| 1931年12月26日東京市下谷区坂本町(現東京都台東区下谷)生まれ。 |
| 東京市向島区寺島町(現東京都墨田区東向島)の旧私娼街玉の井育ち。 |
| 実家はスタンドバーを営んでいた(店名『ドン』現存せず)。 |
| 落語家の3代目三遊亭圓歌は寺島第二國民学校(現墨田区立寺島第二小学校)の2歳年上だが同学年の幼馴染。 |
| 東京都立墨田川高等学校卒業後、國學院大學文学部に進むがほとんど通わず中退、1949年~1950年頃、漫画家・田河水泡の内弟子となる。 |
| 1952年、『漫画少年』(学童社)掲載『クイズ漫画』でデビュー。 |
| (このころ、滝田マンペイ、滝田まん平のペンネームを使用と云う)。 |
| しかし、漫画一本では生活できず、キャバレーの美術部に所属、看板を書いて収入を得る。 |
| 1956年から師・田河水泡の紹介で『東京漫画出版社』の貸本漫画の世界を中心に執筆を開始、漫画家としての本格デビュー(1958年頃まで滝田裕、滝田ひろしのペンネームを使用)。 |
| 注文のあるままに『なみだの花言葉』等少女漫画を書き、作風を模索しながら『カックン親父』(東京漫画出版社1959年、この頃から滝田ゆうのペンネームになる)『ダンマリ貫太』(東京トップ社)の人気シリーズを発表、貸本漫画の『東考社』社長桜井昌一の紹介で1967年4月『月刊漫画ガロ』(青林堂)に『あしがる』を発表し、つげ義春、林静一ら同誌の掲載陣の仲間入りを果たす。 |
| 1968年12月から同誌に『寺島町奇譚』を連載(第1話ぎんながし)、自身の少年時代をモチーフとした半自伝的作品である。 |
| つげ義春の画風に影響を受けた(本人談)綿密な作画で作者の内面を表現し私小説ならぬ私漫画とも呼ばれ、代表作となる(自身が育った戦前の私娼街の雰囲気を現代に伝える資料的価値も大きいが、あくまで滝田ゆうの作品としての創作物であって、現実の玉の井が作中そのままであったわけではない)。 |
| 以降、活動の場を漫画誌から徐々に文芸誌(中間小説誌)等に移してゆく。 |
| そのまさに『手仕事』といえる画風から、現在の漫画製作の手法では一般的になっているアシスタントを使っての作品の大量生産には不向きで、週刊化して大量消費されるようになった漫画誌には馴染みにくかったといえよう。 |
| 作風も「子供受けするわかりやすい漫画」とは言い難く、むしろ青年以上の大人にニーズがあった。 |
| その作品の文学性を極めて高く評価され、文芸誌、グラフ誌等では得難い存在で引っ張り凧であった。 |
| このころから漫画に合わせて画集、エッセイ等の発表が増えてくる。 |
| 昭和を振り返る雑誌、書籍等でエッセイ+イラストの形式が多かった。 |
| 大の飲み屋好きでも知られ、新宿ゴールデン街によく出没、必ずといって良いほど梯子酒をしていたようである。 |
| (深夜帰って行ったはずの滝田が、朝方ゴミのポリバケツに座り込んで眠っていたことがある)その様子は『泥鰌庵閑話』に詳しい。 |
| 又、並外れた遅筆であり、原稿の締切前には担当編集者との激しい攻防が繰り広げられた。 |
| 締め切り前に作家の長部日出雄とバーで飲んでいるところを編集者に原稿の催促に踏み込まれ、最初は「締切ってそんなに大事なものなのか」との長部の援護に心丈夫にしていたが、編集者のただならぬ様子を見た長部に「滝田さん、そんなに(原稿が)遅いの?」と逆に突っ込まれ、大いに慌てたというエピソードが残っている。 |
| 坊主刈りで着流しに下駄履き姿でお馴染みだったが、必ずその姿と言うわけでもなく、洋服に帽子の事も多かった。 |
| 東京都国立市に長く在住し、同じく国立市在住だった作家の山口瞳、元編集者で作家の嵐山光三郎達と地元で絵画展を催していた。 |
| 昭和の東京を舞台にした漫画、イラスト、エッセイを多数執筆し、彼が描いた昭和の情緒あふれる作品はテレビや映画などでも取り上げられ、多くの人たちに親しまれた。 |
| 代表作は『寺島町奇譚』『ぼくの昭和ラプソディ』『滝田ゆう落語劇場』『泥鰌庵閑話』『昭和夢草紙』『怨歌劇場(野坂昭如+滝田ゆう)』『怨歌橋百景』など多数。 |
| 1982年10月9日、自宅にて脳血栓に倒れ、休養後復帰し、好きな酒も絶ってエッセイ、イラスト、画文集等を発表するが左半身に麻痺が残り、以降コマ漫画は手掛けなかった。 |
| 1990年8月25日、肝不全のため死去。 |
| 東京都東村山市狭山湖畔霊園に眠る。 |
| 1991年、画集『ぼくの東京ラプソディ』(双葉社発表。 |
| 生前、入院中に作品の手直しとあとがきを手掛けており遺稿集となる。 |