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プロフィール
- 江夏豊とは
- 生い立ち
- アマチュア時代
- 入団初期
- 奪三振世界記録
- オールスター9連続奪三振
- ノーヒットノーラン
- チームの内紛
- 放出
- 南海時代
- 広島時代
- 日本ハム時代
- 西武時代
- 引退後
- 評価など
- その他
- 表彰
- 関連サイト
江夏豊(えなつゆたか、1948年5月15日-)は、兵庫県尼崎市出身(奈良県生まれ)の元プロ野球選手(投手)、野球解説者。
生い立ち
| 鹿児島県出身の母親が大阪大空襲で疎開した奈良県吉野郡で豊の父親と知り合いそこで豊が生まれた。 |
| 間もなく両親は離婚、さらに父も失踪したため、生後半年で鹿児島県市来町の母の実家に移って5年間を過ごした。 |
| その後母と二人の兄と共に兵庫県尼崎市に移り、高校卒業まで尼崎で育った。 |
| 兄弟姉妹皆父親が違う複雑な家庭に育ち、『江夏』も母方の姓だった。 |
| 霧島酒造を創業したのは祖父という。 |
| なお、江夏とは南九州に多い姓で、本来は『こうか』と読む。 |
| 子供の頃には、近所の子供達と粗末な道具で野球を楽しんでいた。 |
| そんな折に兄から「お前は左でやれ」と左利き用のグラブを買い与えられ、右利きであったにもかかわらず強制的に左利きへと矯正された。 |
| 『なぜ阪神は勝てないのか?~タイガース再建への提言』(岡田彰布との共著)角川ONEテーマ21(角川書店、2009年)p109。 |
アマチュア時代
| 中学生となってからは一度野球部に入部するが、入部2ヶ月を経ても球拾い程度で練習をさせてもらえないことに不満を抱き上級生に直訴、これが乱闘騒ぎとなってしまい野球部を退部となる。 |
| この時、野球部の監督だった教師から「野球はいろんなスポーツの結晶だから、いろんなスポーツを体験しろ」と諭され、バレーボールやラグビー、相撲などを経験、最終的に陸上部に落ち着いた。 |
| 陸上部では砲丸投の選手として活躍し、県大会で準優勝したこともある。 |
| 本格的に野球を始めるのは、当時は弱小野球部だった大阪学院大学高等学校に入学してからのことである。 |
| 高校時代は制球に難があり、またそれを理由に変化球を一切教えられてこなかったが、球威のある直球と様々な駆け引きで活躍。 |
| 3年時(1966年)の全国高等学校野球選手権大阪大会ではチームとしてベスト4、個人としては予選7試合を1人で投げ、わずか3失点という成績を残した。 |
| この時の活躍がプロのスカウトの目に留まり、「直球もよいが、なかなか頭の使える選手だ」として一位指名に踏み切らせるきっかけとなった。 |
| なお、高校時代には一度も柵越えのホームランを打たれたことがなく、唯一平野光泰(明星高校)にランニングホームランを喫したのみである『なぜ阪神は勝てないのか?~タイガース再建への提言』p148。 |
| 江夏は高校時代を振り返って、衝撃的だった出来事として鈴木啓示との対戦を挙げている。 |
| 大阪学院高校は江夏が2年生の時、鈴木を擁する育英高等学校と練習試合をして延長15回0-0の引き分けに終わった。 |
| この試合で、江夏が15イニングを投げ抜き15奪三振を挙げる好投を見せた一方、育英の3年生エースだった鈴木はそれを大きく上回る27奪三振をマーク。 |
| 4番打者として打席に立った江夏は、速度のある直球と落差の鋭いカーブに手も足も出ず、「1球もかすらなかった」と述懐している『なぜ阪神は勝てないのか?~タイガース再建への提言』p71。 |
| この時以来、カーブを習得したい願望が芽生えたという。 |
入団初期
| 入団1年目の春季キャンプでは、高校時代まで投げられなかった変化球を習得するため権藤正利ら先輩投手に教えを請うたが、どの投げ方も習得できないまま公式戦に突入。 |
| それでも豪速球を武器に225奪三振を挙げてシーズン最多奪三振を記録したが、その一方で与四球や被本塁打も多く、打撃力に乏しい当時のチーム事情「(ONを擁した)V9巨人でもチーム打率.250に満たなかったのだから、阪神なんて.210~.220くらいだった」と述懐している。 |
| 『なぜ阪神は勝てないのか?~タイガース再建への提言』p130。 |
| なお、1967年の実際のチーム打率は巨人.265、阪神.245である。 |
