| 宇野宗佑が第15回参議院議員通常選挙の大敗北により辞任することになったが、宇野を指名したのが竹下派であったため、竹下派からは宇野の後任の総裁選への出馬を見送ることになった。 |
| リクルート事件で有力政治家が謹慎している中で、極端な世代交代を避けたかった竹下が、「時計の針を進めず、戻さず」として年齢の割に当選回数があり、かつ同じ稲門(早稲田大学)として近い関係にあった海部を首相にする構想を打ち出したことから、思いがけず総理総裁の座が転がり込んできた(派閥の長である河本敏夫も総裁候補の一人だったが高齢などのため見送られ、河本は海部を支える姿勢を明確にした)。 |
| 自民党総裁選では海部の他に、林義郎と石原慎太郎が出馬したが、竹下派の支持を得た海部が両者をおさえて自民党総裁に選ばれた。 |
| 参院選の結果、自民党が過半数割れに追い込まれたことにより、ねじれ国会に突入した。 |
| 自民党が依然過半数を占めていた衆議院は海部俊樹、野党が過半数を確保した参議院は日本社会党委員長の土井たか子を指名した。 |
| 日本国憲法第67条第2項の規定に基づき、両院協議会にて協議されたが両院の意見は一致せず、衆議院にて指名された海部が内閣総理大臣に就任した(衆議院の優越)。 |
| 海部が首相に就任した頃は、いわゆるリクルート事件などで国民の間に政治不信が強まっていた。 |
| それだけに、清新なイメージで颯爽と登場した海部に寄せられた党内外の期待感は大きかった。 |
| 組閣においてはリクルート事件にかかわったとされる政治家を排除(リクルート・パージ)し、リクルートと関係の薄い政治家を優先的に登用した。 |
| 第1次海部内閣発足の直後、山下徳夫内閣官房長官の女性スキャンダルが発覚。 |
| 海部はすぐさま山下を更迭し森山真弓環境庁長官を横滑りさせて女性初の官房長官を誕生させたり、様々な行事に夫婦同伴で出席するなどして女性層の支持拡大を目指し、1990年の第39回衆議院議員総選挙で大勝する。 |
| 党内基盤が脆弱であった海部は自民党にとってはその場しのぎの「看板」でしかなく、党内は相変わらず権力闘争に明け暮れていた。 |
| 石原信雄の回顧録には「海部さんは重大な法案などを決める時には金丸、竹下両氏の判断を仰いでいた。 |
| 」と記されており、自民党幹事長を務めていた小沢一郎は「海部は本当に馬鹿だな。 |
| 宇野の方ががよっぽどましだ」と酷評し田崎史郎「小沢一郎との訣別」『文藝春秋』1994年10月号より。 |
| 小沢一郎の数々のオフレコ発言を明かした同記事で「担ぐ神輿は軽くてパーがいい」という小沢の発言が初めて明るみになったが、これは、1982年の自民党総裁選挙で田中派が中曽根康弘を支持したときの小沢一郎のコメントであり、海部を指したものではないが、海部を指した発言と誤って伝えられることがあり(田原総一朗『テレビと権力』(講談社、2006年、p.267)や淺川博忠『「新党」盛衰史新自由クラブから国民新党まで』(講談社文庫、2005年、p.229)など)、海部自身も後年の回想録で自分を指した発言と勘違いしたことを書いている(海部俊樹『政治とカネ海部俊樹回顧録』新潮新書、2010年、po.101-102)。 |
| 、金竹小と評された竹下派実力者三人が海部首相以上に強い影響力を持っていた。 |
| 自民党総裁にして内閣総理大臣でもある海部は、本来味方であるはずの自党に振り回され、小選挙区導入反対派の加藤紘一、山崎拓、小泉純一郎の「YKK」などによる党内からの猛烈な倒閣運動を受けた。 |
| 首相でありながら実権を小沢や金丸、竹下らに握られ、頼りないイメージが強かったが、湾岸戦争における経済的な協力や掃海艇派遣では驚異的なねばり腰を見せ、法案成立にこぎつけている。 |
| このことに限らず、外交面では当時のサッチャー英首相やブッシュ米大統領から絶大な信頼を得ていた。 |
| 天安門事件後、世界から孤立しかかった中国に西側先進国首脳として真っ先に訪問し、円借款を再開させたことには現在でも中国から感謝され「井戸を掘った人」として尊敬されている。 |
| 海部自身は、「中国に対して原則を貫いた」と語り、天安門事件の犠牲者の冥福を祈るため、訪中時に天安門広場で献花を行ったという |
| 事実であれば、他国の現職首脳が訪中時に自由に行動できるわけもなく、海部による天安門事件の犠牲者追悼は中国政府による了承のもとでの行為だったことになる。 |
| 首相にとって「伝家の宝刀」の異名を持つ解散権は、総理大臣の専権事項である。 |
| 最後には海部をバックアップするはずだった竹下派でさえ明確に解散不支持を表明し、結局解散に踏み切ることが出来ず、また、この出来事により次期自民党総裁選挙で最大派閥でそれまで海部を支持してきた竹下派が海部の不支持を表明。 |
| 宮沢喜一、三塚博、渡辺美智雄ら反海部の派閥の領袖たちが総裁選に立候補を表明した。 |
| これにより海部を支持するのは自身の派閥かつ小派閥の河本派だけになり、総裁選に再選できる道は閉ざされ内閣総辞職に追い込まれた。 |
| 在任中は竹下派に手足を縛られ、思い通りの政権運営をなせないままの退陣となったが、決定的な失政があったわけでもなく、本人のクリーンで爽やかなイメージは根強い国民の支持を得続けた。 |
| (当時は派閥や自民党を支持していた業界の力が強く総理個人の人気に左右されることは現代に比べて少なく、内閣支持率は政治家にとって重要視されてはいなかった)。 |