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蒋介石
蒋介石(しょうかいせき、、1887年10月31日-1975年4月5日)は中華民国の政治家、軍人。第3代・第5代国民政府主席、初代中華民国総統。孫文の後継者として北伐... |
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孫文
中国生まれ・アメリカ国籍の政治家・革命家。初代中華民国臨時大総統。辛亥革命を起こし、「中国革命の父」、中華民国では国父(国家の父)と呼ばれる。また... |
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汪精衛
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小林英夫
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陳公博
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何応欽
何応欽(かおうきん)は中華民国の軍人。字は敬之。 |
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プロフィール
- 汪兆銘とは
- 日本留学から東南アジアでの活動まで
- 清朝政府に対するテロ計画
- 中華民国成立から孫文死去まで
- 国民政府との関わり
- 汪兆銘狙撃事件
- 蒋介石との訣別
- ハノイでの狙撃事件
- 汪兆銘政府の成立
- 死去
- 南京国民政府のその後
- 伝記
汪兆銘(おうちょうめい、1883年5月4日-1944年11月10日)は中華民国の政治家。字は季新。号は精衛(中華圏では「 汪精衛」と呼ぶのが一般的である)。知日派として知られた。原籍は浙江省紹興府山陰県(現在の紹興県)。
日本留学から東南アジアでの活動まで
| 200px|thumb|汪(左)と陳璧君。 |
| 光緒10年(1884年)、10人兄弟の末子として広東省三水県(現在の仏山市三水区)に生まれる。 |
| 光緒30年(明治37年、1904年)9月、清朝の官費生として日本の和仏法律学校法政大学(今の法政大学の前身)に留学。 |
| 留学中に孫文の革命思想に触れ、光緒31年(1905年)、革命党に入党した。 |
| やがて孫文の来日を機に同年8月中国同盟会が結成され、汪兆銘は機関紙『民報』の編集スタッフを務めることになる。 |
| この頃から汪は「精衛」という号を用いるようになった。 |
| 光緒32年(1906年)6月、法政大学速成科を卒業。 |
| 官費留学の期限は切れたが、汪はそのまま法政大学の専門部へ進み、革命運動を続けることとした。 |
| この頃、ペナン島の有力華僑の出であり、のちに汪の妻となる陳璧君も運動に参加している。 |
| やがて清朝の意を受けた日本政府の取締りにより『民報』は発行停止に追い込まれ、孫文は根拠地をハノイ、ついでシンガポールに移した。 |
| 孫文の信頼を得ていた汪も、孫文と行動を共にする。 |
| 孫文がフランスへ去った後、汪は東南アジアにおける中国同盟会の勢力拡充に力を注ぐことになる。 |
清朝政府に対するテロ計画
| 宣統2年(1910年)、汪は革命運動を鼓舞するため、清朝要人の暗殺を計画した。 |
| 汪は北京で写真屋になりすまし、密かに爆弾を用意、醇親王載澧を狙ったが未遂に終わった。 |
| 清朝政府に逮捕された汪は死刑を覚悟したが、革命派との融和を図る民政部尚書粛親王善耆の意向により、終身禁固刑に罪一等を減ぜられることとなった。 |
中華民国成立から孫文死去まで
| left|thumb|蒋介石と並び立つ汪兆銘。 |
| 革命軍が蜂起し勢力を広げる中、宣統3年(1911年)11月、清朝政府の大赦により、汪は釈放された。 |
| やがて辛亥革命により清朝は崩壊し、民国元年(1912年)1月1日に中華民国が成立したが、この成立宣言の文章を起草したのは汪である。 |
| この年汪は、革命運動の同志になっていた陳璧君と結婚した。 |
| 民国元年(1912年)3月、袁世凱が臨時大総統に就任したが、「皇帝」への野心を持つ袁世凱と孫文らの対立が表面化し(第二革命)、民国2年(1913年)、孫文は日本へ、汪はフランスへ亡命することとなった。 |
| 袁世凱政府が崩壊して新政府が誕生すると、民国6年(1917年)、汪はフランスから帰国。 |
| 孫文の下で、汪は広東軍政府の最高顧問を務めることとなる。 |
| 民国14年(1925年)の孫文死去に際しては、孫文の遺言を起草。 |
| 病床にて孫文の同意を得たと伝えられる。 |
国民政府との関わり
| 孫文の死後、汪は広東で国民政府常務委員会主席・軍事委員会主席を兼任する。 |
