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つながりの強いひと
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源頼義
平安時代中期の武将。河内源氏初代・源頼信の嫡男で河内源氏二代目。 |
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源義経
1966年1月2日~12月25日にNHKで放送された4作目の大河ドラマ。 |
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源頼朝
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の... |
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木曽義仲
木曽義仲史学会は10、11日、創立10周年記念の総会と研修会を木曽町で開いた=写真。一般の聴講も目立ち、今井弘幸会長=木曽町日義=は「地道な取り組みを続... |
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源頼信
平安時代中期の武将。摂津国多田(現・兵庫県川西市多田)の地に源氏武士団を形成した源満仲の三男。河内国石川郡壺井(現・大阪府羽曳野市壺井)を本拠地と... |
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源義朝
在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平... |
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源義光
平安時代後期の武将。河内源氏の二代目棟梁である源頼義の三男。兄に八幡太郎義家や加茂二郎義綱がいる。近江国の新羅明神(大津三井寺)で元服したことから... |
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平将門
平安時代中期の関東の豪族である。平氏の姓を授けられた高望王の三男平良将の子。桓武天皇5世。下総国、常陸国に広がった平氏一族の抗争から、やがては関東諸... |
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藤原秀衡
平安時代末期の武将。奥州藤原氏第3代当主。鎮守府将軍。藤原基衡の嫡男。 |
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平直方
平安時代中期の武将。父は平維時。本拠は鎌倉。摂関家の家人として在京軍事貴族でもあった。平忠常の乱の際には、追討使を命じられるほどの剛の者であった。... |
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安田元久
日本の歴史学者。元学習院大学学長。文学博士(東京大学、1962年)。広島県広島市出身。日本中世史・鎌倉時代史研究の第一人者。祖父は関東大震災時の戒厳司... |
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源経基
平安時代中期の皇族・武将。経基流清和源氏の初代。『保元物語』によれば、父は清和天皇の第6皇子貞純親王で、母は右大臣源能有の娘。皇族に籍していたとき「... |
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安倍貞任
平安時代中期の武将。安倍氏の棟梁・奥六郡の俘囚の豪族安倍頼時の第2子。安倍厨川次郎貞任とも。妹聟に藤原経清がいる。 |
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源実朝
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の子として生まれ、兄の源頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権... |
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清原清
新選組砲術師範、後に御陵衛士。本名は西村弥左衛門。熊本藩出身。慶応元年(1865年)5月、土方歳三の江戸での隊士募集に応じて上洛。伊東甲子太郎が御陵衛士... |
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大江匡房
平安時代後期の公卿、儒学者、歌人。大学頭・大江成衡の子。官位は正二位・権中納言。江帥と号す。藤原伊房・藤原為房とともに白河朝の「三房」と称された。 |
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源義親
平安時代後期の武将。源義家の子。尊卑分脈では次男、源為義の父とされるが異説あり。河内源氏三代目棟梁源義家の嫡男だったが、対馬守に任じられたとき九州... |
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源義国
先祖
平安時代後期の河内源氏の武将。源義家の子。尊卑分脈では三男とされるが、誕生順では四男とされる義忠より後に生まれたことになるため、長幼の順は定かでは... |
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清原家衡
平安時代後期の奥州出羽清原氏の武将。父は清原武貞、母は安倍頼時の娘。清原真衡の異母弟、藤原清衡の異父弟。 |
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プロフィール
- 源義家とは
- 出生と没年
- 前九年の役から下野守まで
- 白河帝の爪牙
- 後三年の役
- 弟義綱
- 院昇殿から没まで
- 戦後初期の義家観
- その後の荘園史の進展
- 『後二条師通記』と『百錬抄』
- 伝承の世界
- 系譜
源義家(みなもとのよしいえ)は、平安時代後期の武将。河内源氏の 源頼信の孫。八幡太郎(はちまんたろう)の通称でも知られる。後に武家政権 鎌倉幕府を開いた源頼朝、室町幕府の 足利尊氏などの祖先に当たることから後世に英雄視され、様々な逸話が生み出される。比叡山等の強訴の頻発に際し、その鎮圧や 白河天皇の行幸の護衛に活躍するが、陸奥国守となったとき、清原氏の内紛に介入して後三年の役を起こし、朝廷に事後承認を求める。その後約10年間は閉塞状態であったが、白河法皇の意向で院昇殿を許されたが、中御門右大臣・ ...
