| 1992年4月渡辺は早稲田大学に入学した。 |
| 瀬古は大学入学以降一貫して、渡辺に世界を見据えた練習と戦いをさせた渡辺(2008)pp.206-207.。 |
| 渡辺はエンジのユニフォームに袖を通して、1年春から活躍を見せた。 |
| 同じ早稲田大学の2年先輩である三羽烏と呼ばれた武井隆次・櫛部静二・花田勝彦、1年後輩の小林雅幸の他に、山梨学院大学の留学生であるステファン・マヤカなど、渡辺の大学時代には優秀な長距離選手が揃っていた「男子1万メートルでマヤカがV2、15年ぶり大会新学生陸上」『朝日新聞』1994年9月10日朝刊、スポーツ面、24頁。 |
| 特に同学年のマヤカとはトラック・駅伝の舞台を問わず熾烈な戦いを繰り広げた高蔵哲也「渡辺、男子1万で貫録のスパート陸上ユニバーシアード福岡大会」『朝日新聞』1995年9月3日朝刊、2スポ面、26頁。 |
| 渡辺は後に、関東学生陸上競技対校選手権大会5000m2連覇、10000m3連覇、日本学生陸上競技対校選手権大会5000m2連覇を飾るなど秀でた成績を残した「陸上関東学生対校最終日早大の渡辺が長距離2冠」『読売新聞』1994年5月23日東京朝刊、スポーツC面、19頁。 |
| 「陸上日本学生対校最終日男子5000で渡辺が初V」『読売新聞』1994年9月12日東京朝刊、スポーツC面、19頁。 |
| 「関東大学対校第1日早大・渡辺康幸が1万メートルV3」『読売新聞』1995年5月20日東京朝刊、スポーツB面、18頁。 |
| 「関東大学対校最終日柿沼が女子初の三冠」『読売新聞』1995年5月23日東京朝刊、スポーツC面、17頁。 |
| 「陸上日本学生対校最終日男子5000メートルで渡辺がV2女子は木村」『読売新聞』1995年7月10日東京夕刊、夕スポB面、16頁。 |
| 大学1年時の1992年、渡辺は5月の関東学生陸上競技対校選手権大会10000mで武井に次ぐ2位に入り、9月11日の日本学生陸上競技対校選手権大会5000mで高岡寿成に次ぐ2位となった。 |
| 9月18日の世界ジュニア陸上競技選手権大会10000mでは3位に入賞し銅メダルを獲得した。 |
| このレースでは2位でゴールしたケニアのが、優勝したハイレ・ゲブレセラシエをレース中に殴ったため失格となり、4位でゴールした渡辺が3位に繰り上がった「陸上第4回世界ジュニア選手権第3日ハプニングで早大・渡辺康幸3位」『毎日新聞』1992年9月19日東京朝刊、スポーツ面、16頁。 |
| 11月、渡辺は第24回全日本大学駅伝で初めてエンジの襷を胸に掛けて大学駅伝を走り、早稲田大学による全日本大学駅伝初優勝の一員となった。 |
| 第69回箱根駅伝では花の2区・23.2kmに抜擢された。 |
| 大学2年時の1993年、渡辺は8月にバッファローで開催されたユニバーシアード10000mに出場し銀メダルを獲得するなど活躍を見せた。 |
| 全日本大学駅伝を連覇した後、第70回箱根駅伝に出場し1時間01分13秒を記録し、前年櫛部が記録した1区の従来の記録を上回る区間新記録を樹立した襷の記憶(2008)p.19.。 |
| 駅伝とハーフマラソンの違いがあるものの、日本記録を上回る記録と言われた。 |
| だが、この時同じく1区を走った山梨学院大学の井幡政等も区間新記録の快走を見せ、井幡とわずか27秒差しか広げられず、その後2区で花田がマヤカに抜かれると、早稲田大学は連覇を逃し、山梨学院大学が総合タイムの記録を更新して優勝した。 |
| 大学3年時の1994年、渡辺は夏にヨーロッパに遠征し、アスレティッシマで世界陸上競技選手権大会の10000m参加標準記録A28分10秒00をクリアした「陸上男子1万メートルで渡辺康幸、4位にローザンヌ大会」『朝日新聞』1994年7月8日、スポーツ面、26頁。 |
| で5000mの自己記録となる13分26秒53を記録した。 |