| も重なって、12勝13敗と負け数が上回った。 |
| 新人王のタイトルも、武上四郎に阻まれ獲得はならなかった。 |
| ただ、球団とは1勝10万円のインセンティブ契約を結んでいたため、年俸相当の収入を得たという。 |
| 「あの時、君は若かった」ルーキー秘話『SportsGraphicNumber』2011年3月24日号、文藝春秋、2011年、雑誌26854・3・24、50頁。 |
| 2年目のキャンプでは、新たに投手コーチとなった林義一によって、砲丸投げの影響だったいわゆる「担ぎ投げ」の癖を矯正され、変化球も教え込まれた。 |
| これによりコントロールと球種の幅を身につけ、この年は開幕から前年を上回るペースで奪三振と勝利を挙げた。 |
| この1968年を境に江夏は、球界を代表する投手へと成長することになった。 |
| この出来事以降江夏は、温厚で真摯に教えてくれた林のことを「お師匠さん」と呼び慕っている。 |
| 頭角を現して以降の江夏は、血行障害に悩む村山実に代わって阪神のエースの座に就き、最多勝利2度、最優秀防御率1回、沢村賞1回の他、20勝以上4回、6年連続リーグ最多奪三振などの記録を作りあげ、名実共にセ・リーグを代表するピッチャーとして活躍した。 |
| 4年目のには通算1000奪三振を記録したが、これは通算奪三振の日本プロ野球記録保持者、金田正一を上回る最短記録であった。 |
| プロ入り当初は、村山実のストイックな野球観に感銘を受けて「弟子入り」を決意、練習からロッカールームに至るまで傍につき、村山の一挙手一投足を観察していた。 |
| しかし江夏が初年度から新人離れした成績を挙げると、村山は江夏を露骨に遠ざけるようになったという。 |
| これに対して江夏は当初、エースの座を奪われそうになった村山の器量の狭さ故の行動だと憤慨していたが、後に自分を一人前の投手として認めてくれたが故のものだったと気付き、「あれが本物のプロ、勝負師のあり方だと教えてもらった」と自著の中で語っている。 |
奪三振世界記録
| 1968年9月17日、甲子園球場における対巨人戦で、稲尾和久の日本記録を塗りかえるシーズン354奪三振を記録。 |
| 試合に先立って江夏は、日本記録更新となる奪三振を王貞治から取ると公言していた。 |
| そして試合では、日本記録タイとなる353奪三振を王の打席で記録したが、江夏本人はこれで日本記録を更新したものと勘違いをしており、ベンチに戻ってから捕手の辻恭彦にそれを指摘されて初めて気がついたという。 |
| そこで後続の打者はすべて意図的に凡打で打ち取り、再び王の打席が回ってきた時に、記録更新となる354個目の三振を奪う離れ業をやってのけた。 |
| 江夏によると、「森(祇晶)さんと高橋(一三)さんからは三振を取らないようにするのが、むしろ大変だった。 |
| 特に高橋さんを2ストライクまで追い込んだのが一番困った」という。 |
| しかもこの試合では、延長12回に自らサヨナラヒットを放って決着をつけた。 |
| この試合の様子にも表れているように、江夏は王から三振を奪うことに取り分けこだわっていた。 |
| これは村山実が、節目の記録となる三振を常に長嶋茂雄から奪うようにしていたことを真似たものである。 |
| これ以降も江夏は王との勝負に固執し、通算で57の三振を奪ったが、直球で勝負を挑んでいたために20本の本塁打も打たれている。 |
| 王から最も多く三振を奪った投手は江夏だが、江夏から最も多く本塁打を打った打者もまた王である。 |
| そしてこのシーズン、江夏は最終的な奪三振記録を401個にまで伸ばした。 |
| これは現在でも日本プロ野球記録であると同時に、メジャーリーグの記録(ノーラン・ライアンの383個)をも上回る世界記録でもある。 |
オールスター9連続奪三振
| この9連続三振の前年には連続5三振、翌日には1三振を奪っており、この3試合を合わせた連続15奪三振もオールスター記録となっている。 |
| また、この試合で江夏は自ら先制ホームランを放っているが、オールスターでの投手による本塁打はの巽一に次ぐ2人目。 |
| これ以後、現在に至るまでオールスターでの投手による本塁打は無い。 |
| この試合で、キャッチャーフライを追った田淵幸一に「捕るな!」と叫んだとされているが、実際には、スタンドに入るだろうしテンポ良く投げたかったため「追うな!」と叫んだものであると、江夏は著書の中で語っている。 |
