| 1989年4月、胡耀邦(1987年、保守派により党総書記を解任)が死去したことを契機に民主化運動が高まっていった。 |
| しかし、最高指導者の鄧小平は民主化運動を「動乱」と規定、共産党の機関紙である『人民日報』は4月26日付社説「旗幟鮮明に動乱に反対せよ」を発表した。 |
| 当時の江沢民は、趙紫陽総書記ら民主派と、李鵬国務院総理(首相)ら保守派との中間的存在であったが池上彰『そうだったのか!中国』(集英社、2007年)、184ページ。 |
| 、江はこの社説にいち早く対応し、胡耀邦追悼の座談会を報じた『世界経済導報』を停刊処分とした。 |
| この江の行動が陳雲や李先念といった保守派長老の目に留まり、民主化運動に理解を示していた趙紫陽の後任候補として江を推す声が高まっていった矢吹晋『鄧小平』(講談社〈講談社現代新書〉、1993年)は、1989年5月末の段階で江沢民が総書記に内定していたとする。 |
| 6月4日、第二次天安門事件が発生。 |
| その直後の6月23日から24日にかけて開催された第13期4中全会において、全職務を解任されて失脚した趙紫陽に代わり、江沢民は鄧小平によって党総書記・中央政治局常務委員に抜擢された。 |
| さらに同年11月の第13期5中全会において、鄧小平から党中央軍事委員会主席の地位を継承し、翌1990年3月には国家中央軍事委員会主席に就任する。 |
| 中華人民共和国は中国共産党を中心とするヘゲモニー政党制(事実上、一党独裁制)であり、執政党(指導政党)である中国共産党が国家機構を領導(上下関係を前提とした指導)し、その権力は党の軍隊である中国人民解放軍に担保されている。 |
| そのため江沢民以前は、国家主席や総書記ですら就任する人物によってはソビエト連邦の最高会議幹部会議長のように半ば名誉職と化していた一方で、党中央軍事委員会主席の鄧小平が最高実力者であるなど、地位と実権が必ずしも一致しなかった鄧小平は1987年に政治局常務委員を辞任したが、軍の統帥権者である党中央軍事委員会主席の地位には留まった。 |
| さらに、第13期1中全会において、重要問題については引き続き鄧小平の指導を受けるという決議がなされた(この決議は秘密とされていたが、第二次天安門事件直前の1989年5月にソ連最高会議議長兼共産党書記長ミハイル・ゴルバチョフが訪中した際、趙紫陽がゴルバチョフとの会談で明らかにした)。 |
| 鄧小平は1989年に党中央軍事委員会主席の地位を江沢民に譲り、無位無官の身となったが、第13期1中全会の決議により、事実上の最高実力者として江沢民政権に影響力を発揮していた。 |
| なお、1994年9月の第14期4中全会において、中央指導体制の第2世代(鄧小平を中心とする世代)から第3世代(江沢民を中心とする世代)への移行が完了したとする公式声明が発表され、これにより鄧小平は政治指導から全て退くこととなった。 |
| しかし、江沢民が1993年3月に国家主席に就任して以来、最高指導者が総書記・国家主席・党中央軍事委員会主席を兼任して権力を一元化するようになっている。 |
| 総書記就任後は鄧小平の後継者として改革開放政策を概ね継承し、経済発展を推進した。 |
| 1992年10月の第14回党大会で自らを中心とする指導体制を確立し、最高指導者としての地位を確実なものとした江沢民は、同大会において「社会主義市場経済」の導入を決定、事実上自由主義経済に舵を切った。 |
| その結果、総書記就任直後の1990年の中華人民共和国のGDP(国内総生産)が3888億ドルだったのに対し、2000年のGDPが1兆71億ドルになるなど、中国の高度経済成長が進展した。 |
| 2001年11月には中国の世界貿易機関への加盟を実現し、経済開放の加速と国際経済のグローバリゼーション化の動きへの適応を図った。 |
| さらには「3つの代表」理論を提唱し、資本家の存在を認め、資本家の共産党入党を認めるなど、中国を実質上資本主義国化させていった。 |
| また、1997年7月には香港、1999年12月には澳門の中国への返還も実現させた。 |
