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つながりの強いひと
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源義経
引き継ぐ者
1966年1月2日~12月25日にNHKで放送された4作目の大河ドラマ。 |
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平清盛
平安時代末期の武将・公卿・政治家である。伊勢平氏の棟梁・平忠盛の嫡子として生まれ、平氏棟梁となる。保元の乱で後白河天皇の信頼を得て、平治の乱で最終... |
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在地豪族を組織して勢力を伸ばし、再び都へ戻って下野守に任じられる。東国武士団を率いて保元の乱で戦功を挙げ、左馬頭に任じられて名を挙げるが、3年後の平... |
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北条時政
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。伊豆国の在地豪族の北条時方もしくは北条時家の子。源頼朝の妻北条政子の父。鎌倉幕府の初代執権。家系は桓武平氏平直方... |
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永原慶二
永原慶二(ながはらけいじ、1922年7月12日-2004年7月9日)は日本の歴史学者。専門は日本中世史。一橋大学名誉教授、和光大学名誉教授。一橋大学経済学博士。... |
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吉川英治
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平安時代末期、鎌倉時代初期の女性。鎌倉幕府を開いた源頼朝の長女。母は北条政子。大姫というのは「長女」を意味する通称で、本名は一幡とする説があるが不... |
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御家人
鎌倉幕府御家人制の展開 この本を 1 2 3 4 5 6 7 8 9 冊買う 10冊以上買う お困りの方 在庫切れ等により、手配できない場合がございます 七海 雅人著... |
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足利尊氏
鎌倉時代後期から南北朝時代の武将。室町幕府の初代征夷大将軍(在職:1338年-1358年)。足利将軍家の祖。 |
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木曽義仲史学会は10、11日、創立10周年記念の総会と研修会を木曽町で開いた=写真。一般の聴講も目立ち、今井弘幸会長=木曽町日義=は「地道な取り組みを続... |
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藤原季範
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平安時代末期の公家・神官。藤原南家、藤原季兼の子。位階は従四位下。額田冠者を名乗る。 |
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山岡荘八
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永井路子
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源範頼
弟
平安時代末期から鎌倉時代初期にかけての武将。河内源氏の流れを汲む源義朝の六男。源頼朝の異母弟で、源義経の異母兄。遠江国蒲御厨(現静岡県浜松市)で生... |
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奥富敬之
日本中世史学者、日本医学史家。東京都出身。日本医科大学名誉教授。東京生まれ。 |
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源実朝
息子
鎌倉時代前期の鎌倉幕府第3代征夷大将軍である。鎌倉幕府を開いた源頼朝の子として生まれ、兄の源頼家が追放されると12歳で征夷大将軍に就く。政治は始め執権... |
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平重盛
平安時代末期の武将・公卿。平清盛の嫡男。保元・平治の乱で若き武将として父清盛を助けて相次いで戦功を上げ、父の立身とともに累進し、最終的には左近衛大... |
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藤原泰衡
平安時代末期、鎌倉時代初期の武将。奥州藤原氏第4代(最後)の当主。藤原秀衡の嫡男。 |
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プロフィール
- 源頼朝とは
- 生涯
- 出生
- 平治の乱
- 伊豆の流人
- 挙兵
- 関東平定
- 平氏追討
- 義経追放
- 征夷大将軍
- 容姿
- 関連サイト
源頼朝(みなもとのよりとも)は、平安時代末期、鎌倉時代初期の武将である。鎌倉幕府の初代征夷大将軍として知られる。平安時代末期に河内源氏の 源義朝の三男として生まれ、父・義朝が平治の乱で敗れると伊豆国へ流される。伊豆で 以仁王の令旨を受けると平氏打倒の兵を挙げ、関東を平定し鎌倉を本拠とする。弟たちを代官として 源義仲と平氏を滅ぼし、戦功のあった末弟・ 源義経を追放し、諸国に守護と地頭を配して力を強め、奥州合戦では奥州藤原氏を滅ぼす。建久3年( 1192年)に征夷大将軍に任じられた。これにより朝廷から ...
