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つながりの強いひと
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北岡伸一
日本の政治学者・歴史学者、東京大学大学院法学政治学研究科教授、元日本政府国連代表部次席大使。専門は、日本政治外交史。 |
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橋川文三
日本の政治学研究者、政治思想史研究者、評論家。明治大学政治経済学部教授を務めた。 |
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石橋湛山
日本のジャーナリスト、政治家、教育者(立正大学学長)。階級は陸軍少尉(陸軍在籍時)。位階は従二位。勲等は勲一等。大蔵大臣(第50代)、通商産業大臣(... |
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松岡正剛
日本の編集者、著述家、日本文化研究者。編集工学を提唱。京都府出身。東京大学客員教授、帝塚山学院大学教授を歴任。現在、株式会社松岡正剛事務所代表取締... |
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大久保利通
日本の武士(薩摩藩士)、政治家。位階勲等は贈従一位勲一等。明治維新の元勲であり、西郷隆盛、木戸孝允と並んで「維新の三傑」と称される。また維新の十傑... |
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後藤新平
後藤新平(ごとうしんぺい、安政4年6月4日(1857年7月24日)-昭和4年(1929年)4月13日)は明治・大正・昭和初期の医師・官僚・政治家である。伯爵(明治39年... |
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井口喜源治
長野県安曇野市出身で、キリスト教精神に基づく私塾「研成義塾」の創設者である。 |
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吉野作造
大正年間を中心に活躍した政治学者、思想家である。東京帝国大学で教壇に立ち、大正デモクラシーの立役者となった。号は「古川学人」。弟は商工官僚・政治家... |
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桐生悠々
石川県出身のジャーナリスト、文明評論家。本名は政次(まさじ)。明治末から昭和初期にかけて反権力・反軍的な言論をくりひろげ、数多くの筆禍事件を引起し... |
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武田徹
評論家、ジャーナリスト。東京都出身。東京都立富士高等学校、国際基督教大学人文科学科卒。同大学院比較文化研究科博士課程単位取得退学。大学院在学中より... |
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馬場恒吾
ジャーナリスト・政治評論家・実業家。岡山県岡山市出身。 |
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清沢満之
日本の明治期に活躍した真宗大谷派僧侶、哲学者・宗教家。旧姓は「徳永」。幼名は「満之助」。院号法名は、「信力院釋現誠」。 |
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松岡洋右
松岡洋右(まつおかようすけ、3月4日-6月27日)は日本の外交官、政治家。日本の国際連盟脱退、日独伊三国同盟の締結、日ソ中立条約の締結など第二次世界大戦... |
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内村鑑三
日本人のキリスト教思想家・文学者・伝道者・聖書学者。福音主義信仰と時事社会批判に基づく日本独自のいわゆる無教会主義を唱えた。 |
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養老孟司
解剖学者。東京大学名誉教授。専門は解剖学。神奈川県鎌倉市出身。 |
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佐々木惣一
日本の法学者。専門は公法(憲法)。正三位勲一等。法学博士。貴族院議員。京都帝国大学名誉教授。京都市名誉市民。 |
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徳富蘇峰
明治・大正・昭和の3つの時代にわたる日本のジャーナリスト、思想家、歴史家、評論家。また、政治家としても活躍して、戦前・戦中・戦後の日本に大きな影響を... |
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山田風太郎
日本の小説家。本名は山田誠也(せいや)。伝奇小説、推理小説、時代小説の三方で名を馳せた、戦後日本を代表する娯楽小説家の一人である。『魔界転生』や忍... |
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芦田均
日本の外交官、政治家。位階は従二位。勲等は勲一等。学位は法学博士(東京帝国大学)。衆議院議員(11期)、厚生大臣(第14代)、外務大臣(第76・77代)、... |
