| 1959年9月20日、19歳でプロデビュー。 |
| 1960年12月24日、後楽園ジムナジアムにて原田政彦(笹崎)との東日本フライ級新人王決定戦に挑むものの前半2度のダウンを奪われ、6R判定負け。 |
| 初黒星を喫した。 |
| 1961年1月から1963年11月まで29連勝(16KO、1引分挟む)を記録。 |
| 1961年4月5日、当時無敗であった三羽烏のライバル、青木勝利(三鷹)と対戦。 |
| 1961年7月28日、後に日本ジュニアフェザー級王者に就く全日本バンタム級新人王、太郎浦一(新和)と対戦。 |
| 1962年5月4日、ローマオリンピックボクシングバンタム級日本代表で、後に2度日本バンタム級王者に就く芳賀勝男(暁)と対戦。 |
| 1962年12月31日、弥栄会館にて後のWBA世界フライ級、WBC世界同級王者で当時OBF東洋フライ級王者であるチャチャイ・ラエムファバー()とノンタイトル戦を行い、12R判定勝ち。 |
| 1963年9月18日、東京体育館にて世界フライ級王者ポーン・キングピッチ()に同級4位として挑戦。 |
| 自慢の左で2度ダウンを奪い、1RKO勝ちで世界王座を獲得した。 |
| 海老原の強打に足が痙攣したポーンは、立ち上がることができず10カウントを聞いたボクシング・マガジン編集部『日本プロボクシング史世界タイトルマッチで見る50年』ベースボール・マガジン社、2002年。 |
| 1964年1月23日、バンコクのラジャダムナン・スタジアムにて行われた初防衛戦となる前王者ポーン・キングピッチとのリターンマッチ。 |
| 試合前に拳を痛め手数があまり出ない中、2Rに左ストレートをクリーンヒットさせぐらつかせるが、後半ポーンのジャブを中心とした老練なボクシングに苦しみ10Rには左目をバッティングで負傷。 |
| ポーンにペースを握られつつも最後まで堪え、前半ポイントを稼いだ海老原が優勢と思われたが地元判定が災いし、判定負けで王座から陥落した。 |
| 1964年4月30日、ロサンゼルスのオリンピック・オーデトリアムにて後のWBC世界フライ級王者アラクラン・トーレス()と対戦。 |
| 1965年1月3日、過去3度戦っているOBF東洋フライ級王者、中村剛(新和)と4度目の対戦。 |
| 1965年5月7日、ロサンゼルスのロサンゼルス・メモリアル・コロシアムにてWBA世界フライ級1位として同級2位のアラクラン・トーレスと世界王座挑戦権をかけて再戦。 |
| 1R早々ダウンを奪いペースを掴み、7Rには左ストレートから連打を浴びせ再びダウンを奪う。 |
| トーレスが立ちあがった所に追撃し3度目のダウンを奪い、7RTKO勝ち。 |
| 1966年7月15日、ブエノスアイレスのルナ・パーク・スタジアムにてWBA世界フライ級王者オラシオ・アカバリョ()に同級1位として挑戦するも試合前に痛めた左拳を4Rに骨折し右手のみで追いかけ回したが、及ばず15R判定負け。 |
| 1967年4月10日、後の日本フライ級王者であるスピーディ早瀬(中村)と対戦。 |
| 1967年8月12日、世界王座挑戦が決定していた田辺清(田辺)が網膜剥離にて引退、ピンチヒッターとして再びオラシオ・アカバリョの世界王座に同級3位としてブエノスアイレスのルナ・パーク・スタジアムにて挑戦。 |
| 序盤はリードするものの、6Rに左拳を再び骨折、後半アカバリョの反撃に見舞われ、またも15R判定負け。 |
| 1969年3月30日、札幌中島スポーツセンターにてWBA世界フライ級2位として同級1位ホセ・セベリノ()と空位となっていたWBA世界フライ級王座を賭けて対戦。 |
| 試合前、痛めた右拳に麻酔を打つものの3Rに切れてしまった上、9Rには左拳も痛めるが、1R、2R、15Rに自慢の左を決めるなど最後まで攻め続け大差の15R判定勝ち。 |
| 再度世界王座を獲得した。 |
| 1969年10月19日、大阪府立体育会館にて同級2位のバーナベ・ビラカンポ()との初防衛戦。 |
| 序盤は優勢ながら3Rに公開スパーリングで痛めていた左肩を負傷、左手が上がらないまま戦い続けるも10R以降はダウン寸前に陥るほど一方的に攻められ、15R判定負け。 |
| またも初防衛に失敗した。 |
| なお、試合後に右拳も骨折していたことが判明した。 |
| この試合は当時トレーナーであったエディ・タウンゼントが「タオルを投げることも考えたが、海老原が拒み続けたので投げられなかった。 |
| 僕の中で観ていて一番辛い試合だった」と後に語っている。 |
| 1970年1月、引退。 |