| この政府には、毛沢東ら中国共産党メンバーも参加していた(のち北伐開始後、政府は武漢に移る)。 |
| 民国15年(1926年)3月、中山艦事件により蒋介石との行き違いが生じ、汪は自発的に職責を辞任し、フランスに亡命した。 |
| 民国16年(1927年)4月1日、蒋介石の招電に応じ、再度帰国。 |
| 中央常務委員、組織部長に返り咲いた。 |
| 同年に「中国国民党の多数の同志、およそ中国共産党の理論およびその中国国民党に対する真実の態度を了解する人々は、だれも孫総理の連共政策をうたがうことはできない。 |
| さらに蒋は4月18日、南京に国民政府を組織して、共産党の影響が強い武漢政府から離反した。 |
| 汪は武漢政府に残ったが、やがて「共産党との分離」を決意し、武漢政府内にて清党工作を進めることとなった。 |
| 「反共産党」で一致したことから、武漢政府と南京政府の再統一がスケジュールにのぼり、蒋介石が下野して両政府は合体することとなった。 |
| 汪は新政府で、国民政府委員、軍事委員会主席団委員等の地位に着いている。 |
| しかし共産党の広東蜂起の混乱の責任をとって汪は政界引退を表明し、再びフランスへ外遊することとなる。 |
| 一方国内では、独裁の方向に動き出した蒋と、その動きに反発する反蒋派との対立が生じる。 |
| 汪は反蒋派から出馬を請われて帰国し、民国19年(1930年)9月、北京にて国民政府を樹立したが、北京国民政府主席は戦局の不利を見てすぐに下野を表明し、政権は1日で瓦解した。 |
| 汪は国民党から除名処分を受ける。 |
| 汪はしばらく香港に蟄居していたが、民国20年(1931年)5月、反蒋派が結集した広東国民政府に参画した。 |
| 満州事変を機に蒋政府との統一の機運が高まり、民国21年(1932年)1月1日、蒋と汪が中心となる南京国民政府が成立した。 |
| 汪はこの政府で、行政院長、鉄道部長を務めた。 |
| 民国22年(1933年)5月、汪は関東軍の熱河侵攻に伴う塘沽停戦協定の締結に関わった。 |
| 実質的に満州国の存在を黙認するものであったが、これは汪の「一面抵抗、一面交渉」という思想の現れでもあった。 |
| 汪はその後、政府内の反対派の批判を受けつつ、「日本と戦うべからず」を前提とした対日政策を進めることとなる。 |
汪兆銘狙撃事件
| 民国24年(1935年)11月1日、国民党六中全会の開会式の記念撮影の時、汪兆銘は狙撃された。 |
| 汪は三発の弾を受けたが、幸いにして弾は急所を外れていた。 |
| この時体内から摘出できなかった弾が、のち骨髄腫の原因となり、汪の命を奪うこととなる。 |
| 汪は療養のため、民国25年(1936年)2月、ヨーロッパへ渡った。 |
| (翌民国26年(1937年)1月帰国)。 |
蒋介石との訣別
| 民国26年(昭和12年、1937年)7月、日中戦争が始まった。 |
| 徹底抗戦を貫く蒋介石に対し、汪は「抗戦」による民衆の被害に心を痛め、和平グループの中心的存在となった。 |
| 一方、民国27年(1938年)3月頃から、日中の和平派が水面下での交渉を重ねるようになったが、この動きはやがて、中国側和平派の中心人物である汪をパートナーに担ぎ出して「和平」を図ろうとする、いわゆる「汪兆銘工作」に発展していく。 |
| 10月12日には汪はロイター記者に対して日本との和平の可能性を示唆、さらにそののち長沙の焦土戦術に対して明確な批判の意を表したことから、蒋介石との対立は決定的なものとなった。 |
| 今井武夫によれば、汪は11月16日の蒋との話し合いで、蒋との訣別を決心したと伝えられる今井武夫『支那事変の回想』P85。 |
| 11月、上海で、汪派の高宗武・梅思平と、日本政府の意を体した影佐禎昭や今井武夫との間で話し合いが重ねられ(重光堂会談)、11月20日、両者は「中国側の満州国の承認」「日本軍の2年以内の撤兵」などを内容とする「日華協議記録」を署名調印した。 |
| その合意の実現のため、汪側は、「汪は重慶を脱出する。 |
| 日本は和平解決条件を公表し、汪はそれに呼応する形で時局収拾の声明を発表し、昆明、四川などの日本未占領地域に新政府を樹立する」という計画を策定した。 |
| この計画に従い、12月18日、汪はついに重慶脱出を決行した。 |
| 12月20日、ハノイ着。 |
| 汪の脱出に前後して、陳公博、陶希聖、梅思平らの汪グループも、それぞれ重慶から脱出した。 |
| しかし汪の期待に反して、昆明の竜雲、四川の潘文華、第四戦区(広東・広西)の司令官張発奎将軍などの軍事実力者たちは、ついに汪に同調することはなかった。 |
| さらに汪にとって打撃となったのが、12月22日、汪の脱出に応える形で発表された近衛声明(第三次近衛声明)である。 |