生涯
| 文中の月日は全て旧暦。 |
| 改元の有った年は改元後の元号を記す。 |
| 内容の典拠については年表を参照。 |
出生
| 久安3年(1147年)4月8日、源義朝の三男として尾張国熱田『張州府志』に尾張幡屋生まれとある。 |
| 『尾張志』には尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったともある。 |
| 『尾張名所図会』(前編、5巻)には出生地として熱田神宮西の誓願寺が記載されている。 |
| 『系図纂要』にも尾張幡屋で生まれた事から幡屋武者王といったとある。 |
| 出生地とされる熱田神宮西の誓願寺には「右大将頼朝公誕生舊地」と刻まれた石碑が立つ。 |
| (現在の名古屋市熱田区)に生まれる。 |
| 幼名は鬼武者、または鬼武丸「鬼武丸」は『続群書類従』所収の「清和源氏系図」による。 |
| 「鬼武者」は『系図纂要』による。 |
| 母は熱田神宮大宮司藤原季範の娘の由良御前。 |
| 父・義朝は清和天皇を祖とし、河内国を本拠地とした源頼信、源頼義、源義家らが東国に勢力を築いた河内源氏の棟梁である。 |
| 義朝は保元元年(1156年)の保元の乱で、平清盛と共に後白河天皇に従って勝利した。 |
| 頼朝はその御曹司として官職を歴任し、保元3年(1158年)には後白河天皇准母として皇后宮となった統子内親王に仕え皇后宮権少進、平治元年(1159年)に統子内親王が院号宣下を受け、女院上西門院となると上西門院蔵人に補された。 |
| また、同年(1159年)1月には右近衛将監、6月には二条天皇の蔵人に補任されている。 |
| 長兄の義平は無官とみられ、また先に任官していた次兄の朝長よりも昇進が早いことから、母親の家柄が群を抜いて高い頼朝が実質的に義朝の後継者として待遇されていたと考えられる。 |
平治の乱
| 保元の乱の後、二条天皇親政派と後白河院政派の争い、急速に勢力を伸ばした信西への反感などがあり、都の政局は流動的であった。 |
| 頼朝の父・義朝は平治元年(1159年)12月9日、後白河上皇の近臣である藤原信頼が首謀となった平治の乱に加わり三条殿焼き討ちを決行した。 |
| 当初は信西を追討した官軍という立場に立ちその恩賞の除目で、13歳の頼朝は右兵衛権佐へ任ぜられるこれにより長く「佐殿(すけどの)」と称された。 |
| この戦いで信頼方に加わっていた義朝軍は平家に敗れ、一門は官職を止められ京を落ちた。 |
| left|近畿から東海地方の地図。 |
| 義朝に従う頼朝ら8騎は、本拠の東国を目指すが頼朝は途中一行とはぐれ後に平頼盛の家人平宗清に捕らえられる。 |
| なお頼朝がはぐれて後、父義朝は尾張国にて長田忠致に謀殺され、長兄義平は都に潜伏していたところ捕らえられて処刑され、次兄朝長は逃亡中の負傷が元で命を落としている頼朝ら一行の都落ちの状況を示す諸本の記載は下記の通りである。 |
| /金比羅系本『平治物語』によると、一行は近江国へと至るが、頼朝は野路で戦いの疲れから馬上で眠り、一行からはぐれ落人狩りに遭う。 |
| 一度はこれを切り抜け野州で一行と合流するが、積雪のため一行が馬を下り歩き始めると再びはぐれ、一月中は浅井に身を潜める。 |
| その間に一行は、義朝の妻子が住む美濃国青墓へ至るが、ここで傷を負った次兄・源朝長を亡くし、父・義朝は尾張国野間で長田忠致の裏切りにより討たれる。 |
| それを知った長兄・源義平は、清盛らを一人でも討とうと京に戻り、以前の郎党と共に変装して清盛暗殺の機会を狙うが、捕えられ六条河原で首を斬られた。 |
| 頼朝は雪が消えると浅井を発ち、青墓を経て尾張へと至るが捕えられた。 |
| /『清檞眼抄』(当時の検非違使の記録)によると二月九日近江国で頼朝が捕らえられたとある。 |
