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つながりの強いひと
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長唄
近世邦楽の一ジャンル、三味線音楽の一ジャンル、江戸の音曲の一つであり、正式名称は江戸長唄(えどながうた)という。またこれとは別に、地歌の一分類とし... |
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清元延寿太夫
江戸浄瑠璃清元節宗家で高輪派の家元である。正式表記は旧字の延壽太夫。 |
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清元榮三郎
清元榮三郎(きよもとえいざぶろう、1926年(昭和2年)6月24日-2002年(平成14年)12月31日)は昭和から平成にかけて活動した清元節三味線方。歌舞伎の立三味... |
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宇野信夫
日本の歌舞伎狂言作者。埼玉県本庄市生まれ、熊谷市育ち、その後浅草で暮らす。本名信男。埼玉県立熊谷中学校(現在の埼玉県立熊谷高等学校)、慶應義塾大学... |
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宮尾すすむ
日本のタレント。本名は山口進(やまぐちすすむ)。 |
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竹内道敬
名前 竹内 道敬 肩書き (財)古曲会理事、国立音楽大学元教授 プロフィール 1932年生まれ。出身校:早稲田大学大学院。専攻分野:近世日本音楽史、... |
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清水良太郎
日本の俳優である。東京都出身。岩倉高等学校商業科卒業。同校野球部出身。血液型O型。プロダクション尾木所属。父親はものまねタレントの清水アキラ。 |
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中能島欣一
中能島欣一(なかのしまきんいち、1904年12月16日-1984年3月19日)は日本の箏曲家である。作曲家。山田流箏曲中能島家の4代目。重要無形文化財保持者に各個認... |
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山野楽器
株式会社山野楽器(やまのがっき、YAMANOMUSICCO.,LTD.)は日本の楽器・音楽/映像ソフト(CD/DVDなど)や楽器の販売事業を行うチェーンストア。本社は東京都... |
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山勢松韻
山勢派(山勢家)を中心とした山田流箏曲家の名跡。3代あるいは6代を数える。 |
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春日とよ
春日とよ喜 とは - コトバンク デジタル版 日本人名大辞典+Plus 春日とよ喜 の用語解説 - 1902-1981昭和時代の小唄 演奏家。 明治35年10月19日生まれ。大正1... |
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杵屋五三郎
長唄三味線方の名跡。初代杵屋五三郎(明治22年(1889年)10月5日-昭和14年(1939年)11月5日)-5代目杵屋勘五郎の門弟で1904年に杵屋五三郎を名乗る。帝劇で... |
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市丸
昭和期の芸者歌手。本名は後藤まつゑ(ごとうまつえ)。江戸小歌中村派17世家元。 |
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杵屋六左衛門
近世前期以来の長唄の宗家。杵屋の始祖とされるのは初代杵屋勘五郎で、杵屋喜三郎を含めて宗家の代数に数え、15代目になる。六左衛門名が宗家の名として定着... |
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堅田喜三久
