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プロフィール
- 澁澤龍彦とは
- 誕生
- 学生時代
- 浪人時代
- 東京大学
- 文学の道へ
- サド裁判
- 海外旅行
- 死去
- 評価
- 人となり
- 家族 親族
- 主な受賞
- オリジナル集成
- 創作小説
- 他の主な作品
- 雑誌特集
- 巖谷國士の著作
- 小説
- 関連人物
- 関連サイト
澁澤龍(=「偐」の旁部分。以下、彦で代用)(しぶさわたつひこ、本名、龍雄(たつお)、1928年(昭和3年)5月8日-1987年(昭和62年)8月5日)は、日本の小説家、仏文学者、評論家。別名のペンネームに澁川龍兒、蘭 京太郎、TassoS.などがある。晩年の号に呑珠庵、無聲道人がある。旧字を新字に直す慣例のある出版界でも珍しく、未だに名前の漢字全てが旧字体のまま出版されているが、澁澤自身は生前自らの名前が「竜」の字で代用されるのを嫌っており、「私は署名をするときにも、竜彦などとは間違っても書かない。(略)これはタツではなくて、尻尾の生えたカメみたいではないか」(『記憶の遠近法』所収「ドラゴン ...
誕生
| 東京市芝区車町(現・東京都港区高輪)に澁澤武 節子の子として生まれ、埼玉県川越市、東京市滝野川区中里(現在の東京都北区中里)に育つ。 |
| 父の武は銀行員。 |
| 母の節子は実業家で政治家の磯部保次長女。 |
| 渋沢栄一やその孫の渋沢敬三と遠戚にあたるが、龍彦の家が澁澤家の本流(東の家)で、栄一や敬三の家は支流(中の家)である。 |
| なお澁澤家は、指揮者尾高尚忠や競馬評論家大川慶次郎とも親類に当たる。 |
| 龍彦の幼少時、渋沢栄一はまだ存命で同じ滝野川に住んでいた。 |
| 龍彦は、赤子のとき栄一翁に抱かれて小便を洩らしたことがあると伝えられている。 |
学生時代
| 旧制の東京府立五中(現・東京都立小石川高等学校)から、1945年、敗戦の直前に旧制浦和高校理乙(理系ドイツ語クラス)に進む。 |
| 理系に進んだのは、当時の軍国主義的風潮の中で飛行機の設計者に憧れたためだが、徴兵逃れの意図もあった。 |
| 中学~高校時代には勤労学徒として動員され、板橋の凸版印刷と鋳物工場、八丁堀の製本屋、赤羽の兵器補給廠、大宮の工機部(蒸気機関車の修理工場)で働く。 |
| 大宮の工機部では艦載機の機銃掃射を体験する。 |
| ドイツ語が不得手だったためもあり、敗戦に伴って文甲(文系英語クラス)に転じる。 |
| 旧制浦和高校の文丙(文系フランス語クラス)は戦時中に廃止されていたが、澁澤の一級下から復活したため、一級下の講義に潜り込み、平岡昇からフランス語の手ほどきを受けた。 |
| このころの友人に出口裕弘や野沢協がいる。 |
| またアテネ・フランセに通ってフランス語を習得。 |
| みるみる上級クラスに上がっていったという。 |
| このころ、神田の古書店街でダダイスムやシュルレアリスム関係の仏語の原書を渉猟し、アンドレ・ブルトンやジャン・コクトーに熱中。 |
浪人時代
| 本来、旧制高校卒業生はほぼ無試験で帝国大学に進める立場だったが、新しい学制が施行されたためにその特権的立場を喪失し、このため澁澤は東大仏文受験に失敗して、いわゆる白線浪人となった。 |
| 浪人中のアルバイトで「モダン日本」誌(新太陽社)の編集に携わり、吉行淳之介の知遇を得た。 |
| 久生十蘭の原稿を取りに行った事もある。 |
| このころ、小説の習作を吉行に読んでもらったことがあるが、それは吉行によるとサディズムの傾向があらわれた作品だったとのことである。 |
東京大学
| 1950年、2年の浪人生活を経て東京大学文学部に入学。 |
| この時のことを、1974年2月の「週刊朝日」の取材には「入学試験なんてインチキなものだと信用していなかったが、やはり三度目に入ったときはうれしかった」と答えている。 |
| 若干の社会人経験を積んだためもあり、澁澤当人は自筆年譜の中で「周囲の学生が秀才馬鹿に見え、研究室の雰囲気にも馴染めなかった」と語ったが、当時の友人の証言によると、澁澤はこのころ研究室には頻繁に出入りしていたともいう。 |
| 1953年仏文科を卒業。 |
| 卒論は『サドの現代性』。 |
| サドをテーマにした論文は自分が最初で最後かもしれないと語っている。 |
| 澁澤の執筆当時はサドは文学者としての評価は芳しくないばかりか俗悪的なポルノ作家との認識が少なくなく、学者もサド研究に好意的ではなかった。 |
