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つながりの強いひと
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若宮丸
「石巻ローンテニスクラブ」 を経営なさっている。 場所は 石巻市門脇二丁目2-6 丁度、鹿島御子神社の崖下位に位置しているのではないだろうか。風の心配... |
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豊竹山城少掾
三代目竹本津大夫、六代目竹本土佐大夫らと並んで三巨頭と呼ばれ、1942年には文楽座櫓下となる。1946年、芸術院会員。大阪府文芸賞。1947年、秩父宮より掾号... |
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伊賀越道中双六
伊賀越道中双六 【いがごえどうちゅうすごろく】 2件の用語解説(伊賀越道中双六で検索) Tweet 百科事典マイペディア の解説 近松 半二,近... |
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大槻玄沢
仙台藩の支藩一関藩(田村氏領)出身の江戸時代後期の蘭学者。名は茂質(しげかた)、字は子煥(しかん)。磐水(ばんすい)と号す。『解体新書』の翻訳で有... |
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大黒屋光太夫
友達
大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう、宝暦元年(1751年)-文政11年4月15日(1828年5月28日))は江戸時代後期の伊勢国白子(現三重県鈴鹿市)の港を拠点とし... |
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太十郎
太十郎 【たじゅうろう】 1件の用語解説(太十郎で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 太十郎 たじゅうろう   1771-1... |
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長唄
近世邦楽の一ジャンル、三味線音楽の一ジャンル、江戸の音曲の一つであり、正式名称は江戸長唄(えどながうた)という。またこれとは別に、地歌の一分類とし... |
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竹本綱大夫
義太夫節の太夫。江戸中期より八代を数える。 |
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井上靖
井上靖文学碑
作家井上靖(文化勲章受章者、沼津市名誉市民)は、明治40年(1907)5月6日軍医だった父隼雄の任地旭川え生まれました。
父の転属のため、母や... |
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アレクサンドル1世
ロマノフ朝第10代ロシア皇帝(在位:1801年3月23日-1825年12月1日)、初代ポーランド立憲王国国王(在位:1815年6月9日-1825年12月1日)、初代フィンランド大... |
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間宮林蔵
間宮林蔵(まみやりんぞう、安永9年(1780年)-天保15年2月26日(1844年4月13日))は江戸時代後期の隠密、探検家である。近藤重蔵、平山行蔵と共に「文政の... |
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松平定信
江戸時代の大名、政治家。陸奥国白河藩第3代藩主。江戸幕府第8代将軍・徳川吉宗の孫に当たる。定綱系久松松平家第9代当主。 |
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堅田喜三久
堅田喜三久 プロフィール 昭和10年9月8日 九世望月太左衛門次男として東京市ヶ谷本村町に生まれる 昭和26年 叔父 三世堅田喜惣治に師事 昭和28年 望月康仁よ... |
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鶴澤清治
義太夫節の三味線方。2代鶴澤道八の養子。大阪生まれ。本名・中能島浩。1953年、4代鶴澤清六に入門、清治を名乗る。54年、9歳で四ツ橋文楽座で初舞台。60年、... |
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支倉常長
安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将。伊達氏の家臣。慶長遣欧使節団を率いてヨーロッパまで渡航し、ローマでは貴族に列せられた。幼名は與市、初名... |
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鶴澤道八
コブスの中にあるコンテンツの単語とウィキペディアの中にある単語を結びつけるコンテンツです。リンクされたキーワードをクリックするとその意味を表示しま... |
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浪曲
明治時代初期から始まった演芸の一つ。「浪花節」(なにわぶし)とも言い、三味線を伴奏に用いて物語を語る。浪花節は古くから伝わる浄瑠璃や説経節、祭文語... |
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ニコライ・レザノフ
ロシア帝国の外交官。極東及びアメリカ大陸への進出に関わり、ロシアによるアラスカおよびカリフォルニアの植民地化を推進した。露米会社(ロシア領アメリカ... |
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常磐津東蔵
我が家の焼けるのを墓地の崖上から涙を流して眺めておりました。 ◇[経 歴] 10歳頃母より手ほどきを受け。 中学1年になった時母に連れられ十六代目家元文字太... |