| 現代中国史の研究者である天児慧は江沢民を「大国化する中国の建設に貢献した」と評する天児慧『巨龍の胎動 毛沢東VS鄧小平』<中国の歴史11>(講談社、2004年)、393ページ。 |
| 他にも同年にCTBT採択直前に駆け込みで核実験を強行し、世界中から非難された。 |
| 1999年の国慶節では15年ぶりに軍事パレードを挙行し、軍事力を誇示した。 |
| また、江が推進した経済発展は、国民の貧富の格差や都市と農村の地域間格差といった「格差社会」、汚職の蔓延、そして環境破壊などの負の遺産も残した。 |
| このような中で、江は2002年11月、自身の任期で最後となる第16回党大会を主宰し、自ら提唱した「3つの代表」理論(中国共産党は先進的生産力・先進的文化・最も広範な人民の利益を代表する)を党の指導思想として党規約に追加した。 |
| 「3つの代表」理論を掲げて私営企業主へも門戸を開いた中国共産党は、この党大会より階級政党から国民政党への転換を始めた天児慧、前掲書、353ページ。 |
| 毛里和子『新版 現代中国政治』(名古屋大学出版会、2004年)、84-86ページ。 |
| しかし、「3つの代表」理論については保守派から批判が出され第16回党大会に先立つ2001年、江が中国共産党創立80周年を記念する講話で「3つの代表」理論を初めて打ち出した際、保守派のイデオローグであった鄧力群らは「階級性こそ党の基本的属性であり、私営企業主の入党は党規約違反である」と批判し、江を「党大会や中央委員会に諮らず重大問題を個人で発表したことは、重大な党規約違反である」と弾劾した。 |
| 、「江は『3つの代表』理論を党規約化することで自身を毛沢東・鄧小平と同格に位置づけようとしている」と江に反発する意見も強かった。 |
| ともあれ、「3つの代表」理論を党の指導思想とした江沢民は、この党大会で総書記・政治局常務委員を退任し、2003年3月、第10期全国人民代表大会第1回会議で国家主席も退任した。 |
| その後、2004年3月の第10期全人代第2回会議において憲法が改正された際に、「3つの代表」理論は「マルクス・レーニン主義」・「毛沢東思想」・「鄧小平理論」とともに国家理念として憲法前文に追加された。 |
| 江は総書記在任中、上海市長・党委書記時代の部下を次々と中央に引き上げ、枢要な地位に就けて「上海閥」を形成し、その総帥として政界に君臨した。 |
| 総書記退任後も党中央軍事委員会主席に留任した江は、党の最高指導部である政治局常務委員の過半数を自派閥で固め、腹心の曽慶紅らを通じて後継の胡錦濤指導部に影響力を発揮していた。 |
| しかし、2006年に江の地盤である上海市の幹部(党委書記の陳良宇など)が汚職で根こそぎ摘発され、「上海閥」は大打撃を受けた。 |
| その結果、近年では江沢民派の官僚はかなり減少しており、胡錦濤が権力の掌握を確実にしたとされる。 |
| 日本に対しては歴史認識で執拗に批判しているが、ベトナムからの中越戦争の謝罪要求については「ベトナムのカンボジア侵攻によるものだ」として、謝罪はしていない。 |
| 欧米では、中華人民共和国の経済発展や外交の改善に貢献したとして好評を受けており、「中国を変えた男」として肯定的に評価されている。 |
| とくに、アメリカ合衆国との関係においては協調を模索し、大統領であるビル・クリントン、ジョージ・W・ブッシュとも複数回にわたって会い、一緒にレジャーを過ごした事もある。 |
| 1997年10月に訪米した際、江沢民とクリントンは両国関係を初めて「戦略的建設的パートナー」と表現して協調の枠組み作りを本格化させた。 |
| しかし、その後はコソボ紛争などを巡って米中関係は悪化していき、クリントンの後任に反中感情の強いブッシュが就任したことによって中国とアメリカの亀裂が決定的になりかけた。 |
| ところが2001年9月11日が同時多発テロを発生すると、江はこの事件を契機にアメリカとの協調関係の再構築に乗り出した。 |
| 中国はいち早くアメリカに対して哀悼の意を表するとともにテロリズムに共同で立ち向かうことを宣言し、翌月に上海で開催されたAPEC首脳会議で江はブッシュが唱える「テロとの戦い」を全面的に支持した。 |