| 区間新記録を樹立する走りで粘る山梨学院大学の中村祐二を振り切り、早稲田大学の3連覇に貢献した「健脚の記憶全日本大学駅伝40回記念大会、来月2日号砲」『朝日新聞』2008年10月3日朝刊、名スポーツ特集面、21頁。 |
| 第71回箱根駅伝では2区を走り、マヤカを抑えて区間賞を獲得。 |
| 渡辺は箱根の後1000kmを走る距離練習を積み、1995年3月のびわ湖毎日マラソンでマラソンに挑戦する予定であったが、この年の多量の花粉飛散を原因とする花粉症に悩まされて気管支炎になり出場を断念した谷祐一「[めざせユニバの星]陸上男子長距離・渡辺康幸22挫折バネに狙うは地元優勝」『読売新聞』1995年7月27日東京朝刊、スポーツA面、15頁。 |
| 大学4年時の1995年、渡辺はインカレ、日本選手権の出場を経て、8月6日世界陸上競技選手権大会10000m予選2組に出場した。 |
| 第2集団につけてレースを進め、終盤に追い上げて27分48分55の記録で6着となり、予選通過を果たした高蔵哲也「女子1万メートルの片岡純子・鈴木博美、決勝へ95世界陸上」『朝日新聞』1995年8月7日朝刊、2スポ面、22頁。 |
| 8月8日の10000m決勝ではハイレ・ゲブレセラシエが27分12秒95の大会新記録で2連覇を飾ったが、渡辺は27分53秒82の記録で12位となった水戸英夫「[世界陸上]第4日男子1万でゲブレシラシーがV2早田は自己最高で10位」『読売新聞』1995年8月9日東京夕刊、K6面、9頁。 |
| 9月2日福岡で開催された第18回ユニバーシアード10000mに出場した。 |
| 雨の中、残り500mからスパートをかけマヤカを振り切り優勝、金メダルを獲得した峰圭一「[ユニバーシアード福岡大会]第11日陸上男子1万で渡辺、余裕の金」『読売新聞』1995年9月3日東京朝刊、教育B面、16頁。 |
| 11月の第27回全日本大学駅伝対校選手権大会では中央大学との1分31秒という大差を逆転し、早稲田大学の全日本駅伝4連覇に貢献した。 |
| 渡辺の2年時、早稲田大学は武井・櫛部・花田・小林正幹・渡辺・小林雅幸と、10000mの自己記録28分台を持つ選手を6人揃えて「ビッグ6」と呼ばれ、実業団と互角に戦えるチームと言われた襷の記憶(2008)pp.10-18.渡辺(2008)pp.162-164.。 |
| 一方で、その他の選手との力の差があったことや、箱根駅伝特有の5区、6区の適性にあった選手を揃えていなかったことから、8人で走る全日本大学駅伝では4連覇を達成した一方、10人の選手を必要とする箱根駅伝では5区、6区でチームは毎年ブレーキとなり大学1年時しか総合優勝を達成できなかった(唯一、総合優勝を果たした第69回大会でも6区で一度山梨学院大学に逆転を許している)。 |
| 箱根駅伝後の1月5日、渡辺は東京国際マラソンへ向けて練習を再開した「96東京国際マラソン渡辺、初陣へのぞかす自信陸上人生の「最大のヤマ場」」『読売新聞』1996年2月8日東京朝刊、スポーツA面、25頁。 |
| 渡辺は左太もも裏に筋膜炎を起こしながらも練習を続行していたが肉離れを起こし、2月12日に東京国際マラソンの出場辞退を発表した「東京国際マラソン12日快走実井、五輪ほぼ手中に世界と戦える2時間8分台」『読売新聞』1996年2月13日東京夕刊、夕スA面、15頁。 |
| 3月3日、初マラソンのびわ湖毎日マラソンでは先頭集団につけて進んだが、35km過ぎから遅れはじめて2時間12分39秒の記録で7位に終わった堂馬隆之「第51回びわ湖毎日マラソン渡辺康幸「35キロから地獄を見た」--7位」『毎日新聞』1996年3月4日東京朝刊、スポーツ面、21頁。 |
| 渡辺は10社以上の実業団から勧誘を受けたが、ヱスビー食品に入社した「陸上の長距離界のホープ、早大の渡辺康幸がエスビー食品に就職」『読売新聞』1995年6月7日東京朝刊、スポーツC面、27頁。 |