9531
9672
116448
%E6%B2%B3%E4%B8%8A%E4%B8%88%E5%A4%AA%E9%83%8E
%E6%B2%B3%E4%B8%8A%E4%B8%88%E5%A4%AA%E9%83%8E
%E6%B2%B3%E4%B8%8A%E4%B8%88%E5%A4%AA%E9%83%8E
%E6%B2%B3%E4%B8%8A%E4%B8%88%E5%A4%AA%E9%83%8E
%E6%B2%B3%E4%B8%8A%E4%B8%88%E5%A4%AA%E9%83%8E
0
|
他の画像検索結果
他人の画像が選択されている・混じっている場合
画像候補は人物名で顔画像を検索したものです。
人物として適切でない画像も含まれてしまう可能性があります。
適切な画像になるよう 河上丈太郎の画像検索結果ページで修正できます
|
|
ネットワーク
|
タグ
キーワード
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
|
つながりの強いひと
|
|
鈴木茂三郎
日本の政治家、第2代日本社会党委員長。ジャーナリスト、エッセイストとしても知られた。 |
|
|
河上民雄
息子
河上民雄 [カワカミタミオ] 1925年神戸市に生まれる。45年旧制静岡高等学校卒業、48年9月東京大学文学部西洋史学科卒業、63‐64年米国コロンビア大学留学。5... |
|
|
江田三郎
日本の政治家。衆議院議員(5期)、参議院議員(2期)、社会市民連合代表(初代)、日本社会党委員長代行、書記長、副委員長を歴任した。長男は法務大臣・前... |
|
|
浅沼稲次郎
東京府三宅村(現在の東京都三宅村)出身の日本の政治家。日本社会党書記長、委員長を歴任した。正しい姓名は淺沼稻次郎。巨体と大きな声で全国を精力的に遊... |
|
|
西尾末広
日本の労働運動家・政治家。副総理、官房長官(第2代)、衆議院議員(通算14期)、民社党委員長(初代)などを歴任した。 |
|
|
麻生久
昭和期の政治家・労働運動家。戦前の無産政党・社会大衆党の党首を務めた。 |
|
|
勝間田清一
静岡県御殿場市出身の日本の政治家。日本社会党委員長、政審会長、国対委員長、衆議院副議長を歴任した。正三位勲一等旭日大綬章。 |
|
|
河野密
日本の政治家。千葉県出身。東京帝国大学法学部卒。大学在学中に新人会に参加し、卒業後日本労農党に参加。更に社会大衆党へ移って、1936年の第19回衆議院議... |
|
|
佐々木更三
日本の政治家。日本社会党副委員長、委員長を歴任した。 |
|
|
吉田茂
吉田 茂様 プロフィール 株式会社 イビサ 取締役会長 吉田 茂(よしだ・しげる) 昭和 8年 1月 2日 岐阜県加茂郡八百津町須賀に生まれる 昭和26年 3月 1日 岐... |
|
|
片山哲
日本の弁護士、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。社会民衆党書記長(初代)、衆議院議員(12期)、社会大衆党執行委員、日本社会党書記長(初代)、日本... |
|
|
石橋政嗣
日本の政治家。長崎県出身。日本社会党書記長・副委員長・委員長を歴任した。全駐労出身。日本社会党きっての政策通として知られ、特に非武装中立実現までの... |
|
|
成田知巳
成田知巳(なりたともみ、1912年9月15日-1979年3月9日)は日本の政治家。香川県高松市出身。日本社会党政策審議会長・書記長・委員長を歴任した。 |
|
|
池田勇人
日本の大蔵官僚、政治家。位階は正二位。勲等は大勲位。大蔵次官、衆議院議員(7期)、大蔵大臣(第55・61・62代)、通商産業大臣(第2・7・19代)、経済審議... |
|
|
芦田均
日本の外交官、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。学位は法学博士(東京帝国大学)。衆議院議員(11期)、厚生大臣(第14代)、外務大臣(第76・77代)、... |
|
|
石橋湛山
日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(... |
|
|
賀川豊彦
大正・昭和期のキリスト教社会運動家、社会改良家。戦前日本の労働運動、農民運動、無産政党運動、生活協同組合運動において、重要な役割を担った人物。日本... |
|
|
田中角栄
日本の政治家。衆議院議員(16期)、郵政大臣(第12代)、大蔵大臣(第67・68・69代)、通商産業大臣(第33代)、内閣総理大臣(第64・65代)などを歴任した。 |
|
|
村山富市
日本の政治家。勲等は桐花大綬章。社会民主党名誉党首、学校法人明治大学顧問。大分県大分市議会議員(2期)、大分県議会議員(3期)、衆議院議員(8期)、衆... |
|
|
中曽根康弘
日本の政治家。位階は従六位。勲等は大勲位。財団法人世界平和研究所会長。中曾根康弘とも表記される。衆議院議員(20期)、科学技術庁長官(第7・25代)、運... |
|
|
プロフィール
- 河上丈太郎とは
- 生い立ち
- 無産党代議士として
- 右派社会党委員長として
- 日本社会党委員長として
- エピソード
- 参考文献
- 関連サイト
河上丈太郎(かわかみじょうたろう、1889年1月3日-1965年12月3日)は、東京都港区出身の日本の政治家。右派社会党委員長、日本社会党委員長を歴任した。息子は衆議院議員・社会党国際局長をつとめた 河上民雄。
生い立ち
| 古材木商河上新太郎の息子として生まれた。 |
| 丈太郎が幼いときに、父がキリスト教に入信し、父の影響で丈太郎自身も敬虔なクリスチャンとなった。 |