出生と没年
| 生没とも諸説あってはっきりしないが、68歳で死去とする史料が多く、またその没年は、史料としての信頼性が最も高い『中右記』1106年(嘉承1)7月15日条から逆算し、1039年(長暦3)の生まれとする説が有力である。 |
| 源頼義の長男として、河内源氏の本拠地である河内国石川郡壺井(現大阪府羽曳野市壺井)の香炉峰の館に生まれたという説、鎌倉で生まれたとの説もあるが、いずれも伝承の域を出ない。 |
| 幼名は不動丸、または源太丸。 |
| 七歳の春に、京都郊外の石清水八幡宮で元服したことから八幡太郎と称す。 |
前九年の役から下野守まで
| 鎮守府将軍、陸奥守に任ぜられた父頼義が安倍氏と戦った前九年の役では、1057年(天喜5)11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いを経験。 |
| その後出羽国の清原氏の応援を得て父頼義はやっと安倍氏を平定する。 |
| しかし、『奥州後三年記』(『続群書類従』収録)には清原家衡の乳母の千任に、「なんぢが父頼義、貞任、宗任をうちえずして、名簿をさヽげて故清将軍(鎮守府将軍・清原武則)をかたらひたてまつれり。 |
| ひとへにそのちからにてたまたま貞任らをうちえたり。 |
| 」といわれて激怒したことが載っているが、「名簿」(みょうぶ)を差しだし、臣下の礼をとったかどうかはともかく、それに近い平身低頭で参戦を頼みこんだことが判る。 |
| 1063年(康平6)2月25日に義家はその勲功を賞され従五位下出羽守に叙任される。 |
| しかし出羽国はその清原氏の本拠地である。 |
| 清原武則には前九年の役で頭を下げた経緯もあり受領としての任国経営が思うに任せなかったのか、『朝野群載』には、翌年朝廷に越中守への転任を希望したことが記されている。 |
| ただしそれが承認されたかどうかは不明である。 |
| この年、義家は在京しており美濃において美濃源氏の祖源国房と合戦している。 |
| 1070年(延久2)義家は下野守となっており、陸奥国で印と国庫の鍵を盗んだ藤原基通を捕らえたことが『扶桑略記』8月1日条に見える。 |
| 当時の陸奥守は大和源氏の源頼俊で、即位間もない後三条天皇が源頼俊らに北陸奥の征服を命じており、北陸奥の征服(延久蝦夷合戦)自体は成功したが、この藤原基通の件の為か大和源氏源頼俊には恩賞はなく、その後の受領任官も記録には見えない。 |
白河帝の爪牙
| 1079年(承暦3)8月に美濃国で源国房と闘乱を起こした右兵衛尉源重宗(清和源氏満正流4代)を官命により追討。 |
| 1081年(永保1)9月14日に検非違使とともに園城寺の悪僧を追補(『扶桑略記』)。 |
| その年の10月14日には白河天皇の石清水八幡宮行幸に際し、その園城寺の悪僧(僧兵)の襲撃を防ぐために、弟・源義綱と二人でそれぞれの郎党を率いてを護衛したが、このとき本官(官職)が無かったため関白・藤原師実の前駆の名目で護衛を行った。 |
| さらに帰りが夜となったので義家は束帯(朝廷での正式な装束)から非常時に戦いやすい布衣(ほい:常服)に着替え、弓箭(きゅうせん)を帯して白河天皇の乗輿の側らで警護にあたり、藤原為房の『為房卿記』には、「布衣の武士、鳳輦(ほうれん)に扈従(こしゅう)す。 |
| 未だかつて聞かざる事也」と書かれている。 |
| 同年12月4日の白河天皇の春日社行幸に際しては義家は甲冑をつけ、弓箭を帯した100名の兵を率いて白河天皇を警護する。 |
| この段階では公卿達の日記『水左記』などにも「近日の例」と書かれるようになり、官職によらず天皇を警護することが普通のことと思われはじめる。 |
| のちの「北面武士」の下地にもなった出来事である。 |
| この頃から義家・義綱兄弟は白河帝に近侍している。 |
後三年の役