| /『吾妻鏡』は大夫属定康というものが大吉寺や私邸に匿ったとする。 |
| /古態本『平治物語』によると頼朝は近江国大吉寺に匿われた後、近江浅井北郡の老夫婦の元に匿われ、その後関ヶ原において捕らえられたとある。 |
| /なお金比羅系本『平治物語』以外の文献には頼朝が美濃青墓へ行ったとの記載は一切無い。 |
| 永暦元年(1160年)2月9日、京・六波羅へ送られた頼朝『清檞眼抄』の処罰は死刑が当然視されていたが、清盛の継母・池禅尼の嘆願などにより死一等を減ぜられて伊豆に流刑になることとなった。 |
| 『平治物語』によると、池禅尼のこの助命嘆願は早世した我が子・平家盛に頼朝が似ている事から清盛に助命を請うたといわれいる。 |
| 『愚管抄』によると、見るからに幼いのに同情して助命嘆願したと言われている。 |
| なお、助命嘆願には後白河院、上西門院の意向が働いていたとの説もある。 |
| (元木泰雄『保元・平治の乱を読み直す』)。 |
| また、平治の乱の本質は院近臣同士の争いであり、義朝は信頼に従属する者の一人に過ぎず、乱における義朝の立場は従来考えられているものより実は影響力の弱い立場であり、従ってその子供達の処分は軽度のものであったのも当然である、という見解も示されている(野口実『源氏と坂東武士』)。 |
| 、頼朝は3月11日に伊豆国の蛭ヶ小島(ひるがこじま)摂津源氏の源仲綱が伊豆守を勤めていたとの説もある。 |
| へと流された。 |
| なお、同日平治の乱に関った藤原経宗、藤原惟方や同母弟希義も流刑に処されている。 |
伊豆の流人
| 伊豆国での流人生活は史料としてはほとんど残っていない池禅尼による助命嘆願から流刑地で北条時政の監視と保護を受けるに至ったことについて、時政の後妻・牧の方の父・宗親が池禅尼の弟・藤原宗親と同一人物であり、清盛と不仲であった平頼盛(池禅尼の子)が頼朝の身柄を保持し続けたとする学説もある。 |
| (杉橋隆夫「牧の方の出身と政治的位置─池禅尼と頼朝と─」『古代・中世の政治と文化』、上横手雅敬監修、思文閣出版、1994年)。 |
| 流人とはいえ、乳母の比企尼や母の実家である熱田大宮司の援助を受け、狩りを楽しむなど比較的安定した自由な生活をしていたと思われる。 |
| 周辺には比企尼の婿である安達盛長が側近として仕え、源氏方に従ったため所領を失って放浪中の佐々木定綱ら四兄弟が従者として奉仕した。 |
| この地方の霊山である箱根権現、走湯権現に深く帰依して読経をおこたらず、亡父義朝や源氏一門を弔いながら、一地方武士として日々を送っていた。 |
| そんな中でも乳母の甥・三善康信から定期的に京都の情報を得ている『吾妻鏡』。 |
| なお、この流刑になっている間に伊豆の豪族北条時政の長女である政子と婚姻関係を結び長女大姫をもうけている。 |
| この婚姻の時期は大姫の生年から治承2年(1178年)頃のことであると推定されている。 |
| なお、フィクション性が高いとされる『曽我物語』には次のような記載がある。 |
| 仁安2年(1167年)頃、21歳の頼朝は伊東祐親の下に在った。 |
| ここでは後に家人となる土肥実平、天野遠景、大庭景義などが集まり狩や相撲が催されている。 |
| しかし祐親が在京の間にその三女八重姫と通じて子・千鶴丸を成すと、祐親は激怒し平家への聞こえを恐れて千鶴丸を伊東の轟ヶ淵に投げ捨て、八重姫を江間小四郎時政の次男・北条義時の通称と同名だが別人である。 |
| この時に義時は4歳ほど。 |
| の妻とし、頼朝を討たんと企てた。 |
| 祐親の次男伊東祐清からそれを聞いた頼朝は走湯権現に逃れて一命を取り留めた。 |
| 31歳の時、頼朝監視の任に当たっていた北条時政の長女である21歳の政子と通じる。 |