| この9連続奪三振を達成した時のボールは、江夏の手元にはない。 |
| これはこの時キャッチャーを務めていた田淵が、三振のコールを聞くと同時に無意識にボールを放り投げてしまい、そのために行方が判らなくなったためとされている。 |
ノーヒットノーラン
| 江夏のコメントが「野球は一人でも出来る」と歪曲されて報道され物議を醸したが、自身はこれについて一切言い訳をせず、それが非難に拍車をかける形になった。 |
| また、この試合を実況した朝日放送のアナウンサーが興奮のあまり「バンザーイ!江夏大バンザイ!」と万歳を連呼、公平性を欠くと注意を受けるという後日談もあった。 |
| なお、「サンテレビボックス席」で放映されたこの試合の中継映像は、現在でもサンテレビに保管されている。 |
チームの内紛
| このように華々しい活躍を見せていた江夏だが、当時は巨人が前人未到の9連覇を成し遂げている真っ只中であり、優勝戦線に加わることはあったものの、ペナントをその手にすることは遂にできなかった。 |
| 中でも9連覇を許した1973年は、あと1勝すれば優勝という10月20日(129試合目)の対中日最終戦に先発し、5回3失点と打ち込まれて敗戦投手になったことから、優勝を逸した元凶とまで言われることとなった。 |
| またこの試合については、直前に長田睦夫球団代表と鈴木一男常務から「残り2試合で勝ってくれるな」「金田正泰監督も了承しているから」などと言われたと、『左腕の誇り』など自著に綴っている。 |
| 二人と同じく金田監督に対する確執のあった江夏は、これに乗じる形で「金田監督の下ではプレーできない」と表明し、金田の方も「江夏を抱えてチーム作りをする自信がない」として辞意を表す事態となった。 |
| これらの事情から「一匹狼」「ロンリーウルフ」といった異名をつけられ、マスコミにチーム首脳やフロントとの対立がクローズアップされるようになった。 |
| またの黒い霧事件に続く騒動に不本意ながら巻き込まれたことも、江夏へのマイナスイメージをファンに植え付けることとなってしまった三宮のクラブで出くわした暴力団組長から「大ファンや。 |
放出
| そして1月28日、球団事務所へ呼び出された江夏は、江本孟紀・島野育夫らとの交換トレードで南海ホークスへの移籍を宣告される。 |
南海時代
| しかし、野村克也選手兼任監督と会った時にその野球観に深い感銘を受け、南海での現役続行を決意する。 |
| 当時はリリーフ投手の地位が極めて低かったため、江夏は当初「トレードの上に今度はリリーフと、何で自分ばかりに恥をかかせるのか」と反発し続けていたが、「野球界に革命を起こそう」という説得の言葉が決め手となり、6月にリリーフ投手へと転向を決意。 |
| この年19セーブで最優秀救援投手に輝き、日本野球界におけるリリーフ投手のパイオニアとなる。 |
| 当時の日本にはリリーフ専門投手の調整法というものが確立されておらず、ずっとベンチに座って待機していることが腰痛持ちの江夏には辛かったことから、知り合いの記者にメジャーリーグでのリリーフ投手の調整法などを聞き、自己流の調整を始めた。 |
広島時代
| 近鉄バファローズとの対戦となった同年の日本シリーズでは、最終第7戦(大阪球場)にて、1点リードの9回裏に無死満塁のピンチを自ら招くも、一死からのスクイズを見抜くなどして反撃を断ち、広島を日本一に導いた。 |
| この時の様子は、後に作家の山際淳司が『江夏の21球』という短編ノンフィクションに記し、現在ではプロ野球史屈指の名場面として定着している。 |
| 1980年7月22日オールスター第3戦(後楽園球場)では、2-0とリードしたセ・リーグが9回裏に1点差に詰め寄られ、無死満塁のピンチに陥った野村収(大洋)をリリーフ。 |
| 後続のレロン・リー、有藤通世(ともにロッテ)、山内新一(南海)野手がすべて出場していたためパ・リーグ西本幸雄監督がバッテングの良い山内を松沼博久(西武)の代打に起用したを3者連続三振に打ち取り、先制打を打った真弓明信、ホームランを打った掛布雅之を抑えMVPを獲得。 |
| 特に古葉竹識監督からは、高い成績を残しても特別な労いの言葉がなく、江夏も様々な場面での起用法などに思う所があり、これが退団の動機の一つとなったという「江夏の21球」の際ピンチに立たされた江夏をリリーフする為、古葉は北別府学と池谷公二郎をブルペンに行かせたがこの事が江夏と古葉の関係を決定的にしたと言われている 「運命の一球」近藤唯之著 新潮文庫2003年より。 |