| 立教中学に通っている時に、『万朝報』に掲載された、幸徳秋水の「退社の辞」に感銘を受け、社会主義思想に関心を持つようになった。 |
| 第一高等学校を経て、1915年に東京帝国大学(現東京大学)法学部政治科を卒業。 |
| 就職先として、朝鮮総督府が用意されたが、その武断統治を嫌って、立教大学の講師となった。 |
| 後に同僚の勧めで関西学院に教授として赴任した。 |
| 関西学院教授時代、賀川豊彦と出会った河上は労働学校の講師をつとめるようになり、次第に社会主義の実践運動にのめりこんでいった。 |
| なお、関西学院教授時代に東京帝国大学法律学科に学士入学して、弁護士資格を取得している。 |
無産党代議士として
| 1928年の第1回普通選挙に河上は日本労農党公認で出馬して当選し、8人の無産党代議士の一人となった。 |
| その後、1932年の総選挙で落選するが、1936年総選挙で返り咲き、以後、公職から追放された時期を除き、死ぬまで、衆議院議員であり続けた。 |
| その後日本大衆党・全国大衆党・全国労農大衆党に所属した。 |
| 1932年に日本の無産政党が社会大衆党として統一されると、河上も社会大衆党に属し、社会大衆党の国家社会主義的な政策を支持した。 |
| 1940年、社会大衆党内で国家社会主義的な政策を推進していた麻生久が亡くなると、麻生の名代として大政翼賛会総務となった。 |
| このことを理由に、戦後、河上は戦争に協力したとして、公職から追放された。 |
右派社会党委員長として
| 1951年、公職追放を解除されると、1952年に右派社会党の委員長に推された。 |
| このとき、河上は「委員長は十字架である」と演説して、「十字架委員長」の異名をつけられた。 |
| 1952年の第25回衆議院議員総選挙では、支持者に対して「私は長い追放生活を終えて、ようやくこうして諸君と相まみえることができるようになった。 |
| 私の公職追放は、私がある団体に関与していたからである。 |
| 私の真情をいえば、必ずしも進んでその団体に参加したわけではないが、今は多くを弁解しない。 |
| 諸君の中に、私の戦時中の行動に批判を抱く人がいたら、どうか選挙を通じて厳正な批判を下していただきたい。 |
| また、この河上を許してくれる人は、河上一個人のためでなく日本社会党の前進のために御協力いただきたい」と演説して、自らの戦争責任を謝罪した。 |
| この選挙では、公職追放を解除された政治家が多く立候補したが、自らの戦争責任を認めたのは河上ただ一人であったと言われている。 |
| 1955年、社会党再統一となると、委員長の座を左派社会党の鈴木茂三郎に譲り、自らは党の顧問となった。 |
| その後の河上は平和運動に邁進し、元A級戦犯の岸信介が首相に就任すると、自らの戦争責任を認めた上で、岸に対しても戦争責任を認めるよう追及するなどしている。 |
| 1960年6月17日、衆議院議員面会所で請願を受けていた際に、右翼に左肩を刺され負傷。 |
日本社会党委員長として
| 1960年、西尾末広が民社党を結成すると、動揺した河上派の国会議員の一部が民社党に走った。 |
| その際、総評の太田薫議長が河上に対して選挙協力と引き換えに、河上派全体が民社党に移らないよう要請したと言われているが、太田の申し出を聞いた河上は激怒して、「自分たちは損得のためにやっているのではない」と太田を追い出したのが真相である。 |
| しかし、河上派の動揺を抑えるため、河上は1960年の委員長選挙に出馬し、鈴木派が推す浅沼稲次郎を僅差まで追い詰めた。 |
| 予想外の支持が集まったことに河上派の国会議員は満足して、河上派の動揺は収まり、河上は社会党の分裂を最小限に食い止めることに成功した。 |
| しかし、同年、河上を破って委員長に就任した浅沼は刺殺されてしまい、翌年、河上が委員長となった。 |
| 晩年、遊説中に病に倒れ病状が悪化する中で、そのような状態で委員長を続ければ、後世に「地位に恋々とする政治家だったとの酷評を受けることになる」として、長男の河上民雄が委員長辞任届けを社会党に提出した。 |
エピソード
| 当時、新聞記者の間で政治家の話題が出たときは、呼び捨てにするか愛称で呼ぶのが普通だったが、新聞記者の間でも河上は人格者として知られており、誰もが河上のことを「河上さん」とさん付けで呼んだというエピソードが残っている。 |
| また、河上は学者出身らしく、遊説の合間に外国の新聞や雑誌に目を通し、常に政策の勉強を怠らなかったといわれている。 |
| 河上が死去したとき、旧制第一高等学校以来の友人である賀屋興宣は追悼文の中で理想、信念、信仰、正義、熱情、純情、善意等の言葉で河上のことを評した。 |
| (以上のエピソードは石川真澄著『人物戦後政治』岩波書店、1997年、ISBN4-00-023314-9、151〜152頁より)。 |
参考文献
| 河上前委員長記念出版委員会編『河上丈太郎 十字架委員長の人と生涯』日本社会党、1966年。 |
| 田村祐造『戦後社会党の担い手たち』日本評論社、1984年。 |
| 高橋勉『社会党河上派の軌跡』三一書房、1996年。 |
|
1915年
|
東京帝国大学(現東京大学)法学部政治科を卒業 |
|
1932年
|
日本の無産政党が社会大衆党として統一される... |
|
投票数
0
| ふりがな |
|
| 性別 |
|
| 出身地 |
|
| 生年月日 |
|
| 血液型 |
|
| 職業 |
|
| 所属 |
|
| Twitter |
|
|
|
|
河上丈太郎さんについてのひとこと紹介
|
|
|
|