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つながりの強いひと
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奥山直司
奥山 直司 おくやま なおじ 1956年、山形県生まれ。東北大学大学院博士課程修了。現在、高野山大学教授。専門は仏教文化史。著書に『評伝 河口慧海』(中公文... |
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与謝野晶子
戦前日本の歌人、作家、思想家。大阪府堺市(現在の堺区)出身。旧姓;鳳(ほう)。戸籍名「志よう」。ペンネームの「晶子」の「晶」は、この「しよう」から... |
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多田等観
多田等観(ただとうかん、1890年(明治23年)7月1日-1967年(昭和42年)2月18日)は僧侶、仏教学者。明治末から大正にかけてチベットに入り、チベット仏教を... |
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千利休
戦国時代から安土桃山時代にかけての商人、茶人。わび茶(草庵の茶)の完成者として知られる。茶聖とも称せられる。また、今井宗久・津田宗及と共に茶湯の天... |
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能海寛
チベットを探検した真宗大谷派の僧、仏教学者。 |
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山田無文
「裁判官にでもしてやろうと学校に行かせたのに」と怒り、母は「ぼんさん(お坊さん)出さなあかん程、うちは世間に悪いことしてない」と泣く、父は親交のあ... |
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山口瑞鳳
日本の仏教学者、チベット学者。東京大学名誉教授、成田山仏教研究所客員研究所員。文学博士(東京大学、1979年)。石川県鳳至郡門前町(現・輪島市)生まれ... |
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真仏
鎌倉時代中期の浄土真宗の僧。専修寺二世、佛光寺二世。親鸞直弟「二十四輩」の第二番。真壁椎尾氏の庶子で、俗名は、椎尾弥三郎春時。 |
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西川一三
日本の情報部員。日中戦争下に内モンゴルより河西回廊を経てチベットに潜行。戦後インドを経て帰国。 |
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南方熊楠
日本の博物学者、生物学者(特に菌類学)、民俗学者である。菌類学者としては粘菌の研究で知られている。主著『十二支考』『南方随筆』など。投稿論文や書簡... |
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金子民雄
著者情報 金子 民雄 1936年、東京生まれ。日本大学商学部卒業後、中央アジア史、東南アジア史の調査・研究を続ける。哲学博士(本データはこの書籍が刊行され... |
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三蔵法師
仏教の経蔵・律蔵・論蔵の三蔵に精通した僧侶(法師)のこと。また転じて訳経僧を指していうようになった。単に“三蔵”と呼ぶこともある。 |
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川喜田二郎
三重県出身の地理学者、文化人類学者。京都帝国大学文学部地理学科卒業。文学士。東京工業大学教授を経て川喜田研究所代表、筑波大学教授、中部大学教授、東... |
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鈴木大拙
禅についての著作を英語で著し、日本の禅文化を海外に広くしらしめた仏教学者(文学博士)である。著書約100冊の内23冊が、英文で書かれている。梅原猛曰く、... |
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今枝由郎
カリフォルニア州立大学バークレー校客員教授。フランス国籍を取得しており、元夫人のフランソワーズ・ポマレもフランス人チベット学者。現在は、日本人女性... |
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寺本婉雅
愛知県海東郡出身で、日本人として3番目にチベットに入った東本願寺の僧である。 |
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スヴェン・ヘディン
スヴェン・アンダシュ(アンデシュ)・ヘディン(SvenAndersHedin,1865年2月19日-1952年11月26日)はスウェーデンの地理学者・中央アジア探検家。 |
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井上円了
仏教哲学者、教育家。多様な視点を育てる学問としての哲学に着目し、後に東洋大学となる哲学館を設立した。また、迷信を打破する立場から妖怪を研究し『妖怪... |
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行基
日本の奈良時代の僧。677年4月に生まれたという説もある。僧侶を国家機関と朝廷が定め仏教の一般民衆への布教を禁じた時代に、禁を破り畿内を中心に民衆や豪... |