| 1083年(永保3)に陸奥守となり、清原氏の内紛に介入して後三年の役がはじまる。 |
| ただしこの合戦は朝廷の追討官符による公戦ではない。 |
| 朝廷では1087年(寛治1)7月9日に「奥州合戦停止」の官使の派遣を決定した事実も有る事から、『後二条師通記』にはこの戦争は「義家合戦」と私戦を臭わせる書き方がされている。 |
| 後三年の役において動員した兵は、石井進の国衙軍制の概念図 |
| 「地方豪族軍」として陸奥国奥六郡の南三郡を中心とした清原清衡の軍と、そもそもの発端の当事者であり、後三年の役では後半に加勢したらしい出羽国の吉彦秀武の軍からなると思われる。 |
| 最終局面での主要な作戦が吉彦秀武から出ていること、及び前九年の役の例を勘案すれば、最大兵力は、戦場となった地元出羽国の吉彦秀武の軍、次ぎに当事者清原清衡の軍であり、国守軍は陸奥南部の「国の兵共」を加えたとしても、それほど多かったとは思えない。 |
| 1087(寛治1)11月に義家は出羽国金沢柵にて清原武衡、清原家衡を破り、12月、それを報告する「国解」の中で「わたくしの力をもって、たまたまうちたいらぐる事をえたり。 |
| 早く追討の官符を給わりて」と後付けの追討官符を要請するが、朝廷はこれを下さず、「私戦」としたため恩賞はなく、かつ翌年1088年(寛治2)正月には陸奥守を罷免される。 |
| 何よりも陸奥国の兵(つわもの)を動員しての戦闘であり、義家自身が国解の中で「政事をとどめてひとえにつわもの(兵)をととの」、と述べているように、その間の陸奥国に定められた官物の貢納は滞ったと思われ、その後何年もの間催促されていることが、当時の記録に残る(『中右記』1096年(永長1)12月15日条、1097年(永長2)2月25日条)。 |
| 当時の法制度からは、定められた官物を収めて、受領功過定に合格しなければ、新たな官職に就くことができず、義家は官位もそのままに据え置かれた。 |
弟義綱
| 1091年(寛治5)6月 義家の郎党藤原実清と源義綱の郎党藤原則清が、河内国の所領の領有権を争い、義家・義綱兵を構える事件がおき、京を震撼させた。 |
| 弟義綱はその年1091年(寛治5)の正月に、藤原師実が節会に参内する際の行列の前駆を努めた他、翌1092年(寛治6)2月には藤原忠実が春日祭使となって奈良に赴く際の警衛、1093年(寛治7)12月には、源俊房の慶賀の参内の際に前駆を努めるなどが公卿の日記に見えるが、義家の方は1104年まで、そうした活動は記録にない。 |
| 1093年(寛治7)10月の除目で、義綱は陸奥守に就任。 |
| 翌年の1094年(寛治8)には出羽守を襲撃した在地の開拓領主・平師妙(もろたえ)を郎党に追捕させ、従四位上に叙されて官位は兄義家と並び、翌年の1095年(嘉保2)正月の除目で、事実上陸奥よりも格の高い美濃守に就任する。 |
| その美濃における比叡山領荘園との争いで僧侶が死亡したことから、比叡山側は義綱の配流を要求して強訴に及ぶが、関白藤原師通は大和源氏の源頼治と義綱に命じてそれを実力で撃退する。 |
| このときも比叡山延暦寺・日吉社側の神人・大衆に死傷者が出、比叡山側は朝廷を呪詛した。 |
| 比叡山は天台密教の総本山であり、呪詛の最大の権威であって、朝廷にとっては最大の精神的脅威であったと思われる。 |
| それに追い打ちをかけたのが、その4年後の1099年(承徳3)6月に、当事者の関白藤原師通が38歳で世を去ったことであり、朝廷は比叡山の呪詛の恐怖におののいた。 |
| この件の影響か、このあと義綱が受領に任じられることはなかった。 |
院昇殿から没まで
| 後三年の役から10年後の1098年(承徳2)に「今日左府候官奏給云々、是前陸奥守義家朝臣依済舊國公事、除目以前被忩(そう)行也(件事依有院御気色也)、左大史廣親候奏」(『中右記』正月23日条)と白河法皇の意向もあり、やっと受領功過定を通って、4月の小除目で正四位下に昇進し、10月には院昇殿を許された。 |