| そんな状況での澁澤の論考は、当然のようにアカデミズムから疎外される。 |
| 澁澤は卒論を提出した後に、大学から取り戻したという。 |
| このころ、新聞社や出版社の就職試験に失敗している。 |
文学の道へ
| その後、東京大学の修士課程に進んだが肺結核を病んで就職への道が絶たれる。 |
| 1954年、白水社から最初の訳書『大跨びらき』(ジャン・コクトー著)を上梓、初めて澁澤龍彦という筆名を使う。 |
| この訳業には、すでに大学入学前、浪人時代に着手していたものである。 |
| この頃、父が急死したため経済的に逼迫し、岩波書店で社外校正のアルバイトを始めると共に、のちの妻矢川澄子と知り合った。 |
| また1955年には友人の出口裕弘や野澤協、小笠原豊樹たちと同人誌「ジャンル」を結成、『撲滅の賦』『エピクロスの肋骨』などの小説を書いた。 |
| 公式には、この『撲滅の賦』が小説家としての澁澤の処女作だったとされている。 |
| このころ三浦市の市長選に絡んで個人的に日本共産党候補を応援し、対立候補を批判する詩を書いてビラ撒きを手伝ったが、やがて一切の政治的発言を自らに禁ずるようになった。 |
サド裁判
| 1961年、猥褻文書販売および同所持の容疑で現代思潮社社長石井恭二と共に在宅起訴され、以後9年間に渡りいわゆる悪徳の栄え事件の被告人となる。 |
| 埴谷雄高・遠藤周作・白井健三郎が特別弁護人、大岡昇平・吉本隆明・大江健三郎・奥野健男・栗田勇・森本和夫などが弁護側証人となった。 |
| 澁澤はこの裁判について「勝敗は問題にせず、一つのお祭り騒ぎとして、なるべくおもしろくやる」との方針を立てていたため最初から真剣に争う気がなく、「寝坊した」と称して裁判に遅刻したことまであったため、弁護側から怒りを買うことがあった。 |
| 1962年に東京地裁で無罪判決が出たが、検事控訴で高裁から最高裁まで争った末、1969年に澁澤側の有罪が確定し、7万円の罰金刑を受けた。 |
| このとき澁澤はマスコミの取材に答えて「たった7万円、人を馬鹿にしてますよ。 |
| 3年くらいは(懲役刑を)食うと思っていたんだ」「7万円くらいだったら、何回だってまた出しますよ」と語った。 |
海外旅行
| 1970年9月に、初めての欧州旅行に出たのをきっかけに、70年代から80年代にかけ、龍子夫人を伴い、何度か海外旅行をした。 |
| なお初めての海外への出発の際、三島由紀夫が羽田空港に見送りに来たのが最後の面会となった旅行自体は、夫人の回想記『澁澤龍彦との日々』(白水社)や、編著『澁澤龍彦のイタリア紀行 とんぼの本』(新潮社)に詳しい。 |
| また作家嵐山光三郎は、平凡社の編集者時代に澁澤と中近東旅行に同伴している。 |
| また国内旅行の記録も『澁澤龍彦の古寺巡礼 コロナ・ブックス』(図版本の編著、平凡社)など、複数で紹介されている。 |
死去
| 1983年頃、牝の兎を飼い始める。 |
| 名前は「ウチャ」。 |
| 澁澤は幼い頃から喉が弱く、知人の間では特徴的なかすれ声で知られていたが、近所の医師の誤診から下咽頭癌の発見が遅れたため、1986年に声帯を切除し、声を失った。 |
| この後、真珠を呑んで声を失ったという奇伝に因み「呑珠庵」と号する(別説あり)。 |
| 入院生活の最中も『高丘親王航海記』を書き継ぎ脱稿、次作『玉蟲物語』を構想していたが、1987年8月に、病床で読書中に頚動脈瘤の破裂により逝去した。 |
| 戒名は、文光院彩雲道龍居士。 |
評価
| マルキ・ド・サドを日本に紹介した人物とされているが、実際には澁澤以前にサドの翻訳、式場隆三郎による評伝の翻訳、紹介があった。 |
| 澁澤は1959年に現代思潮社から、サドの『悪徳の栄え(続)』を翻訳出版したが、1960年4月に、同書が性表現を理由に発禁処分を受けた。 |
| その際、三島由紀夫から、同年5月16日付の葉書で「今度の事件の結果、もし貴下が前科者におなりになれば、小生は前科者の友人を持つわけで、これ以上の光栄はありません」と激励の言葉を贈られた。 |
| 人間精神や文明の暗黒面に光を当てたエッセイが世間に与えた影響は大きい。 |
| 小説家としても独自の世界を開く。 |
| 下記の著作でエロティシズムを追究し、沼正三のSM小説『家畜人ヤプー』を絶賛した事でも知られている。 |
| 編著『エロティシズム』(青土社→河出文庫 上下)。 |
| 同名の著書もある。 |
| 澁澤龍彦編『血と薔薇 エロティシズムと残酷の綜合研究誌』(全3号、復原版白順社、2003年)。 |
| 2005年に河出文庫全3冊、なお4号まで刊行されたが、4号目は平岡正明が編集した。 |
