| 7月に反旗を揚げた朱棣は通州、薊州に出撃し、同時に居庸関を占拠、北平の背後を安定させる。 |
| 8月には南京からの討伐軍を雄県の会戦で撃破したが、この時は真定城を攻略できずに軍を返す。 |
| 南京政府はこの敗北で黄子澄の進言を受け責任者の耿炳文を更迭。 |
| 新たに李文忠の長男・李景隆に50万と号する兵を与えて北上させたが、朱棣はこの人事を聞いて「是自らこれを坑にするなり(あの無能者が指揮官なら自滅するだけだ)」と手を叩いて喜んだと伝わる。 |
| 朱棣は11月、北平城下でこの50万の軍に大勝。 |
| 李景隆は徳州に逃亡したが、黄子澄は建文帝にこの敗戦を伝えなかった。 |
| 翌1400年(建文2年)1月、朱棣は蔚州と大同を攻撃。 |
| 北平の西方を安定化させる。 |
| 南京政府軍も徐達の子徐輝祖らの増援軍を派兵し、総勢60万、号して100万とする大軍を北上させ白溝河の戦いが起こる。 |
| この時は政府軍の平安、瞿能らの勇戦により、前半では朱棣自身が乗馬を三度乗り換えるほどの命の危機もあったとされるが、結局後半に朱棣の軍が盛り返し、瞿能は敗死、李景隆は南方の斉南に逃亡、政府軍の武器や食料はことごとく朱棣軍の手に落ちた。 |
| 李景隆はさらに南方に逃れたが、山東参政の鉄鉉が斉南城を3ヶ月に渡って死守。 |
| 結局攻め落とせなかった朱棣は軍を返したが、鉄鉉の追撃により軍を撃破され徳州、滄州を奪還される。 |
| 一度北平に戻った朱棣は兵を整えてから10月に再び軍を動かす。 |
| 史書には「一昼夜に三百里を行く」と記された強行軍をもって滄州守備軍を攻撃。 |
| 主将の徐凱を捕縛し、滄州再度奪回した。 |
| さらに12月に東昌の会戦で盛庸の率いる政府軍と激突したが、このときは燕軍の中核武将の一人であった張玉が戦死し、兵の損害は1万を超え、朱棣自身も一時は包囲され命の危機を感じるほどの敗戦であった。 |
| 翌1401年(建文3年)3月、損害を癒した朱棣は3度目の出兵。 |
| コダ河で再び盛庸と交戦し今回は勝利する。 |
| 翌月閏3月には藁城で平安、呉傑率いる政府軍6万を打ち破ると言う大勝利を収めた。 |
| 4月、朱棣は大名(地名)に進出。 |
| このとき南京政府は斉泰と黄子澄を退けるという妥協を示す。 |
| このとき朱棣は盛庸らの召喚を要請したが、南京政府は軍を北上させて燕軍の解散を見届けると言う高圧的な返信を返し、5月には再び戦端が開かれた。 |
| この和平工作が決裂後、朱棣は徐州に軽騎兵を出撃させて政府軍の兵糧船数万艘を焼き払う。 |
| 7月には政府軍の平安が北平城外まで迫ったが、これは攻略できずに引き上げた。 |
| この後両軍は散発的に交戦するが、戦況に大きな変化はない。 |
| 12月、朱棣の元に内通者からの連絡があり、朱棣は一気に南京を攻め落とすため全軍を挙げて北平を後にする。 |
| あけて1402年(建文4年)1月に再びコダ河で南京政府軍を撃破、途中の城には目もくれずに南下する。 |
| このときのエピソードとして朱棣は孔子の生誕地曲阜と孟子の生誕地鄒県では「木一本たりとも盗むことを禁じる」と命じている。 |
| 3月、宿州で平安の軍と激突し勝利したが、4月には再度兵を整えた平安、南京政府軍の討伐司令官徐福と蒙城付近で激突。 |
| 燕軍は陳文、王真と言った将軍を失い、朱棣軍は飢えを癒すため付近の畑から野菜を取るほど補給に悩まされたと記されている。 |
| このとき燕軍では将軍たちが一時撤退を進言し、攻勢を続けると主張した朱棣に賛成したのは朱能のみであったが、朱能の発言が通り戦線を維持することで決着する。 |
| この後数日間は朱棣も「甲冑を着けたまま起居した」とされ、士気の向上に努めていた。 |
| しばらく持久戦の様相を呈していたが、南京政府軍に補給物資が届いたとの報を受け朱棣は再び攻勢に出る。 |
| この時、朱棣は次男朱高煦に別働隊を指揮させ、この別働隊の働きにより勝利。 |
| 南京政府軍は戦死者1万人以上を残して徐福、平安らは霊壁へと撤退、補給物資は朱棣の手に落ちた。 |
| 続いて行われた霊壁の戦いにより南京政府軍は壊滅的な打撃をこうむる。 |
| この時、徐福は「三発の砲声を合図として燕軍に総攻撃を仕掛ける」と通達していたが、偶然にも燕軍から三発の砲弾が霊壁城に打ち込まれ、これを総攻撃の合図と誤解した南京政府軍が開かない城壁に殺到、城内が大混乱となり、その機に朱棣が城を攻め落としてしまうと言う、戦史上珍しいほどの幸運による戦勝例がおきた。 |
| この時政府軍の平安も捕虜となり北平に護送されている。 |
| この敗戦を聞いた黄子澄は「大勢は決した」と胸をかきむしって悲しんだと言う。 |
| 守将は一戦もせずに降伏し、朱棣は墓前に祭文を掲げて啼いたとする。 |
| その後朱棣は淮河のほとりで盛庸の率いる軍に勝利し、揚州では戦闘がないまま降伏した揚州城を制圧。 |
| ここで朱棣の従姉にあたる慶成郡主が南京政府の和議の使者として朱棣の元を訪れたが、この和議を朱棣は拒絶した。 |
| 盛庸の指揮する南京政府軍に抵抗を受けつつもこれを撃破し、対岸の鎮江は戦わずに降伏しここを占拠した。 |
| なお、この南京至近の鎮江が攻略されたことで南京政府の建文帝側近で儒学者であった方孝孺は責任者である李景隆を処刑する事を求めたが、建文帝はこれを認めなかったと記されている。 |
| 皇帝に即位する際、朱棣は方孝孺に即位の勅を記してもらう事を望んだが、喪服を着て現れた方孝孺に「燕賊簒位(燕賊、位を奪う)」と自らの簒奪を非難され、激怒し方孝孺と一族を皆殺しにした。 |