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平将門
平安時代中期の関東の豪族である。平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸... |
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源満仲
平安時代中期の武将。清和源氏六孫王経基の子。源頼光、源頼親、源頼信らの父。「多田」を号したことから多田満仲(ただのみつなか、ただのまんじゅう)とも... |
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藤原純友
平安時代の貴族。右大弁藤原遠経の孫。大宰少弐藤原良範の三男。弟に藤原純乗がいる。官位は従五位下・伊予掾。瀬戸内で朝廷に対し反乱を起こしたことで知ら... |
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藤原秀郷
平安時代中期の武将。下野大掾藤原村雄の子。藤原北家・魚名の後裔とされる。生母は下野掾鹿島某の女とする。俵藤太(田原藤太とも。読みは「たわらのとうだ... |
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平忠常
平安時代中期の武将、豪族。父は陸奥介平忠頼で、房総平氏の祖。 |
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清和天皇
親
平安時代前期の第56代天皇。在位は天安2年11月7日(858年12月15日)-貞観18年11月29日(876年12月18日)。後世、武門の棟梁となる清和源氏の始祖で、諱は惟仁... |
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源頼信
平安時代中期の武将。摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)の地に源氏武士団を形成した源満仲の三男。河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳野市壺井)を本拠地と... |
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源義家
平安時代後期の武将。河内源氏の源頼信の孫。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に武家政権鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の足利尊氏など... |
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源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の... |
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源頼義
平安時代中期の武将。河内源氏初代・源頼信の嫡男で河内源氏二代目。 |
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源満政
平安時代中期の武将。源経基の次男。満仲、満季らの同母兄弟。子に忠重、忠隆、忠国らがある。八島大夫、村岡大夫などと号した。諱は満正とも記される。 |
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藤原隆家
平安時代の公卿。一条天皇の摂関を務めた藤原道隆の四男(高階貴子を母とする兄弟では次男)。極官は正二位中納言。幼名は阿古(あこ)。 |
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小野好古
小野好古(おののよしふる、884年(元慶8年)-968年3月20日(康保5年2月14日))は平安時代中期の公卿。参議・小野篁の孫で、大宰大弐・小野葛絃の子。弟に三... |
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源頼光
平安時代中期の武将。父は鎮守府将軍源満仲、母は嵯峨源氏の近江守源俊女。諱は俗に「らいこう」とも呼ばれる。満仲の長子で清和源氏の3代目。満仲が初めて武... |
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足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
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藤原基経
平安時代前期の公卿。藤原北家・藤原長良の三男。幼名は手古。従一位、摂政関白太政大臣、贈正一位。堀川大臣(堀河大臣)と号する。漢風諡号は昭宣公、国公... |
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鬼女
日本の伝承における女性の鬼。一般には人間の女性が宿業や怨念によって鬼と化したものとされ、中でも若い女性を鬼女といい、老婆姿のものを鬼婆という。日本... |
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貞純親王
父
日本の平安時代前期の皇族。清和天皇の第六皇子。母は棟貞王の娘。王子に経基王・経生王がある。桃園親王とも。親王任国とされる上総や常陸の太守や、中務卿... |
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源能有
親 母
平安時代前期の公卿。文徳天皇の皇子。官位は正三位・右大臣、贈正二位。号は近院大臣。 |
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プロフィール
- 源経基とは
- 生涯
- 系譜
- 系譜を巡る議論
- 生没年について
- 参考文献
- 関連項目
- 外部リンク
- 関連サイト
