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つながりの強いひと
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為平親王
親 父
為平親王(ためひらしんのう、天暦6年(952年)-寛弘7年11月7日(1010年12月15日))は平安時代の皇族で村上天皇の第四皇子。母は中宮藤原安子。同母兄弟に冷... |
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一条天皇
妻
平安時代中期の第66代天皇(在位:寛和2年6月23日(986年7月31日)-寛弘8年6月13日(1011年7月16日))。諱は懐仁(やすひと)。 |
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左大臣
朝廷の最高機関、太政官の職の一つ。唐名は「左府」「左丞相」「左相国」「左僕射」「太傅(たいふ)」。和訓は「ひだりのおおいもうちぎみ/ひだりのおとど」... |
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藤原通任
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藤原道長
藤原道長(ふじわらのみちなが)は平安時代中期の公卿。従一位・摂政・太政大臣・准三后。京都生まれ。藤原兼家の五男(四男という説もある)で、母は摂津守... |
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藤原定子
平安時代、第66代一条天皇の皇后(号は中宮、のち皇后宮)。脩子内親王・敦康親王・媄子内親王の生母。通称は「一条院皇后宮」。『枕草子』の作者清少納言が... |
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藤原行成
平安時代中期の廷臣。藤原北家、右少将・藤原義孝の長男。官位は正二位・権大納言。一条朝四納言の一。世尊寺家の祖。当代の能書家として三蹟の一人に数えら... |
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藤原顕光
妻
平安時代中期の公卿。父は関白藤原兼通。従一位左大臣。堀河左大臣と称された。父の兼通が関白になると、昇進して公卿に列するが、兼通の死後はその弟の兼家... |
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三条天皇
三条天皇(さんじょうてんのう、天延4年1月3日(976年2月5日)-寛仁元年5月9日(1017年6月5日))は第67代天皇。諱は居貞(おきさだ/いやさだ)。享年42。在... |
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藤原実資
平安時代の公卿。藤原北家小野宮流、参議・藤原斉敏の四男。後に祖父・実頼の養子となる。幼名は大学丸。小野宮を号す。藤原北家嫡流の小野宮流の膨大な家領... |
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藤原頼通
平安時代の公卿。藤原北家、太政大臣藤原道長の長男。官位は従一位・摂政・関白・太政大臣・准三宮。幼名は田鶴。通称宇治殿。法名は蓮花覚、後に寂覚。父道... |
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藤原尊子
藤原道兼の長女。母は藤原師輔の娘・繁子。一条天皇女御、後に藤原通任夫人。暗戸屋女御、前御匣殿女御と称された。父の病没後である長徳4年(998年)、一条... |
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村上天皇
親
平安時代中期の第62代天皇(在位:天慶9年4月28日(946年5月31日)-康保4年5月25日(967年7月5日))。諱は成明(なりあきら)。 |
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源高明
親 母
平安時代の公卿。醍醐天皇の第10皇子。母は源周子。法名は覚念。官位は正二位・左大臣。京都右京四条に壮麗な豪邸を建設し、西宮左大臣と呼ばれた。一世源氏... |
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為尊親王
平安時代中期の皇族。冷泉天皇の第三皇子。母は藤原兼家の娘超子。三条天皇の同母弟。官位は二品・弾正尹。 |
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源俊賢
源俊賢(みなもとのとしかた、天徳3年(959年)-万寿4年6月13日(1027年7月19日))は平安時代中期の廷臣。醍醐源氏。西宮左大臣源高明の三男。正二位権大納... |
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藤原道兼
平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の三男。同母の兄弟姉妹に道長、詮子らがいる。官位は正二位・関白・右大臣。贈正一位・太政大臣... |
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御匣殿
「裁縫する場所」の意。平安時代、縫司(ぬいのつかさ)の女官たちの局する場所。内裏の貞観殿(じょうがんでん)の中にあり、内蔵寮で調進する以外の天皇の衣... |
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藤原道隆
平安時代中期の公卿。藤原北家、摂政関白太政大臣・藤原兼家の長男。官位は従一位・摂政関白内大臣。中関白(なかのかんぱく)と称する。花山天皇退位事件で... |
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具平親王
第62代村上天皇の第七皇子。官位は二品・中務卿。通称は後中書王、または千種殿・六条宮。 |
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プロフィール
- 源頼定とは
- 経歴
- 密通騒動と女性関係
- 逸話
- 官歴