堅田喜三久 プロフィール 昭和10年9月8日 九世望月太左衛門次男として東京市ヶ谷本村町に生まれる 昭和26年 叔父 三世堅田喜惣治に師事 昭和28年 望月康仁よ... |
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浪曲
明治時代初期から始まった演芸の一つ。「浪花節」(なにわぶし)とも言い、三味線を伴奏に用いて物語を語る。浪花節は古くから伝わる浄瑠璃や説経節、祭文語... |
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豊竹山城少掾
三代目竹本津大夫、六代目竹本土佐大夫らと並んで三巨頭と呼ばれ、1942年には文楽座櫓下となる。1946年、芸術院会員。大阪府文芸賞。1947年、秩父宮より掾号... |
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プロフィール
- 清元志寿太夫とは
- 生い立ち・芸歴
- 家系
- 受賞
- その他
- 人柄とその周辺
- 志寿太夫の最期
- 著書
- レコード・CD
- 海外公演
- 関連サイト
清元志寿太夫(きよもとしずたゆう、1898年(明治31年)4月25日-1999年(平成11年)1月2日)は、大正から平成にかけて活躍した清元節太夫。正式表記は旧字の志壽太夫。重要無形文化財保持者(人間国宝)、文化功労者、 日本芸術院会員、正五位勲三等瑞宝章。前名は清元松喜太夫。本名柿澤竹蔵。天声の美声と声量の豊かさによって清元界のみならず、戦前・戦中・戦後の邦楽界を代表する太夫・演奏家であった。
生い立ち・芸歴
| 1898年-神奈川県横浜市山下町生まれ。 |
| 1913年-清元延小家寿(のぶこやす)に師事。 |
| 1918年-「孤高の名人」と言われた清元延寿太夫に入門。 |
| 1921年-家元・清元延寿太夫と三味線方の三世梅吉が出演料の分配を巡って不和となり、梅吉が独立、清元流を樹立した際には師の喜久太夫に従い梅派に参加したが、延寿太夫の許での修業をする。 |
| 1923年-二世喜久太夫に入門して松喜太夫と名乗り、初舞台。 |
| 1924年-延寿太夫の門下に移って初代清元志寿太夫となった。 |
| 市村座『筆幸』を勤めたのを皮切りに、その年の内に清元延寿太夫の脇を語る。 |
| 1926年には大阪弁天座『三社祭』にて初めての立語り。 |
| 名人として知られた師の晩年の芸をよく吸収し、生れつきの声量、美声と相俟って六代目尾上菊五郎を初めとする役者にも重宝され、着々と実績を積みかさねてゆく。 |
| 1938年に五世延寿太夫が病に倒れ、また時を同じくして六世延寿太夫を相続する予定であった四世栄寿太夫が早世したため、その後継者として舞台と社中を支え、戦後は朋輩の清元榮寿郎や清元寿國太夫、清元正寿郎らと協力して若年であった清元延寿太夫(五世の孫、栄寿太夫の子息)を側面から支え、社中を統率し清元節太夫の第一人者として斯界に大きな影響を与えた。 |
| 1980年-5月28日、歌舞伎座で「清元生活六十五年記念演奏会」を開催。 |
| 同年、三世今藤長十郎と「芸遊会」を開催。 |
| 三世今藤長十郎作曲、志寿太夫節付の「豊後道成寺」を披露する。 |
| 長唄と清元の第一人者の競演で話題を呼んだ。 |
| この「豊後道成寺」を見た、四代目中村雀右衛門が2代目藤間勘祖の振付、志寿太夫の浄瑠璃で何度も踊っている。 |
| 1988年-2月27日歌舞伎座で「清元志寿太夫の卆寿の会」を開催。 |
| 以後、1991年10月まで七回目まで「志寿太夫の会」を歌舞伎座で開催。 |
| 1997年‐1月「百歳」を記念して、「壽初春大歌舞伎」昼の部のキリ狂言で「清元志寿太夫百寿を祝して 青海波」が上演された。 |
| 幹部、花形が総出演した。 |
| 1998年‐11月「清元延寿太夫清元宗家継承十周年演奏会」が歌舞伎座で行われた。 |
| この舞台に出演したのが最後だった。 |
| 2005年-1月「清元志寿太夫七回忌追善演奏会」が歌舞伎座で開催される。 |
| 十八代目中村勘三郎の「玉兎」、七代目尾上菊五郎と、五代目尾上菊之助の「道行初音旅」、四代目中村雀右衛門の「雁金」を踊り、清元延寿太夫(七世)らで「隅田川」を演奏した。 |
家系
| 妻:清元延香。 |
| 子息:清元榮三郎重要無形文化財保持者、人間国宝。 |
| 父子二代は初、清元小志寿太夫、清元志佐雄太夫、清元志寿朗。 |