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プロフィール
- 清沢洌とは
- 米国留学
- 新聞記者時代
- フリーの言論人として
- 戦時下の言論
- 『暗黒日記』
- 著書
- 新版の著書
- 参考文献
- 関連サイト
清沢洌(きよさわきよし、1890年(明治23年)2月8日-1945年(昭和20年)5月21日)は、ジャーナリスト、評論家。長野県生まれ。外交問題、特に日米関係の評論で知られ、またその 太平洋戦争下における日記が『暗黒日記』として戦後公刊されたことでも名高い。なお名前は「冽(にすい)」でなく「洌(さんずい)」。存命中から「れつ」と呼ばれることも多く、本人もしばしばそのような署名を行っていた。
米国留学
| 長野県南安曇郡北穂高村(現安曇野市)の比較的裕福な農家の三男として生まれた。 |
| 井口喜源治の主宰する研成義塾で学んだ後、当時の同地での渡米熱をうけて、1907年(明治40年)、17歳のとき研学移民(学生となるための立場での移民)としてアメリカ合衆国ワシントン州に渡航した。 |
| シアトル、タコマで病院の清掃夫、デパートの雑役などを務めるかたわらタコマ・ハイスクール、ワシントン大学などで学んだ(ただしその履歴を示す文書は残されていず、朝日新聞社への就職の際は「米国の大学」をおえたとしている)。 |
| 1911年(明治44年)頃からは現地の邦字紙の記者となり、数年にして現地日本人社会で著名な存在となった。 |
| 当時はアメリカ西海岸において日本人移民排斥運動が高潮に達していた。 |
| 日本人に対する蔑視と敵意を、日本国内の為政者として、あるいは恵まれた立場の在米外交官としてでなく、日本政府からの庇護の薄い移民という立場で味わったにも拘わらず、清沢は晩年に至るまで一貫して日米友好を訴え続けた希有の自由主義平和思想家であった。 |
新聞記者時代
| 1918年(大正7年)帰国した清沢は、貿易関連の仕事を転々としたのち、1920年(大正9年)には中外商業新報(現在の日本経済新聞)に入社した。 |
| ここでもはじめは米国関連、日米問題関連のエキスパートとしての執筆活動を行ったが、大正デモクラシー、政党政治の伸長、関東大震災後の混乱(なお清沢は妻子をこの震災で喪った)、日本の満州進出などを受けて、国内問題や対中関係も彼の執筆対象となっていった。 |
| 1927年(昭和2年)には東京朝日新聞に移籍し、またこの頃から新聞以外での著作活動も精力的に始まった。 |
| 清沢の基本的な立場は、対米関係においては協調路線、国内では反官僚主義・反権威主義、対中関係では「満州経営」への拘泥を戒めるものであって、石橋湛山のいわゆる「小日本主義」と多くの共通点をもっていた。 |
| だが清沢のリベラルな論調は右翼勢力からの激しい攻撃にさらされた。 |
| 特にその著作『自由日本を漁る』所収の「甘粕と大杉の対話」(大杉栄殺害犯として獄中にある甘粕正彦憲兵大尉を大杉の亡霊が訪ね、甘粕の迷妄を論破する、というストーリー)は国体を冒涜するものとして批判され、1929年(昭和4年)には清沢は東朝退社に追い込まれ、以後は生涯フリーランスの評論家として活動することになる。 |
フリーの言論人として
| フリーとなった清沢は1929年から1932年(昭和7年)までの3年間のほとんどを欧米での取材・執筆活動にあてることとなる。 |
| 1929年にはアメリカの「暗黒の木曜日」とそれに続く大恐慌を現地で体験することになったし、また1930年(昭和5年)のロンドン海軍軍縮会議は、雑誌「中央公論」の特派員という肩書で取材した。 |
| 会議では、補助艦の対米比率7割死守を図る日本海軍側代表団と清沢は互いに批判的な関係にあり、清沢は「六割居士」という綽名を頂戴する始末であった。 |
| その他、この欧米滞在中にはチェコスロバキア外務大臣ベネシュ、イタリア首相ムッソリーニ、実業家ヘンリー・フォードなどと会見、それら会見記は公刊されている。 |
| また1931年(昭和6年)の満州事変勃発、1932年の上海事変は滞米中に遭遇しており、日本の大陸進出に対するアメリカの厳しい世論を目の当たりにすることにもなった。 |
| 1932年、帰国した清沢は日本の内政・外交に対する鋭い評論を行うこととなる。 |
| 満州国単独承認問題、国際連盟における満州問題の討議、引き続くリットン調査団派遣を巡って国内世論は沸騰していたが、「国を焦土と化しても」日本の主張を貫徹する、と答弁した外相内田康哉、スタンドプレーに終始し意味のある成果を引き出せなかった国際連盟首席全権松岡洋右をそれぞれ批判した「内田外相に問ふ」「松岡全権に与ふ」は、この時期の代表的評論である。 |
| また、数多くの国内講演、著作、雑誌論文などを通じて、清沢は商業主義・迎合主義に流されやすい日本のジャーナリズムに対する批判と、自己の漸進主義とでもいうべき自由主義の立場を明らかにしていった。 |
| 1937年(昭和12年)-1938年(昭和13年)には、堪能な語学力を買われてロンドン開催の国際ペン・クラブ世界会議の日本代表という立場で再び欧米を訪問し、各所で精力的な講演活動を行う。 |
| 日中戦争の勃発・激化を受けて欧米の対日感情は極度に悪化していたが、愛国者を自負する清沢はむしろ積極的に講演で、あるいは現地新聞への投書などを通じて日本の立場の擁護・正当化を行っていった。 |
| 皮肉なことに、彼自身が国内で反対の論陣を張っていた硬直的・非協調的外交政策のスポークスマンの役を担わされたわけである。 |