源経基(みなもとのつねもと、源經基)は、平安時代中期の皇族・武将。経基流清和源氏の初代。『保元物語』によれば、父は 清和天皇の第6皇子 貞純親王で、母は右大臣 源能有の娘。皇族に籍していたとき「六孫王」と名乗ったとされるが、当時の文献には見られない。居館は六宮とも八条御所ともいう。
生涯
| 承平8年(938年)武蔵介となり現地に赴任する。 |
| 同じく赴任した武蔵権守興世王と共に赴任早々に検注当時の「検注」とは、国司がその任地の有力者から受け取る莫大な貢物・賄賂が目当である事が多く、経基らも正任の国司が赴任する前に自らの赴任直後に行っている事を見ても、それが目的であったと思われる。 |
| を実施すると、在地の豪族である足立郡司で判代官の武蔵武芝が正任国司の赴任以前には検注が行われない慣例になっていたことから検注を拒否した為、経基らは兵を繰り出して武芝の郡家を襲い、略奪を行った『将門記』では「箸ノ如キノ主ハ、眼ヲ合ハセテ、骨ヲ破リ膏ヲ出スノ計ヲ成ス。 |
| 」と興世王と源経基それぞれを一対の「箸」に例えてその横暴振りを表現している。 |
| その後、興世王は山を降りて武蔵国府にて将門・武芝らと会見するも、経基は警戒して山に留まった。 |
| 武蔵国府では双方の和解が成立して和やかに酒宴が行われていたが、その最中に武芝の者達が勝手に経基の営所を包囲した為に、経基は将門らに殺害されるものと思い込んであわてて京へ逃げ帰り『将門記』では「介経基ハ未ダ兵ノ道ニ練レズ。 |
| 驚キ愕イデ分散ス」と述べられており、後に武門の棟梁となる清和源氏の初代の経基は軍事の経験が浅くまだ武士とは言えない体たらくだった。 |
| 、将門・興世王・武芝が謀反を共謀していると朝廷に誣告する。 |
| しかし将門らが承平9年5月2日付けで常陸・下総・下野・武蔵・上野5カ国の国府の「謀反は事実無根」との証明書を太政大臣藤原忠平へ送ると、将門らはその申し開きが認められ、逆に経基は讒言の罪によって左衛門府に拘禁されてしまった。 |
| 天慶2年(939年)11月、将門が常陸国府を占領、その後も次々と国府を襲撃・占領し、同年12月に上野国府にて「新皇」を僭称して勝手に坂東諸国の除目を行うと、以前の誣告が現実となった事によって経基は晴れて放免されるばかりか、それを功と見なされて従五位下に叙せられた『貞信公記』『日本紀略』によると天慶3年正月9日に叙せられており、将門追討後に平貞盛・藤原秀郷らと共に行賞されたのではない。 |
| その後、征東大将軍藤原忠文の副将の一人に任ぜられ、将門の反乱の平定に向かうが既に将門が追討された事を知り帰京。 |
| 941年に追捕凶賊使となり、小野好古とともに藤原純友の乱の平定に向かうが、ここでも既に好古によって乱は鎮圧されており、純友の家来桑原生行を捕らえるにとどまる。 |
| 武蔵・信濃・筑前・但馬・伊予の国司を歴任し、最終的には鎮守府将軍にまで上り詰めた。 |
| 晩年、経基は臣籍降下を命じられたことに憤慨していたというが、同時代の摂政太政大臣・藤原忠平の日記『貞信公記』の天慶2年(939年)3月3日付に「源経基、武蔵の事を告げ言う。 |
| 」と記されているのもあり、経基が果たして皇族であった時期があったかどうか疑問視もされている。 |
| ただしこの記述については、忠平の子藤原実頼が抄録した際に源姓を書き入れたとする説もあるシンポジウム「日本歴史」5『中世社会の形成』。 |
| 勅撰歌人であり、『拾遺和歌集』に2首が採録されている『勅撰作者部類』。 |
| 嫡子の源満仲が建立したという六孫王神社(京都市南区)に祀られている。 |
系譜を巡る議論
| 『尊卑分脈』等によると経基の孫とされる源頼信が誉田八幡宮に奉ったという告文(願文)の写しが石清水八幡宮田中家文書の中にある(石清水八幡宮田中家文書「源頼信告文案」古写)。 |
| それによると、源頼信は、八幡大菩薩すなわち応神天皇を自らの「二十二世の氏祖」であるとして、「先人新発、其先経基、其先元平親王、其先陽成天皇、其先清和天皇、(以下略)」と自らの祖を列記している。 |
| これに従うと、経基の父は清和天皇の皇子貞純親王ではなく陽成天皇の皇子元平親王となる。 |
| この文書が明治30年代に発見されると、いわゆる「清和源氏」は実は「陽成源氏」ではないかとの説が星野恒によって唱えられた。 |
| 星野説はその後黙殺に近い扱いを受けたが、昭和40年に竹内理三が支持すると復活し、現在も星野説を支持する研究者がいる。 |
| 然しこの文書は写本であり、告文の裏面に校正したと但書きがあることから信憑性を疑うむきもある。 |
| また、告文の内容は河内石川庄の相続順序に過ぎないとする説や、12世紀はじめに書かれた大鏡が武家源氏を清和天皇の末としている事もあり、なお旧説でよいとする人もいる。 |
生没年について
| 『尊卑分脈』では961年に45歳で卒去したとある事から、逆算して生年は917年生れとなる。 |
| また、『勅撰作者部類』には958年に同じ45歳で卒去したとある事から914年生れとされているが、いずれも長男・満仲より後に生まれた事になる。 |
| 系図纂要には897年とあり、もしこの説が正しければ15歳の時に満仲を儲けた事になり妥当にも思えるが、今度は、2世源氏でありながら40歳をすぎても五位にも叙せられなかった事になり不自然であるほか、同書は幕末期の編纂物であり単に矛盾に気づいた系図家などが手を加えた産物である可能性があるから、通常の歴史学の手法による限りこれを根拠とすることはできない。 |
| 清和源氏の祖でありながら歴史の表舞台に登場したのが僅か7、8年に過ぎない事もあって正確な生没年は未詳である。 |
参考文献
| 朧谷寿 『清和源氏』教育社歴史新書、1984年。 |
| 元木泰雄 「武門のはじまり経基・満仲」『別冊歴史読本74源氏武門の覇者-乱世を疾駆した武士たち』 新人物往来社、2007年。 |
| 野口実 『源氏と坂東武士』 吉川弘文館、2007年。 |
| (「武門源氏の成立」章にて、源経基を陽成天皇の孫とする説を先行研究を引用しつつ肯定している)。 |
| 梶原正昭訳注『将門記(1)』東洋文庫、1975年、ISBN458280280X。 |
| 梶原正昭訳注『将門記(2)』東洋文庫、1976年、ISBN4582802915。 |
関連項目
| 承平天慶の乱。 |
| 井の頭恩賜公園-公園内の井の頭弁財天は、天慶年間に経基が伝教大師作の弁財天女像をこの地に安置したことに始まると伝わる。 |
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