやまれず払えないという人がほとんどであったが、最近は意図的に払わないケースも出ていると嘆き、「学校給食はただではありません、ちゃんと払いましょう」と呼びかけたが、テレビのワイドショー番組・報道バラエティ番組が取り上げる様になると、「何ですべて意図的と決め付けるのでしょう」とテレビでの取り上げ方を批判する発言をしていた。 |
| 野坂昭如を青島が罵倒していたことで、青島批判したケースや、田原総一朗が近年石原慎太郎におもねった発言をしたとの理由で批判している雑誌『ラジオライフ』復刊号のインタビュー。 |
| 井上ひさしとの縁と自身の信念から、井上らが構成する護憲組織「九条の会」に参加している『土曜ワイドラジオTOKYO永六輔その新世界』TBSラジオ、2009年10月3日。 |
| シーシェパードなど実力行使を伴う反捕鯨運動をテロリストと批判している『誰かとどこかで』TBSラジオ、2008年3月25日。 |
出演しない放送局
| 文化放送とニッポン放送には自身と政治思想・信条が違うとの理由から長らく出演していなかったという説があるただし、文化放送ホームページの「番組史」によれば、1960年に「永六輔の僕でよかったら」が放送されている。 |
| この関係と元祖フェミニストの中山千夏との親しい縁から、最近の「反ジェンダーフリー・保守的教育復興運動」には批判的で、2007年の東京都知事選挙では親交のある中山千夏と共に浅野史郎を支援した。 |
スポーツ等への嫌悪感
| しかし、同世代の人間が同様の事をしている場合は強く出られないとの事2006年9月14日放送の『誰かとどこかで』で自身が「相席の作法」という内容の話をした際に明かした。 |
| 『誰かとどこかで』の相棒遠藤泰子が高校野球の話をしていた際「何であんなのがさわやかなの?」と発言した。 |
評価と批判
| 生活文化として江戸の文化・風俗を再評価させたり、在野の芸人を世間に紹介したり、絶滅の危機に瀕していた尺貫法を再び世間に認知させたり、日本人の感覚では常識という考えが同じ日本に住むいわゆる在日の人々にしてみれば侮辱であると主張していた事など、大抵の人々が関心を持たない事を取り上げた事で高齢者を中心として評価が高い。 |
| しかしその一方で、保守的風潮を嫌う発言(忘年会を「日本人の歴史認識のなさの証明」、「七つの子」を「朝鮮人が炭鉱に強制連行され働かされ真っ黒だったのでカラスと呼ばれていた様子を童謡にした歌だと作詞家の弟子から聞いた」、「靖国神社は女性は祀られない男だけの神社」、など)をして批判を浴びるケースがある。 |
| 自分の信念にこだわった為に、差別または犯罪肯定発言と認識されて抗議を受けるケースも多く、「無名の人物、とりわけ己の名前を名乗らず黙々と仕事する職人と日本の文化・礼法を伝承している農民こそが模範である」という考えから、職人・農民以外の業種を"賎業"と見下す発言をして、業界団体から抗議を受けたり、「日本では本来ありえない病気」との考えから糖尿病に罹った人々を中傷した発言をして、患者団体から抗議を受けたり、運動競技全般を軽蔑する発言をしてスポーツ関係者を激怒させたり、近年は自身の実家の寺の宗派浄土真宗の開祖親鸞聖人の教え「悪人正機説」こそが正しいとの考えから暴力団を「社会になくてはならない存在」と発言して暴力団追放運動関係者を激怒させたり等がある。 |
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永 六輔(えい ろくすけ)は、日本の元放送作... |
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長野県立上田中等学校に入学するが翌年東京へ... |
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