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プロフィール
- 河口慧海とは
- 経歴
- 邦人未踏のチベットへ
- 帰国後
- 略歴
- 著書
- 関連図書・参考文献
- 関連サイト
河口慧海(かわぐちえかい、1866年2月26日(慶応2年1月12日)-1945年(昭和20年)2月24日)は、黄檗宗の僧侶。仏教学者にして探検家。幼名を定治郎という。僧名は 慧海仁広(えかいじんこう)。中国や日本に伝承されている漢語に音訳された仏典に疑問をおぼえ、 仏陀本来の教えの意味が分かる物を求めて、梵語の原典とチベット語訳の仏典入手を決意。日本人として初めてチベットへの入国を果たした。
経歴
| 1866年泉州堺(現・大阪府堺市)生まれ。 |
| 1890年(明治23年)に黄檗宗の五百羅漢寺で得度を受け出家する(1926年に還俗)。 |
| 1892年(明治25年)には大阪妙徳寺に入り、禅を学ぶ。 |
邦人未踏のチベットへ
| 1897年(明治30年)6月に神戸港から旅立ち、シンガポール経由で英領インドカルカッタへ。 |
| 摩訶菩提会(マハーボーディ・ソサエティ)幹事チャンドラ・ボースの紹介によりダージリンのサラット・チャンドラ・ダース(SaratChandraDas)の知遇を得る。 |
| およそ1年ほど現地の学校にて正式のチベット語を習いつつ、下宿先の家族より併せて俗語も学ぶ日々を送り、当時厳重な鎖国状態にあったチベット入国にあたって、どのルートから行くかを研究した結果、ネパールからのルートを選択。 |
| 日本人と分かってはチベット入りに支障をきたす恐れが強いため、支那人と称して行動することにした。 |
| 1899年(明治32年)1月、仏陀成道の地ブッダガヤに参り、ネパールの首府カトマンズやポカラを経て、徐々に北西に進んで行くが、警備のため間道も抜けられぬ状態が判明し、国境近くでそれ以上進めなくなる。 |
| ここで知り合ったモンゴル人の博士セーラブ・ギャルツァンが住むロー州ツァーラン村に滞在することになり、1899年(明治32年)5月より翌年3月頃までをネパールのこの村でチベット仏教を学びながら過ごす。 |
| 1900年(明治33年)7月、ネパール領トルボ(ドルポ/ドルパ)地方とチベット領との境にあるクン・ラ(峠)を密かに越え、チベット西北原への入境に成功。 |
| 聖地カイラス山などを巡礼した後、1901年(明治34年)3月にラサに到達。 |
| チベットで二番目の規模(定員5500名)を誇るセラ寺の大学に支那人僧として入学を許される。 |
| たまたま身近な者の脱臼を治してやったことがきっかけとなり、その後様々な患者を診るようになる。 |
| 次第にラサにおいて医者としての名声が高まった為、ついには法王ダライ・ラマ13世に召喚され、その際侍従医長から侍従医にも推薦されているが、これは断っている。 |
| また、前大蔵大臣の妻を治療した縁で夫の前大臣とも懇意になり、以後はこの大臣邸に住み込むことになった。 |
| この前大臣の兄はチベット三大寺の1つ、ガンデン寺の坐主チー・リンポ・チェであり、前大臣の厚意によってこの高僧を師とし学ぶことが出来た。 |
| 1902年(明治35年)5月上旬、日本人だという素性が判明する恐れが強くなった為にラサ脱出を計画。 |
| 親しくしていた天和堂という薬屋の支那人夫妻らの手助けもあり、集めていた仏典などを馬で送る手配を済ませた後、5月29日に英領インドに向けてラサを脱出した。 |
| 通常旅慣れた商人でも許可を貰うのに一週間はかかるという五重の関所をわずか3日間で抜け、無事インドのダージリンまでたどり着くことができた。 |
| 同年10月、国境を行き来する行商人から、ラサ滞在時に交際していた人々が自分の件で次々に投獄されて責苦に遭っているという話を聞き、その救出の為の方策としてネパールに赴く。 |
| 翌年1903年(明治36年)3月、待たされはしたものの、交渉の結果国王からチベット法王ダライ・ラマ宛ての上書を貰うことに成功、それをチベットに送っている。 |
| 4月24日英領インドをボンベイ丸に乗船して離れ、5月20日に旅立った時と同じ神戸港に帰着。 |
| 和泉丸に乗って日本を離れてから、およそ6年ぶりの帰国だった。 |
| 河口慧海のチベット行きは、記録に残る中で日本人として史上初のことである。 |
| その後、河口慧海は1913年(大正2年)~1915年(大正4年)にも2回目のチベット入境を果たしている。 |
| ネパールでは梵語仏典を蒐集し、チベットからは大部のチベット語仏典を蒐集することに成功した。 |
| また同時に、民俗関係の資料や植物標本なども収集した。 |
| 持ち帰った大量の民俗資料や植物標本の多くは東北大学大学院文学研究科によって管理されている。 |
帰国後
| 1903年(明治36年)に帰国した慧海は、チベットでの体験を新聞に発表、さらにその内容をまとめて1904年(明治37年)に『西蔵旅行記』を刊行した。 |
| 慧海の体験談は一大センセーションを巻き起こした一方で、彼のチベット入境は俄かには信じられず、当初はその真偽を疑われる結果となってしまった。 |
| 英訳では1909年に“ThreeYearsinTibet”の題でロンドンの出版社から刊行されている。 |
| 現在は『西蔵旅行記』は現代仮名遣いに改訂された『チベット旅行記』で、2回目の帰国後に発表された「入蔵記」と「雪山歌旅行」は『第二回チベット旅行記』で読むことができる。 |
| 帰国後は経典の翻訳や研究、仏教やチベットに関する著作を続け、のちに僧籍を返上して、ウパーサカ(在家)仏教を提唱した。 |
| また、大正大学教授に就任し、チベット語の研究に対しても貢献した。 |
| 晩年は蔵和辞典の編集に没頭。 |