| また駐英大使を務めていた吉田茂とは、このロンドンでの新聞投書による世論工作の過程で親しくなっていったという。 |
| 帰国後の清沢は、再び本来の対米協調を主軸とした外交への転換を訴える立場を取り、「新体制」「東亜新秩序」などの言葉に代表される抽象的かつ空疎な政策を諫め、アメリカを威嚇することで有利な結果を得ようとする外交政策の愚を説き、ドイツとの連携に深入りすることなく欧州情勢の混沌から距離をおくことを主張したが、事態は1940年(昭和15年)の日独伊三国軍事同盟、1941年(昭和16年)の日ソ中立条約、南部仏印進駐とそれらに対する米国の一連の対抗措置は、ことごとく自らが提言した潮流と相反する方向へ進んだ。 |
戦時下の言論
| 1941年2月26日、情報局は各総合雑誌に対し執筆禁止者のリストを交付し、清沢の名前もそこに含まれていた(他には矢内原忠雄、馬場恒吾、田中耕太郎、横田喜三郎、水野広徳、等)。 |
| これ以降の清沢は時事問題に対する直接的な意見の表明は不可能となり、外交史に関する著作という形で間接的に当時の政策を評論することとなった。 |
| 幕末開国時から日ソ中立条約までを俯瞰する『外交史』およびその増補改訂版として太平洋戦争開戦までを記す『日本外交史』は著名であるし、大久保利通がいかにして征韓論を打破し、台湾出兵およびその後の北京における対清交渉を果断にまとめていったかを賞揚する『外政家としての大久保利通』は、昭和戦前期日本外交に対する痛烈な批判となっている。 |
| 大久保の外戚である吉田茂(妻が牧野伸顕の娘で、利通の孫にあたる)がこの本を贈呈されて一読、感銘を受けた旨を記した清沢宛の書簡が現存している。 |
| その他、石橋湛山が主幹を務める「東洋経済新報」誌上では匿名執筆の形で時事問題をしばしば論じる一方で、ダンバートン=オークス会議にて討議された国際連合憲章原案をいち早く入手、分析批判し、清沢の対案を同誌上で提示している(石橋の勧めもあったという)点などは、その先見性を示すものといえる。 |
『暗黒日記』
| 開戦後1年経過した1942年(昭和17年)より、清沢は「戦争日記」と題した、新聞記事の切抜きなども含む詳細な日記を記し始めた。 |
| いずれ時期が来れば、日本現代史(昭和史)の著述にあたり、その備忘録とするつもりであったとされる。 |
| 官僚主義の弊害、迎合的ジャーナリズムの醜態、国民の対外事情に対する無知、社会的モラルの急速な低下などを記録する。 |
| この日記は1954年に『暗黒日記』の題名で、東洋経済新報社で出版され、数社で新版刊行された。 |
| 清沢は、終戦を目前に1945年(昭和20年)5月21日、急性肺炎により東京築地の聖路加病院にて急逝した。 |
| 吉田茂、石橋湛山という後に首相となった2人を知己にもち、戦後存命であれば政界・言論界で重きをなしたであろう知米派知識人の、55年の短い生涯であった。 |
著書
| 『米国の研究』。 |
| 『黒潮に聴く』。 |
| 『自由日本を漁る』。 |
| 『転換期の日本』。 |
| 『アメリカを裸体にす』。 |
| 『革命期のアメリカ経済』。 |
| 『不安世界の大通り』。 |
| 『非常日本への直言』。 |
| 『激動期に生く』。 |
| 『時代・生活・思想』。 |
| 『第二次欧州大戦の研究』。 |
| 『現代日本論』。 |
| 『日本外交史』上下巻。 |
| 『外政家としての大久保利通』。 |
新版の著書
| 山本義彦(編・解説)『清沢洌選集』(全8巻別冊1)、日本図書センター(復刻:1998年、ISBN4-8205-8250-X) 。 |
| 山本義彦(編)『清沢洌評論集』 岩波文庫(2002年、ISBN4-00-331782-3)。 |
| 山本義彦(編)『暗黒日記 1942-1945』 岩波文庫(初版1990年、ISBN4-00-331781-5)。 |
| 村松剛(解説)『外政家としての大久保利通』 中公文庫(1993年、ISBN4-12-201985-0)。 |
| 橋川文三(編・解説)『暗黒日記 戦争日記1942年12月~1945年5月』 評論社(復刊1995年、ISBN4-480-08711-7)。 |
| 橋川文三(編)『暗黒日記』ちくま学芸文庫(1~3) (2002年、ISBN4-480-08711-7、ISBN4-480-08712-5、ISBN4-480-08713-3)。 |
参考文献
| 北岡伸一『清沢洌――外交評論の運命』 中公新書(1987年、増補版2004年、ISBN4-12-190828-7)。 |
| 山本義彦『清沢洌の政治経済思想――近代日本の自由主義と国際平和』 御茶の水書房(1996年、ISBN4-275-01616-5)。 |
| 山本義彦『清沢洌――その多元主義と平和思想の形成』 学術刊行会(2006年、日本図書センター刊 ISBN978-4-8205-2153-2)。 |
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1929年
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アメリカの「暗黒の木曜日」とそれに続く大恐... |
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1932年
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帰国した清沢は日本の内政・外交に対する鋭い... |
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