| しかし、その白河法皇の強引な引き上げに、当時既に形成されつつあった家格に拘る公卿は反発し、中御門右大臣・藤原宗忠はその日記『中右記』承徳2年10月23日条の裏書きに「義家朝臣は天下第一武勇の士なり。 |
| 1101年(康和3)7月7日、次男対馬守源義親が、鎮西に於い大宰大弐大江匡房に告発され、朝廷は義家に義親召還の命を下す(『殿暦』)。 |
| しかし義家がそのために派遣した郎党の首藤資通(山内首藤氏の祖)は1102年(康和4)2月20日、義親とともに義親召問の官吏を殺害してしまう。 |
| 12月28日ついに朝廷は源義親の隠岐配流を決定する。 |
| その後『中右記』によると、1104年(長治1)10月30日、義家・義綱はそろって延暦寺の悪僧追捕を行っているが、これが義家の最後の公的な活躍となる。 |
| 1106年(嘉承1)には別の子の源義国(足利氏の祖)が、叔父の新羅三郎源義光等と常陸国において合戦し、6月10日、常陸合戦で源義家に実子義国を召し進ぜよとの命が下される。 |
| 死後は二男の源義忠が家督継承し、河内源氏の棟梁となった。 |
| その翌年の1107年(嘉承2)12月19日、隠岐に配流されていた源義親が、出雲国目代を殺害、その周辺諸国に義親に同心する動きも現れたため、白河法皇は隣国因幡国の国守であり院近臣でもあった平正盛に義親の追討を命じる。 |
| 翌年の1108年(天仁1)1月29日に平正盛は源義親の首級を持って京に凱旋、大々的な凱旋パレードが行われ、平正盛が白河院の爪牙として脚光を浴びる。 |
戦後初期の義家観
| 戦後初期の歴史学者の中での通説となったものは、石母田正の『中世的世界の形成』をベースに、古代支配階級である貴族や宗教勢力に対して、新たに発生した在地領主層(封建的農奴主階級)が武装したものが「武士」であり、その新興勢力(武士階級)が、古代支配階級である貴族や宗教勢力を排除し、鎌倉幕府という武士階級を中心とした中世世界をもたらしたという歴史観であった。 |
| 当時の学説では「武士」はその在地領主をベースとしたものであり、平将門や藤原秀郷などは学会用語としては「武士」ではなく、その前段階の「兵」(つわもの)といわれていた。 |
| 更に、義家の死後の河内源氏の内紛の中で孫の源為義が意図的に取り立てられ、いっそう河内源氏の結束が乱された。 |
| 白河法皇や摂関家など、当時の支配者が義家を危険視したという竹内理三、安田元久の論は、当時の国土のほとんどが荘園となっていたという認識を前提としている。 |
その後の荘園史の進展
| 石井進は1986年4月の「中世の村を歩く-寺院と荘園」(『中世の村を歩く』収録)において「摂関時代の成立とともに全国土が荘園となったという従来の説には、とても従えないのである。 |
| ふたつめは、「貴族と同じ荘園領家化」(石井進)、「上級貴族達と同じように荘園領主」(安田元久)と、荘園支配の階層の最上位に義家がなっていったとみなしていることである。 |
| 荘園支配の階層には荘園領主である「本所や領家」、その代官である「預所」、現地での実質支配者で、多くの場合寄進者である「庄司(下司)」の3段階があるが、その最上位が権門といわれる「上皇をふくめての貴族層」や、大寺院・神社が位置する。 |
| 1960年代には、義家がその最上位に、権門を押しのけて、あるいは新たな権門として割り込もうとしたかのとうに捉えられていたが、これはたかだか四位の諸大夫・受領層である義家には考えにくい。 |
| 福田豊彦は、1974年の「王朝国家をめぐって」(『東国の兵乱ともののふたち』に収録)と言う論文で、「荘園寄進の対象(本家領家)ではなくて、寄進に当たっての媒介の役割を果たした貴族層(預所など)との接点で考える必要がありそうに思います。 |