| 太平洋戦争終結の半年前に東京世田谷の自宅で死去した。 |
| 現在、生家跡(大阪府堺市堺区北旅籠町西3丁1番)に記念碑が設置され、その最寄り駅である南海本線七道駅前に銅像が建てられている。 |
略歴
| 1866年(慶応2年)-大阪府堺市に樽桶製造業、河口善吉と常(つね)の長男として生まれる。 |
| 1884年(明治17年)-19歳の秋、徴兵令改正に不当を感じ、天皇への直訴の為上京。 |
| 1890年(明治23年)-25歳で得度を受け、慧海仁広(えかいじんこう)と名付けられる。 |
| 1893年(明治26年)-4月、チベット行きを想起。 |
| 以後パーリー語を習うなどしてその準備に当たる。 |
| 1897年(明治30年)-慧海32歳。 |
| 6月26日、神戸港より和泉丸に乗船し、チベット入りを目して渡印。 |
| 1897年(明治30年)-シンガポール経由でカルカッタへ着き、8月3日汽車でダージリンに到着。 |
| 1899年(明治32年)-約1年間のチベット語就学後、1月5日にカルカッタへ戻る。 |
| 1899年(明治32年)-2月、ネパールの首府・カトマンズへ。 |
| 1899年(明治32年)-5月中頃、ネパール北部のツァーラン村に立ち寄り、ここで1年近くを過ごす。 |
| 1900年(明治33年)-3月10日、ツァーランを出立。 |
| 1900年(明治33年)-7月初旬頃、ネパール側よりチベット国境に到達。 |
| 1901年(明治34年)-3月21日。 |
| チベット・ラサに到着。 |
| セラ大学に籍を置く。 |
| 1902年(明治35年)-5月29日。 |
| およそ1年2ヶ月余りの滞在後、ラサを脱出。 |
| 1903年(明治36年)-4月24日。 |
| インド・ボンベイよりボンベイ丸に乗船し出港。 |
| 1903年(明治36年)-5月20日。 |
| 香港を経由し、神戸港に到着。 |
| 無事6年ぶりの帰国を果たす。 |
| 1904年(明治37年)-『西藏旅行記』を出版後、渡印。 |
| 1913年(大正2年)-再びチベットに入る。 |
| 1915年(大正4年)-帰国。 |
| 1921年(大正10年)-僧籍返還。 |
| 1926年(大正15年)-『在家仏教』を出版。 |
| 1945年(昭和20年)-脳溢血のため80歳で死去。 |
| 2004年(平成16年)-それまでには記されていなかった「ヤクに乗って移動した」との記述のある自筆の日記が、姪の自宅から見つかる |
著書
| 『日本の元気』1889年。 |
| 『西藏旅行記』1904年。 |
| "ThreeYearsinTibet"(『西藏旅行記』の本人による英訳書)1909年。 |
| OrchidPr、2005年、ISBN9745240141 再刻。 |
| 『生死自在』1904年。 |
| 『仏教和讃』1921年。 |
| 復刻『仏教の長生不老法』 国書刊行会、2004年ISBN4-336-04618-2。 |
| 『在家仏教』1926年。 |
| 『チベット旅行記』 講談社学術文庫全5巻、1978年。 |
| 『第二回チベット旅行記』 講談社学術文庫、1981年、ISBN4061583174。 |
| 『チベット旅行記』(上・下) 長沢和俊編、白水社:白水Uブックス元版は長澤和俊編「西域紀行探検全集」白水社など、他社も含め複数の版で刊行。 |
| 2004年、上巻ISBN4560073724下巻ISBN4560073732。 |
| 『河口慧海日記ヒマラヤ・チベットの旅』 奥山直司編、講談社学術文庫、2007年 ISBN4061598198 。 |
関連図書・参考文献
| 『河口慧海(世界伝記文庫11)』青江舜二郎、国土社、1957年。 |
| 『河口慧海著作集』全17巻・別巻2うしお書店、1998年-2004年。 |
| 『詳解河口慧海コレクション―チベット・ネパール仏教美術』 田中公明、佼成出版社、1990年、ISBN4333014875。 |
| 『河口慧海請来チベット資料図録』佼成出版社、1986年、ISBN4333012392。 |
| 『遥かなるチベット―河口慧海の足跡を追って』 根深誠 中公文庫、1994年、ISBN4122033314。 |
| 『西蔵漂泊―チベットに魅せられた十人の日本人(上)』江本嘉伸、山と溪谷社、1993年、ISBN4635280233。 |
| 『西蔵漂泊―チベットに魅せられた十人の日本人(下)』江本嘉伸、山と溪谷社、1994年、ISBN4635280241。 |
| 『河口慧海―日本最初のチベット入国者』河口正、春秋社、2000年、ISBN4393137191。 |
| 『チベットと日本の百年―十人は、なぜチベットをめざしたか』 日本人チベット行百年記念フォーラム実行委員会編、新宿書房、2003年、ISBN4880082821。 |
| 『評伝河口慧海』奥山直司、中央公論新社、2003年、ISBN4120034119、中公文庫 2009年。 |
| 『河口慧海 人と旅と業績』高山龍三、大明堂、1999年、ISBN4-470-43041-2。 |
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1866年
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河口 慧海(かわぐち えかい、(慶応2年1月12... |
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1909年
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“Three Years in Tibet”の題でロンドンの出版... |
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