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プロフィール
津太夫(つだゆう、延享元年(1744年)-文化11年(1814年)7月29日)は現在の宮城県生まれ、江戸時代後期の水主(かこ)。49歳の時、その運命を変える嵐に遭う。儀兵衛、左平、 太十郎ら3名と共に、図らずも日本人初の世界一周を果たした漂流民である。
生涯
| 延享元年ころ善五郎の子として仙台藩・浦戸諸島寒風沢島(現宮城県塩竈市)に生まれる。 |
| 寛政5年(1793年)11月、仙台藩の用木、米などを積んだ16人乗りの若宮丸の水主として石巻から江戸へ向かう途中、塩屋崎(現福島県いわき市)沖で暴風に遭い漂流し、翌寛政6年(1794年)5月10日、アリューシャン列島東部の島に漂着した。 |
| その地でロシア人に助けられ、アムチトカ島、オホーツク、ヤクーツクを経て、寛政8年(1796年)12月下旬にイルクーツクに至り、この地で大黒屋光太夫と共に漂流した新蔵に出会う。 |
| この後津太夫ら若宮丸の漂流民14名はイルクーツクで7年間暮らすことになるが、新蔵の説得により洗礼を受けた善六をはじめとする4名は日本語学校の教師となり、何不自由なく暮らしたのに対して、洗礼を受けなかった津太夫ら10名は役所から必要最低限の銅貨が支給されていたものの生活は苦しく、津太夫は漁網を縫う仕事をし、他の者も漁師や大工の手伝いやパンを売り歩いて糊口をしのいだ。 |
| このため漂流民たちの間で対立が激しくなり、津太夫ら10名は新蔵とは親しく交流した反面、善六ら4名に対しては憎しみさえ抱くようになった。 |
| なお、寛政11年(1799年)2月28日に阿部吉郎次がイルクーツクで病死している。 |
| 享和3年(1803年)3月初旬にロシア皇帝アレクサンドル1世の命令書が届き、3月7日にイルクーツクを出発、トムスク、エカテリンブルク、ペルミ、カザン、モスクワを経由して4月27日にペテルブルクに到着した。 |
| この旅の途中、乗り物酔いや病気などの理由により3名がイルクーツクに引き返し、ペテルブルクにたどり着いたのは10名であった。 |
| ペテルブルクでは貴族の館で歓待され、5月16日に新蔵の通訳の下で皇帝アレクサンドル1世に謁見し、10名のうち帰国を希望した津太夫、儀兵衛、左平、太十郎の4名の帰国が許される。 |
| この後も一行は気球やプラネタリウム、芝居見物などロシア側から様々な接待を受けた。 |
| そして、6月12日に津太夫ら帰国組4名はロシア使節レザノフ一行と共にクロンシュタット港に赴き、ロシア使節船ナジェシダ号に乗船。 |
| ここで新蔵と別れた。 |
| 6月16日にナジェシダ号はクロンシュタット港を出発し、コペンハーゲン、、カナリア諸島、サンタ・カタリナ、ホーン岬、マルケサス諸島、ハワイ諸島を経て、文化元年(1804年)7月2日にペテロパウロフスクに到着した。 |
| ペテロパウロフスクでは、レザノフの通訳として同行していた善六も下船した。 |
| レザノフは善六を日本に連れて行くつもりであったが、善六の乗船により津太夫ら4名との対立が船内に持ち込まれ、空気が悪くなっているとナジェシダ号船長クルゼンシュテルンが強く主張したためであった。 |
| ナジェシダ号は8月5日にペテロパウロフスクを発ち、千島列島沿いにしばらく南下した後、本州東方から八丈島、薩摩の沖合を経由して9月4日に長崎に到着する。 |
| 津太夫は漂流以来12年目にして61歳で世界一周を成し遂げた。 |
| しかし、長崎に着いてからも津太夫ら4名はすぐに身柄を日本側に引き取られなかった。 |
| そのため不安と苛立ちから発病した者や、自殺未遂を起こした者まで出たが、正式に身柄が日本側に引き取られるのは翌文化2年(1805年)3月10日のことであった。 |
| 日本側に身柄を引き取られた後、4名は奉行所より訊問を受けキリシタン宗門の疑いが晴れた後、迎えに来た仙台藩士と共に長崎を出立し江戸へ向かった。 |
| 江戸では仙台藩主伊達周宗に引見し、藩邸の長屋で『環海異聞』編集のための聴取が行われた。 |
| すべてが終了したのは文化3年(1806年)2月下旬で、津太夫ら4名はようやく13年ぶりに帰郷を果たすことができた。 |
| 故郷の寒風沢に帰った津太夫は、文化11年(1814年)7月29日に70歳で亡くなった。 |
評価
| 本来であるならば日本人初の世界一周者ということでもっと評価されてもおかしくない人物であるが、津太夫に対する評価は長年厳しいものがある。 |
| その理由として第1に挙げられるのは彼の公式漂流記録『環海異聞』の編者である大槻玄沢の「彼ら(津太夫ら帰国者4人のこと)は無知な最下層の人間でいたずらにロシアを見聞したに過ぎない」という言葉が大きく影響しており、この言葉が彼らの評価を下げた原因の1つとして挙げられる。 |
| もう1つは津太夫が先に帰国した大黒屋光太夫に比べ、知識が乏しく、読み書きが光太夫ほどうまく出来なかったことも原因といわれている。 |
| しかし光太夫はもともと船頭の家柄に生まれ、子供の頃から読み書きを得意としたのに対し、津太夫は農民の子として生まれたということも忘れてはならない。 |
| 近年では、吉村昭をはじめとする作家や研究者の力によって、少しずつではあるが、津太夫に対する評価も上がってきている。 |
参考文献
| 吉村昭『漂流記の魅力』新潮新書 新潮社ISBN4106100029。 |
| 大島幹雄『魯西亜から来た日本人―漂流民善六物語』廣済堂出版ISBN4331505561。 |
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1793年
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仙台藩の用木、米などを積んだ16人乗りの若宮... |
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1799年
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阿部吉郎次がイルクーツクで病死している |
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