| 1091年(寛治5)6月の義家の郎党と義綱の郎党の河内国の所領の領有権争いは、こうした小さな単位の田畠をめぐって争われたものと思われる。 |
『後二条師通記』と『百錬抄』
| 次に、「義家に対して随兵の入京禁止令」「義家への土地の寄進禁止」であるが、これは、1091(寛治5)6月 義家の郎党藤原実清と義綱の郎党藤原則清、河内国の所領の領有権を争いから、源義家・源義綱が兵を構える事態となり、京が騒然としたことに関する当時内大臣・藤原師通の日記『後二条師通記』と、鎌倉時代後期に、それまでの諸日記を編纂した『百錬抄』(ひゃくれんしょう)に見える記事である。 |
| 「義家に対して随兵の入京禁止令」といわれるものは『百錬抄』の「前陸奥守義家、兵をしたがえて京に入ること…を停止」であるが、同じ事実を『後二条師通記』には「諸国国司隋兵留めらるべきの官符」とある。 |
| 関白藤原師実は『後二条師通記』の藤原師通の父であり、藤原師通はその公卿議定に内大臣として出席しており、当時の公卿の日記の書き方から『後二条師通記』寛治5年6月12日条はその翌朝に書かれたものと推察できほぼリアルタイムとみなしてよい。 |
| もし『百錬抄』にいう措置がとられたのであれば、左大臣が白河法皇に上奏し、院の意向が公卿議定に伝えられた後に関白が介入したことになるが、当時の官奏の手順から不自然感を免れない。 |
伝承の世界
| 前九年の役のとき、1057年(天喜5)11月に数百の死者を出し大敗した黄海の戦いで、僅か六騎となって逃れたが、その戦いの中で「将軍の長男義家、驍勇絶倫にして、騎射すること神の如し。 |
| 義家が2歳のときに用いた「源太が産衣」という鎧と、生け捕った敵千人の首を髭ごと切ったことから「髭切」と名付けられた刀は、河内源氏嫡子に伝えられる宝となり、後の平治の乱では源頼朝が用いたという逸話が鎌倉時代初期の『平治物語』にある。 |
| 鎌倉時代中期の説話集『古今著聞集』には前九年の役の後、捕虜となったのち、家来とした(事実ではないが)安部宗任との話がいくつかあり、射芸に秀で、意味もなく動物を殺そうとしない優しさ、更に射た矢を取ってきたかつての敵・安部宗任に背中を向け、背負った矢入れに入れさせた剛胆さ、更には神通力まで備えた超人的な武士として描かれている。 |
| 今様狂いの後白河法皇が編纂した『梁塵秘抄』巻第二にある「鷲の棲む深山には、概ての鳥は棲むものか、同じき源氏と申せども、八幡太郎は恐ろしや」はそのような言い伝えを反映しているものと思われる。 |
| それらの伝承は平安時代末期から鎌倉時代初期にかけてのものであるが、同時代の藤原宗忠がその日記『中右記』に「故義家朝臣は年来武者の長者として多く無罪の人を殺すと云々。 |
| 後世では、東国における武門の習いは義家が整備したといわれ、その名声は武門の棟梁としての血脈としての評価を一層高めることとなったというのは、主に南北朝時代の末に、義家の子孫である足利幕府の正統性をうたう為に書かれた『源威集』にある「諸家輩、源家将軍ヲ代々仁王ト奉仰ハ此故也」からの派生。 |
| 足利尊氏が北条氏打倒に立ち上がったのは、家時から三代後の子孫としてそれを見せられたからであり、『難太平記』の著者今川了俊も、自分もそれを見たと記している。 |
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1965年
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1986年
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石井進はの「中世の村を歩く-寺院と荘園」(... |
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