| 難解だといわれるバタイユ『エロティシズム』の邦訳の中でも、澁澤訳は読みやすいと定評がある。 |
| (『ジョルジュ・バタイユ著作集7巻』所収、二見書房 のち『翻訳全集 13巻』、河出書房新社)。 |
人となり
| 三島由紀夫と長年深い親交があり、三島戯曲の代表作『サド侯爵夫人』は、自身の跋文(あとがき、なお序文は澁澤である)にあるように、澁澤の『サド侯爵の生涯』を受けて書いたが、式場隆三郎『サド侯爵夫人』も読みこんでいたことは間違いない。 |
| また三島自決の直後の追悼文は、さすがに昂揚している。 |
| 20代の終盤に三島由紀夫の紹介で、暗黒舞踏の創始者である土方巽と出会い、その舞踏表現に強い衝撃を受けたと言う。 |
| 土方の舞台公演には必ず駆けつけるなど長きに渡る親交が続き、1986年に土方が急逝した際には葬儀委員長を務めた『日曜美術館 幻想の王国―澁澤龍彦の世界』(NHK教育、1994年5月15日)で、土方巽の葬儀にて挨拶する数少ない映像が放映された。 |
| 教員としての経験は、短期間美学校で教えた以外に一切なかったが、澁澤自身に就職の意志がなかったわけではなく、東洋大学で講師を募集していることを知るや、親友出口裕弘に「もし君が東洋大学を振るなら、僕に行かせてくれよ」と大学への口利きを依頼したことがある(出口裕弘『澁澤龍彦の手紙』PP.100-101、朝日新聞社、1997年)。 |
| 友人の回想は、出口裕弘は上記と『綺譚庭園 澁澤龍彦のいる風景』(河出書房新社、1995年、他の作家論を併録)。 |
| 種村季弘『澁澤さん家で午後五時にお茶を』(河出書房新社、1994年/増補版:学研M文庫、2003年)と、巌谷の著作・編著(下記)がある。 |
| 河出では、全集刊行に伴い『回想の澁澤龍彦』、『澁澤龍彦をめぐるエッセイ集成1.2』、『澁澤龍彦を語る』を出版した。 |
| 上記にあるような破天荒な言動で知られるが、近い人間からは「(特にフランス関連で)わからないことがあったら澁澤に聞け」と言われるほど信頼され、深夜に問い合わせの電話がかかってきても親切に応対していたという(赤木洋一『平凡パンチ1964』、平凡社新書)。 |
家族 親族
| 妻・矢川澄子(詩人)(教育学者矢川徳光の娘)。 |
| 妻・澁澤龍子 元編集者。 |
| 妹・渋沢道子(詩人)仏画家矢野眞は義弟(道子の夫)。 |
主な受賞
| 1981年小説集『唐草物語』 第9回泉鏡花文学賞。 |
| 1987年『高丘親王航海記』(遺作) 没後読売文学賞。 |
創作小説
| 『犬狼都市』一部作品の初出は、三島や中村光夫が参加した「鉢の木会」が編集した、大判の季刊文芸誌『聲』(発行元は丸善)であった。 |
| (短編集)桃源社1962年/福武文庫、1986年、福武書店、1988年。 |
| 『唐草物語』(短編集)河出書房新社 1981年 のち河出文庫。 |
| 『うつろ舟』(短編集)福武書店 1986年 のち福武文庫、河出文庫。 |
| 『高丘親王航海記』 文藝春秋1987年、文春文庫、1990年。 |
| 『エピクロスの肋骨』(最初期の短編集) 福武書店 1988年、福武文庫 1991年。 |
| 『澁澤龍彦綺譚集』(全2巻) 日本文芸社、1991年。 |
| 『日本幻想文学集成4 澁澤龍彦』 富士川義之編、国書刊行会、1991年。 |
雑誌特集
| 「追悼・澁澤龍彦」 <季刊みづゑ第945号>美術出版社 1987年冬号。 |
小説
| 三島由紀夫『暁の寺』の、「性の千年王国」を夢見るドイツ文学者今西康は、澁澤をモデルにしたが、物語のラストで、同衾していた戦争遺族の中年女性(椿原夫人)ともに、戦後の「バッド・ソウル」を象徴する人物として、(神話的発動により)、「焼灼」(しょうしゃく)され亡くなる。 |
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1945年
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敗戦の直前に旧制浦和高校理乙(理系ドイツ語... |
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1950年
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2年の浪人生活を経て東京大学文学部に入学 |
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