| 孫:清元志寿子太夫、清元志寿雄太夫、清元延知寿。 |
| 曾孫:清元延綾、清元一太夫。 |
| 四代で清元をしている家系である。 |
受賞
| 主な賞歴は以下の通り。 |
| 1961年、『高尾ざんげ』の演奏と多年にわたる古典の復活発表に対し芸術選奨文部大臣賞。 |
| 1968年、日本芸術院賞。 |
| 1969年、勲三等瑞宝章受章(没後正四位勲二等瑞宝章を追綬)。 |
| 1978年、日本芸術院会員就任。 |
| 1981年、NHK放送文化賞を受賞。 |
| 1982年、文化功労者。 |
その他
| 1956年、清元節太夫では初めて、重要無形文化財保持者(人間国宝)として各個認定された。 |
| 子息の榮三郎も1996年に重要無形文化財保持者として各個認定され、現役で親子二代にわたる人間国宝として活躍するという稀有な記録も残した。 |
| このほか清元節演奏家としては極めて稀なことに、1955年(昭和30年)頃高松宮家より『志摩ノ大掾』の掾号を授与される。 |
人柄とその周辺
| 極めて長命を保ち、しかもその芸は衰えることがなく、歌舞伎座で百歳記念の興行(1997年1月昼の部『青海波』幹部、花形が総出演した)を行ったほどであった。 |
| 晩年は自らの語り場の途中で突然扇子を置いて止めてしまったり、他の太夫の語り場を語ってしまったりというアクシデントもあった。 |
| 所演曲のほとんどすべてについて極め付きの声が高かったが、特に『色彩間苅豆 累(かさね)』『忍逢春雪解 三千歳』『隅田川』などを得意としていた。 |
| 豪放磊落な性格で知られ、徹夜麻雀を好み、煙草は嗜まなかったが、極端な偏食で、酒は好きなだけ飲む、という生活であったにもかかわらず、その声質は衰えることを知らなかった。 |
| 朝まで麻雀を打って歌舞伎座に出演したとか、舞台の声が歌舞伎座表の晴海通りまで聞こえたなどという逸話には事欠かない。 |
| 麻雀以外の賭け事も好み、巡業先でも国内外を問わず近隣の競馬場へ出入りし、亡くなる間際にも家族に馬券の購入を頼んでいたという。 |
| 長寿の秘訣は本人の語るところによれば大根おろしにしらすをあえてレモンを掛けたものを毎朝食べることだそうである。 |
志寿太夫の最期
| 臨終に際しては、入院はしていたものの特に具合が悪いということもなかったが、1999年(平成11年)1月1日、病床を訪ねた長男の榮三郎に「こうした101歳まで生きられたのもおまえたちのおかげだ」と感謝の言葉を漏らし、亡くなる当日もテレビで初芝居の勧進帳を視聴していたが、しばらくして容態が急変し、101歳の生涯を閉じた。 |
| 1999年の正月は偶然にも38年ぶりに清元の初芝居出勤が無く、清元社中は総出で長年社中の大看板であった志寿太夫を見送ることができた。 |
レコード・CD
| 「清元志寿太夫全集・清元五十番」1955年-1970年、日本ビクター。 |
海外公演
| 1964年8月、ハワイ歌舞伎公演で『隅田川』を語る。 |
| 1967年8月、モントリオール万国博覧会カナダ歌舞伎公演で『隅田川』を語る。 |
| 1972年6月、ヨーロッパ歌舞伎公演で『隅田川』を語る。 |
| 1978年2月-3月、オーストラリア歌舞伎公演で『隅田川』を語る。 |
| 1982年6月-7月、ジャパン・ソサエティー七十五周年記念アメリカ歌舞伎公演で『隅田川』を語る。 |
| 1985年7月-8月、アメリカ歌舞伎公演で『累』を語る。 |
| 1987年6月、ソビエト歌舞伎公演で『隅田川』を語る。 |
| 1988年7月-8月、オーストラリア歌舞伎公演で『隅田川』を語る。 |
| 1990年10月-パリ・フランクフルト歌舞伎公演で『隅田川』を語る。 |
| 志寿太夫の「隅田川」は海外でも大絶賛であった。 |
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1926年
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大阪弁天座『三社祭』にて初めての立語り |
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1956年
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清元節太夫では初めて、重要無形文化財保持者... |
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