| 戦後はGHQに日本のあらゆる軍事施設、兵器は接収され鉄屑同然となって破棄された。 |
| さらに日本の航空機生産・加工の禁止、関連会社は解散させられた。 |
| 1952年3月、サンフランシスコ講和条約により戦後7年たって航空機関連事業が再開された。 |
| 戦時中、全力を出し切った永野は、何もやる気が起こらず北辰電機や帝国ミシン(現蛇の目ミシン工業)、小松製作所など職を転々とした。 |
| しかし妻の死で我に帰り、「ジェットエンジンに専念することが我の行く道」と決意した。 |
| 日比谷にあったアメリカ占領軍情報教育局(CIE)で欧米の新しいジェットエンジンの技術を学んだ。 |
| ここは日本の航空関係者、自動車関係者の多くが足を運んだ。 |
| 1952年、航空解禁の年、ジェットエンジンの取り組みに熱心だった土光敏夫の石川島重工に、かつての部下を通じて誘われ入社。 |
| 1953年7月、通商産業省の通達で欧米から大きく出遅れた航空工業の挽回に石川島重工、富士重工業、富士精密工業、新三菱重工が共同で日本ジェットエンジン株式会社(NJE)を設立(のち川崎航空機も参加し5社)。 |
| 永野は研究科研究部長に就任した。 |
| 1955年1月、防衛庁が航空自衛隊の本格的な体制作りに着手。 |
| 同年3月、石川島重工内に非公式のプロジェクトチーム「航空エンジン準備室」が設置され永野は室長となる。 |
| チームは僅か4人で事務所は4坪の広さだった。 |
| この年3月、永野はNJEの研究部長を降り正式メンバーから外れ技術顧問となっていた。 |
| これは最重要人物の永野は社内に温存させる、という土光の戦略だった。 |
| NJEの方は防衛庁のT-1中等練習機60機にNJEが開発した国産の「J3」ジェットエンジンの搭載を決定した。 |
| しかしハイテクの頂点を極めるジェットエンジンの開発には10年・100億を要す(当時の石川島重工の資本金の4倍)、といわれるように簡単にはいかず、故障が相次ぎ1期分、及び2期分の計40機は輸入した英国ブリストル社製オルフェースエンジンの搭載となった。 |
| これに至りNJEで話し合いがもたれ、膨大なコストはかかるジェットエンジン開発を、石川島重工以外の4社は見切りをつける形で手を引き、ジェットエンジン開発は石川島重工1社で続けることとなり、NJEは6年9ヶ月の悪戦苦闘の歴史に幕を閉じた。 |
| 石川島重工単独となった理由は永野の存在があったものといわれた。 |
| 多難を極めるジェットエンジン開発に石川島重工の同部門は7年間赤字が続く。 |
| 他社より規模が小さいため機体部門に進出せず、エンジン分野だけに賭けた同社のリスクはとても大きなものだった。 |
| 1956年6月、石川島重工は米軍のF-86ジェット戦闘機用エンジン「J47」を開発していたGE社と技術提携を結んだ。 |
| 傑作といわれたこの「J47」エンジンのデータは極めてスムーズ、かつ早期の「J3」エンジンの開発をもたらした。 |
| 1958年、永野は「J3」の生産先行型「YJ3」開発プロジェクトの指揮を執り、1959年10月、幾多のトラブルや障害を乗り越え1号機を完成、翌1960年5月17日、富士重工が製作したT1F1試作機に搭載され、同社宇都宮飛行場で初飛行に成功。 |
| 戦後15年目にして国産ジェットエンジン搭載機が空を飛んだ。 |
| しかし燃料コントロールだけは国産で製作が出来ず、アメリカ・ウッドワードガバナー社のものを採用することとなった(5年後国産化)。 |
| 「YJ3」エンジンは、最終納期に間に合い31台がT-1練習機に搭載され、その後改良したものを1980年まで計247台を製造した。 |
| 1960年12月、石川島重工は播磨造船と合併し石川島播磨重工業(現在のIHI)となった。 |
| 防衛庁の「F-X整備構想」で採用が決定したロッキードF-104に搭載する「J79」エンジンの量産化にも成功、ジェットエンジンの売り上げも110億ほどに急増した。 |
| 1964年、三十余年に渡り携わった現場を離れ副社長に就任。 |
| 1978年、相談役に退いたが、翌年の日本のジェットエンジン工業悲願の海外進出となる英ロールス・ロイス社との提携にも尽力した |
| これは後1983年、五ヶ国共同開発事業に発展した。 |
| 永野が航空エンジン事業部長だった時代、「お荷物事業部」と揶揄されたジェットエンジン部門は1980年代後半には同社トップの売上げとなった。 |
| 「J79」エンジンを生産した時、防衛庁から先にもらった開発費用を予想より安く出来た、と余った分を防衛庁に返してきた。 |
| こういう場合は不足分は請求しても、余った分は帳尻を合わせて懐に入れてしまうのが常識。 |
| 防衛庁は「そんな話は聞いたことがない」と大いに驚いたという。 |
| また全日空がボーイング727旅客機を導入した時、三菱にエンジンの発注先が決まったにも関わらず、石川島の営業マンが、全日空幹部にジェットエンジンの主幹工場だった田無工場を見せると「素晴らしい」と感動して逆転決定したという。 |
| この時永野は「そもそも、これだけの技術を持っている所へ仕事を発注しないのが損なのであって、何もこちらから仕事を下さいと頭下げる必要はないんだ」と、叱りとばし営業マンを困らせたという。 |
| 1978年、英国王立航空学会から東洋人として初めて名誉会員に推挙された。 |
| なお「ネ-20」エンジンは、前述した戦後の接収命令で国内のものは全て破壊されたが、アメリカに渡り、ノースロップ工科大学の倉庫で埃にかぶっていた物が里帰りし1973年、埼玉県入間基地で開催された第4回国際航空宇宙ショーで公開された。 |
| その後紆余曲折があってアメリカには戻さず、現在、東京都昭島市にあるIHI(旧社名石川島播磨重工業)の昭島事業所に保管されている。 |
| 4年に一度開かれる国際航空宇宙展にで展示される。 |