- 系譜
源頼定(みなもとのよりさだ、貞元2年(977年)-寛仁4年6月11日(1020年7月4日))は、平安時代中期の公卿。村上源氏。 村上天皇の第四皇子・一品式部卿 為平親王の次男。官位は正三位・参議。
経歴
| 頼定の父・為平親王は冷泉天皇のすぐ下の同母弟であったが、母の中宮安子・外祖父の師輔を早くに失った上、舅の高明が外戚として勢威を振るうのを恐れた藤原氏によって、冷泉天皇の皇太弟には為平親王を飛び越えての同母弟・守平親王(のちの円融天皇)が選ばれたため、失意の日々を送った不運の皇族である。 |
| 為平親王の子息は一斉に臣籍降下、頼定はその次男である。 |
| 永祚2年(990年)従四位下に初叙され、正暦3年(992年)弾正大弼に任ぜられる。 |
| 正暦4年(993年)昇殿。 |
| 中関白家と親しく、長徳2年(996年)4月24日、内大臣伊周・中納言隆家が左遷された際、これに連座して勅勘を蒙る。 |
| 間もなく許されたらしく、長徳4年(998年)には右近衛中将に任官している。 |
| 長保3年(1001年)従四位上・左近衛中将に叙任。 |
| 寛弘2年(1005年)蔵人頭。 |
| 寛弘6年(1009年)参議として公卿に列す。 |
| 参議昇進以降三条朝にかけて伊予権守を兼官するにとどまる。 |
| (大鏡によると東宮時代の三条天皇の尚侍、藤原綏子と通じていた影響もあり三条天皇在位中は昇殿が許されていなかったためとある)。 |
| 後一条天皇が即位した長和5年(1016年)には従三位次いで正三位に続けて昇叙される。 |
| 後一条朝では議政官として勘解由長官・左兵衛督・検非違使別当を兼ねた。 |
| 寛仁元年(1017年)末頃より体調を崩し『小右記』、寛仁4年(1020年)6月8日に病気(腫瘍)のため出家『公卿補任』、同11日に薨去。 |
密通騒動と女性関係
| 三条天皇の東宮時代の女御・藤原綏子に通じて懐妊させ、疑わしく思った東宮が綏子の異母兄・道長に命じて妊娠が事実かどうか確認させた。 |
| この密通の真実について東宮は怒り、帯刀達に命じて頼定を蹴殺してやろうかと思ったほどだったが祖父の名を穢したくないとやめておいたという。 |
| その為か三条天皇在位中は頼定の昇進は止まり昇殿は許されなかった。 |
| 『大鏡』第四巻,太政大臣兼家。 |
| 二人の間に生まれた男の子は後に寺に預けられた僧の頼賢であるとされる。 |
| 綏子の死後か時期は不明だが橘輔政の娘を娶り、息子の源定季が生まれている。 |
| しかし定季は長久三年十月二日に母の家で殺害されている。 |
| 一条天皇崩御後、孤閨を託った承香殿女御・藤原元子と密かに情を交わし、激怒した元子の父・右大臣顕光が手ずから娘の髪を切り勘当したけれども、元子は夜蔭にまぎれて頼定のもとに走り、遂に二女を儲けた話『栄花物語』巻第十一,つぼみ花が諸書に見える。 |
| ちなみに御堂関白記(長和五年四月二十一日条)によれば元子は頼定の「妾」という表記になっており従二位に叙された一条天皇の女御の元子を彼女より下の位で廟堂では末席、既に妻子持ちでもあった頼定が妾として手を出したのが顕光には許させなかったのではとある。 |
| 「承香殿の女御」頼定の過去の綏子との密通騒動での浮名のこともあり、反対されたのも至極当然であった。 |
| 頼定は元子の兄重家とはよく知り合った仲『権記』であったようで彼等は従兄弟である事から昔から元子の事を知っていたと思われる。 |
| 元子との密通発覚後の先妻との関係は不明であるが、小右記では元子は「故兵衛督室」となっており、地位と家柄は元子の方が上な為か北の方と見なされていたと思われる。 |
| しかし頼定の遺体は橘氏と縁の深い弥勒寺に運ばれているので『左経記』橘輔政の娘との縁で檀家だったのではないかと思われる『承香殿の女御』ため、輔政の娘とは死ぬまで縁は切れていなかったと思われる。 |
逸話
| 『枕草子』において頼定は「宮の中将」「源中将」と呼ばれ、「かたちよき公達」の代表に挙げられる。 |
| 後世の碩学として名高い大江匡房は、著書の中で、頼定を雲客(殿上人)の項目の4人の中の1人に揚げており『続本朝往生伝』、この事から頼定は公卿として相応の評価を受けていた事が伺える。 |
| 和歌は不得意だったようだが、漢詩や朗詠や弓術や蹴鞠などの一般的な殿上人の教養はこなせていた。 |
| 『権記』。 |
官歴
| 永祚2年(990年)1月7日従四位下。 |
| 正暦3年(992年)8月28日弾正大弼。 |
| 正暦4年(993年)11月15日昇殿。 |
| 長徳4年(998年)10月22日右近衛中将。 |
| 長保元年(999年)1月30日備前守。 |
| 長保3年(1001年)1月24日従四位上、8月25日左近衛中将。 |
| 長保6年(1004年)1月24日大和権守。 |
| 寛弘2年(1005年)6月19日蔵人頭。 |
| 寛弘3年(1006年)1月28日美作守。 |
| 寛弘5年(1008年)1月7日正四位下(中将労)。 |
| 寛弘6年(1009年)3月20日参議。 |
| 寛弘7年(1010年)2月16日伊予権守。 |
| 長和5年(1016年)2月6日従三位、10月10日備中権守、11月14日正三位。 |
| 長和6年(1017年)1月24日勘解由長官、4月3日左兵衛督。 |
| 寛仁4年(1020年)4月22日検非違使別当。 |
系譜
| 母:源高明の娘。 |
| 妻:藤原元子(藤原顕光の娘)-もと一条天皇女御。 |
| 女子:藤原嫄子御匣殿『栄花物語』巻第三十四,暮まつほし。 |
| 妻:橘輔政の娘。 |
| 男子:源定季(?-1042)。 |
| (生母:藤原綏子)。 |
| 男子:大僧都頼賢『平安時代史事典』角川書店、1999年、2202頁『承香殿の女御』中公新書、1970年『僧官補任』。 |
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1016年
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従三位次いで正三位に続けて昇叙される |
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1020年
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源 頼定(みなもと の よりさだ、貞元2年(97... |
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