| 声明は、汪と日本側の事前密約の柱であった「日本軍の撤兵」には全く触れておらず、汪グループに強い失望を持たせる結果となった。 |
| 12月29日、汪は通電を発表し、広く「和平反共救国」を訴えた(「29日」の日付をとって「艶電」と呼ばれる)。 |
| 民国28年(1939年)1月、近衛文麿は突然首相を辞任し、汪の構想は完全に頓挫することとなった。 |
ハノイでの狙撃事件
| 民国28年(1939年)3月21日、国民党の刺客が汪の家に乱入、汪の腹心であった曽仲鳴を射殺した。 |
| 刺客は汪を狙ったが、たまたま当日は汪と曾が寝室を取り替えていたため、曾が身代わりに犠牲になったものだった。 |
| 影佐禎昭、犬養健らがこの工作に携わり、4月25日、汪はハノイを離れ、5月6日、上海に到着した。 |
汪兆銘政府の成立
| 一時は新政府樹立を断念していた汪だったが、ハノイでの狙撃事件をきっかけに、「日本占領地域内での新政府樹立」を決意することとなる。 |
| これは、日本と和平条約を結ぶことによって、中国-日本間の和平のモデルケースをつくり、重慶政府に揺さぶりをかけ、最終的には重慶政府が「和平」に転向することを期待するものであった。 |
| そして、日本占領地内の傀儡政権の長であった王克敏、梁鴻志と協議を行い、9月21日、中央政務委員の配分を「国民党(汪派)三分の一、臨時維新両政府(王、梁政府)三分の一、その他三分の一」とすることで合意に達し、彼らと合同して新政府を樹立することとなった。 |
| ・・・堀場中佐は自分に問ふて曰く「この条件で汪政府が民衆を把握する可能性ありや」と自分は「不可能である」と答へざるを得なかつた」影佐禎昭『曾走路我記』と回想している。 |
| 民国29年(1940年)3月30日、南京国民政府の設立式が挙行された国民党の正統な後継者であることを主張するため「南京遷都式」の形式をとった。 |
| 汪は、重慶政府との合流の可能性を睨んで、当面新政府の「主席代理」に就任した(民国29年(1940年)11月「主席」就任)。 |
| 民国31年(1942年)12月の訪日時には、大勲位菊花大綬章を授与された。 |
死去
| 民国33年(1944年)に入ると、狙撃の際に受けた傷が激しく痛み始め、まもなく下半身不随の重体となった。 |
| 3月3日には渡日して名古屋帝国大学医学部附属病院に入院。 |
| 汪は身体の激痛に耐えながら闘病生活を続けたが、11月10日、そのまま名古屋にて客死した。 |
| 遺体を小牧飛行場から飛行機に乗せて送り出す際には、小磯国昭・重光葵ら当時の政府閣僚、近衛文麿・東条英機ら重臣などが見送りに訪れた。 |
| 終戦後の民国35年(1946年)1月15日、国民党第七四軍は、墓のコンクリートの外壁を爆破、汪の棺を取り出した。 |
| 「漢奸」の墓を残すわけにはいかない、との考えからと見られる劉傑『漢奸裁判――対日協力者を襲った運命』、中公新書、2000年。 |
南京国民政府のその後
| 民国30年(1941年)12月8日、太平洋戦争が始まったが、汪は事前に日本の開戦決意を知らされておらず、「和平」の実現がますます遠のいたことに衝撃を受けたという。 |
| 汪は日本の国力では英米に対抗できないとの判断から開戦には反対していたが、結局汪兆銘政府も参戦することになり、民国32年(1943年)1月、英米に対し宣戦布告。 |
| 同11月には東京で開かれた大東亜会議に、汪は南京国民政府代表として他のアジア諸国の首脳とともに出席した。 |
| 南京国民政府はポツダム宣言受諾が公表された翌日1945年8月16日「汪精衛政権の基盤強化の戦略」土屋光芳(明治大学政経論叢第77巻第5・6号2009.3.30) |
伝記
| 杉森久英 『人われを漢奸と呼ぶ汪兆銘伝』(文藝春秋 平成10年(1998年))。 |
| 上坂冬子 『我は苦難の道を行く汪兆銘の真実』上下 (講談社 平成11年(1999年)、文春文庫 平成14年(2002年))。 |
| 小林英夫『日中戦争と汪兆銘』(歴史文化ライブラリー158/吉川弘文館平成15年(2003年))。 |
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1884年
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10人兄弟の末子として広東省三水県(現在の仏... |
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1906年
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法政大学速成科を卒業 |
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