| 時政は山木兼隆に嫁がせるべく政子を兼隆の下に送るが、政子はその夜の内に抜け出し、頼朝の妻となった政子と山木兼隆との婚儀については、兼隆の伊豆配流が1179年であり、長女大姫が1178年に誕生している事から物語上の創作と思われる。 |
挙兵
| left|伊豆地方の地図。 |
| 治承4年(1180年)、高倉宮以仁王が平氏追討を命ずる令旨を諸国の源氏に発し、4月27日、伊豆国の頼朝にも、叔父・源行家より令旨が届けられる。 |
| 以仁王は源頼政らと共に宇治で敗死するが、頼朝は動かずしばらく事態の成り行きを静観していた。 |
| しかし平氏は令旨を受けた諸国の源氏追討を企て、その動きを知り自分が危機の中にあることを悟った頼朝は挙兵を決意し、安達盛長を使者として義朝の時代から縁故のある坂東の各豪族に挙兵の協力を呼びかけたこの挙兵決意には都の三善康信の知らせやの京より下った三浦義澄、千葉胤頼らの言葉があったとも言われている(『吾妻鏡』)。 |
| なお、平氏側の本来の追討目的は伊豆に潜伏していた源頼政の孫の源有綱で頼朝が狙われていたというのが誤報であり、知行国主の交代によって厳しい立場に立たされた在庁官人で頼政の家人であった工藤茂光が有綱の代理として頼朝を持ち出したという見解も示されている(永井晋『鎌倉源氏三代記』(吉川弘文館))。 |
| 挙兵の第一攻撃目標は伊豆国目代山木兼隆と定められ、治承4年(1180年)8月17日頼朝の命で北条時政らが伊豆国韮山にある兼隆の目代屋敷を襲撃し、兼隆を討ち取った『吾妻鏡』の記載する頼朝の挙兵の詳細は以下の通りである。 |
| 挙兵の吉日を占いで定めると、当時身辺に仕えていた工藤茂光、土肥実平、岡崎義実、天野遠景、佐々木盛綱、加藤景廉を一人ずつ私室に呼び、「未だ口外せざるといえも、偏に汝を恃むに依って話す」と伝える。 |
| 従った者は北条義時、工藤茂光、土肥実平、土屋宗遠、岡崎義実、佐々木四兄弟、天野遠景、大庭景義、加藤景廉らであり、さらに三浦義澄、和田義盛らの三浦一族が頼朝に参じるべく三浦を発した。 |
| しかし三浦軍との合流前の23日に石橋山の戦いで、頼朝らは平家に仕える大庭景親、渋谷重国、熊谷直実、山内首藤経俊、伊東祐親ら三千余騎と戦い、三百騎を率いる頼朝は敗れ、土肥実平ら僅かな従者と共に山中へ逃れた『吾妻鏡』には次のようなエピソードがある。 |
関東平定
| 治承4年(1180年)8月29日、安房国へ上陸した頼朝は、房総に勢力を持つ上総広常と千葉常胤に参上を命じた。 |
| 『吾妻鏡』によるとこのとき北条時政を甲斐源氏の武田信義に加勢を要請すべく甲斐へ派遣したとあるが、延慶本『平家物語』によると時政は安房へは向かわず石橋山敗戦の直後直接甲斐国に向かっている。 |
| その後千葉常胤の加勢を得、常胤の嫡孫成胤が、9月13日平家に従う下総国目代を滅ぼし翌14日以前から千葉氏と敵対関係にあった平家の縁者千田判官代親政を生虜る。 |
| 頼隆は平治の乱で共に戦い討たれた源義隆の遺児であり、頼朝は自身と似たその境遇に感じ、常胤の上座に座らせ家人とした。 |
| 10月初め、武蔵国に入ると葛西清重、足立遠元に加え、一度は敵対した畠山重忠、河越重頼、江戸重長らも従える。 |
| 10月16日、頼朝追討の宣旨を受けた平維盛率いる数万騎が駿河国へと達すると、これを迎え撃つべく鎌倉を発し、翌々日に黄瀬川で武田信義、北条時政らが率いる2万騎と合流する。 |
| 翌日には上洛を志すが、千葉常胤、三浦義澄、上総広常らは常陸源氏の佐竹氏が未だ従わず、まず東国を平定すべきであると諌め、頼朝はこれを受け容れ黄瀬川に兵をかえした。 |
| 治承4年(1180年)末までには、九州筑紫地方、四国伊予の河野氏、近江源氏、甲斐源氏、信濃源氏らが反平氏の挙兵をし、全国で反平氏の活動が活発となる『玉葉』。 |