日本ハム時代
| 1980年、日本ハムファイターズはパ・リーグ後期シーズンで優勝争いを演じた。 |
西武時代
| しかし、柴田保光・木村広とのトレードで西武ライオンズへの移籍が決定。 |
| これは、巨人が江夏獲得に乗り出してくると見た西武が、巨人に取られる前に自分の所に引き入れようという意図によるものであったと、後に坂井保之は語っている雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月21日号134ページ巻末コラム「期間延長、トレードの効能」。 |
| 衝突の決定的な要因は、キャンプの朝食の席で、栄養摂取に重きを置く広岡から玄米食を強く勧められた際、他のコーチや選手がいる中で、「監督はそんなに食事に気をつけているのに、何で痛風なの?」と問いかけたことだったと言われている(当時広岡はスパイクが履けないほど痛風に悩まされていた)。 |
| そういった事情から江夏は、広岡について「人間的に許せない所があった」と語っていたが、その一方で日本ハム時代に西武から受けた執拗なバント攻めなどから広岡の野球観を高く評価しており、西武の選手としても「野球という面では教えられることが多かったし、素晴しい指導者」と監督としての広岡を評しているベースボール・マガジン社「日本プロ野球トレード大鑑」でのインタビュー。 |
引退後
| 刑務所の規則に従っての生活で健康状態は劇的に改善し、本人も出所後、法廷での弁護に立った野村克也や江本孟紀、衣笠祥雄ら友人達への感謝の言葉と共に、「もし刑務所に行っていなかったら、僕はもう死んでいたかもしれない」と語っている。 |
| 作家の安部譲二は、「あの傲岸不遜だった男が、帰ってきたら物凄く気配りができるようになっていた」「刑務所に入ってまともになって帰ってきたのは山本譲司と江夏だけ」と、収監前後の江夏の変化を述べている。 |
評価など
| 捕手として実際に投球を受けた伊東勤は、その高い制球力と、リリースの際に指先の操作だけで瞬時にコースを変え、しかも捕手が捕りやすいところへ投球する並外れた技術のみならず、三塁ランナーの動きを見ずサイン交換もしていないのにスクイズを見抜いてボールをウエストさせた的確な判断力に驚嘆したと語っている雑誌「週刊ベースボール」(ベースボールマガジン社刊)2008年7月21日号24-25ページ「江夏の21球は本当だったんだと強烈な印象を受けた伊東勤が語る最高峰の投球術」。 |
| Yahoo!JAPANが企画した「20世紀日本プロ野球ベストナイン」の投手部門でも、沢村栄治、金田正一、稲尾和久ら往年の名投手を抑えて1位に選出されている。 |
| 無類の阪神ファンである作家・小川洋子の『博士の愛した数式』(第1回本屋大賞受賞)では、その背番号(28、完全数)の持つ意味を題材に、著者から熱烈なオマージュを捧げられている。 |
その他
| かつて近鉄バファローズにおいて鈴木監督とエースだった野茂との衝突が取り沙汰されていた頃、江夏はこれについて「トレーニングに関する野茂の主張も分かるが、自らの経験から考えると鈴木の言う事も全て間違っているわけではなく、この件だけは野茂と同調できない」と自著の中で述べていた。 |
表彰
| オールスターゲームMVP:3回(1970年第2戦、1971年第1戦、1980年第3戦)。 |
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1948年
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江夏 豊(えなつ ゆたか)は、兵庫県尼崎市出... |
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1968年
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1試合16奪三振セ・リーグ記録 |
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投票数
10
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江夏豊さんについてのひとこと紹介
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