| 血液型はO型。 |
| 兄弟姉妹はすべて女性(姉2人、妹1人)。 |
| 音楽に興味を持ち始めたのは中学生の頃、姉が持っていたアンディ・ウィリアムスの「ムーンリバー」が最初という。 |
| やはり姉の持っていたレコードの影響でビートルズに興味を持ち始め、楽器に興味を持ったのも姉が持っていたギターであるなど、姉が清水に与えた影響は極めて大きい。 |
| 高校生のとき、リッキー(廣田龍人)と知り合い、2人が中心になりロックバンド“ザ・バッド・ボーイズ”を結成。 |
| リッキーとは同じ中学校の同級生だったが、お互いにそのことは知らなかったという。 |
| ベースを持つようになったのもこの頃。 |
| 大阪のディスコで演奏活動をしているところをサブミュージックのマネージャーだった上野博にスカウトされ、プロデビュー。 |
| バッドボーイズは業界内ではその実力を高く評価されていたが、興行的には成功できず、1975年サブミュージック脱退、1年後に解散。 |
| なお、バッドボーイズはビートルズのコピーバンドとして知られているが、清水、リッキーともそう言われるのはビートルズしかできないようなイメージが伴い嫌だったという。 |
| バッドボーイズ解散と前後してオフコースのサポートを始める(なお、上野は後にオフコースカンパニーのマネージャーになるが、それは清水加入後のことであり、清水のオフコース参加に上野は関わっていない)。 |
| 最初は難しい音楽理論の話をする小田和正、鈴木康博を見て「こりゃついていけん。 |
| レベルが違う」と毎日辞めることばかり考えていたという。 |
| だが、実力的に未熟な清水を小田、鈴木は辛抱強く見守った。 |
| これによって清水は徐々にオフコースに溶け込んでいった。 |
| ライブ演奏を手伝うようになってからもバッドボーイズの契約上の問題でレコーディングには加われず、1976年リリースされた『SONGISLOVE』も演奏では参加していない同時期に加わった大間ジロー、後に加わった松尾一彦は参加。 |
| レコーディング初参加は「こころは気紛れ」だが、本当にオフコースの一員として参加したと感じたのは「秋の気配」。 |
| この曲は途中でベースのアドリブが入るが、これは小田に「仁、この8小節、なんかやれよ」と投げられ、決まったフレーズを弾くことしかなかった清水が戸惑いつつも必死にフレーズを考えた結果生まれたものだという。 |
| 1979年8月1日、オフコースの正式メンバーとなる。 |
| 以後、オフコースの一員として一時代を築く。 |
| 1986年にシングル「上を向いて歩こう」でソロデビュー。 |
| 1987年リリースのアルバム『ascloseaspossible』では初めて作曲(クレジット上は松尾との共作)とリードボーカルを担当。 |
| 次作『Stillalongwaytogo』では初の単独自作曲「逢いたい」を提供するに至るものの1989年、オフコース解散。 |
| その後、吉田拓郎のバックなどを経て1993年よりソロ活動再開。 |
| 主に東京のライブハウス中心にライブ活動を展開している。 |
| 1999年3月に元オフコースの大間ジロー、松尾一彦とともに“Acoustic Beatles Club”(A.B.C)を結成。 |
| 自らの音楽の原点であるビートルズをアコースティックにやってみようというコンセプトで活動している。 |
| オフコースではほとんどベースの担当だったが、A.B.Cではギター中心。 |
| オフコース解散時はかなり感情的な軋轢もあったらしく、しばらくはオフコースのことを考えるのも嫌だったという。 |
| しかし、A.B.Cでの活動を始めた頃からはオフコースの話も抵抗なくするようになっている。 |
| また、今なおオフコースのファンが数多くいることを好意的に受け止めており、ファンとともにオフコースの曲を演奏したことも数回ある。 |
| 2005年のライブでは、「最近のお気に入り」と紹介して「生まれ来る子供たちのために」を歌った。 |
| 2007年には元ザ・タイガースの森本太郎率いる森本タローとスーパースターに加入。 |
| 銀座のライブハウスで月に一度ライブを行っているほか、年に数度関西などへも遠征している。 |
| 同バンドではタイガースを代表とするグループ・サウンズやオフコースのカバー曲をはじめ、洋楽のカバーやオリジナルの新曲等も披露している。 |
| 小岩ジョニーエンジェルなどで「清水仁とフォークジャンボリー」に毎月レギュラー出演中。 |