| 重衡は行家らを伊勢と尾張の国境墨俣川の戦いにて打ち破り尾張を制圧し、頼朝は和田義盛を遠江に派遣するが、平家はそれ以上は東に兵を進めず都に戻った『吉記』。 |
義経追放
| 4月15日、頼朝は内挙を得ず朝廷から任官を受けた関東の武士ら無断任官者は兵衛尉義廉、佐藤忠信、師岡重経、渋谷重助、小河馬允、後藤基清、馬允有経、梶原友景、梶原景貞、梶原景高、中村時経、海老名季綱、馬允能忠、豊田義幹、兵衛尉政綱、兵衛尉忠綱、平子有長、平山季重、梶原景季、縫殿助、宮内丞舒国、山内首藤経俊、八田知家、小山朝政ら24名。 |
征夷大将軍
| 建久元年(1190年)10月3日、頼朝は遂に上洛すべく鎌倉を発し、平治の乱で父が討たれた尾張国野間、父兄が留まった美濃国青墓などを経て、11月7日に千余騎の御家人を率いて入京し、かつて平清盛が住んだ六波羅の跡に建てた新邸に入った。 |
| しかし、東国の支配者の象徴として頼朝が熱心に希望していた征夷大将軍に任官できず頼朝が征夷大将軍を望んだものの後白河法皇に阻まれたとされる事情については『吾妻鏡』建久3年7月26日条の記述などから長く信じられてきたが、近年になって『吾妻鏡』の寿永3年4月10日条及び『玉葉』寿永3年2月20日及び3月28日条から、源義仲滅亡時に後白河法皇から戦功として征夷将軍の任命の打診が行われて頼朝がこれを辞退したとする見解が出されており、頼朝の征夷大将軍補任の経緯及び当時の征夷大将軍と官職に実質的権限が存在したのか(征夷大将軍の権限とされるものは実際には頼朝個人に対して与えられた警察的・軍事的特権である可能性の指摘)について疑問視する説が出されている(北村拓「鎌倉幕府征夷大将軍の補任について」(所収:今江廣道編『中世の史料と制度』(続群書類従完成会、2005年)ISBN978-4-7971-0743-2P137-194)。 |
| それによると、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣管」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の四つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣管」や源義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして斥けられ、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例であるとして頼朝を「征夷大将軍」に任官する事にしたという。 |
| 頼朝が「大将軍」を望んだ理由としては、10、11世紀の鎮守府将軍を先祖に持つ貞盛流平氏・良文流平氏・秀郷流藤原氏・頼義流源氏などが鎮守府「将軍」の末裔であることを自己のアイデンティティとしていた当時において、貞盛流の平氏一門・秀郷流の奥州藤原氏・自らと同じ頼義流源氏の源義仲・源行家・源義経などといった鎮守府「将軍」の末裔たちとの覇権争いを制して唯一の部門の棟梁となり、奥州合戦においても意識的に鎮守府「将軍」源頼義の後継者であることを誇示した頼朝が、自らの地位を象徴するものとして、武士社会における鎮守府「将軍」を超える権威として「大将軍」の称号を望んだとする説が出されている西田友広「本巻の政治情勢」五味文彦・本郷和人・編『現代語訳吾妻鏡5征夷大将軍』吉川弘文館、2009年所収。 |
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源義朝の三男として尾張国熱田(現在の名古屋... |
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