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田辺市立芳養小・同明洋中から進んだ南部高では投手として、また打順は主に1番で活躍するも甲子園出場は逃す。
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高校通算51本塁打を放っているが、51本目は夏の県大会準々決勝の星林高戦で、吉見祐治から打った、レフト場外に消える民家直撃弾であった。
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2001年、登録名を本名から「濱中おさむ」に変更しブレイク。
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母の日の5月13日、母親をスタンドに招待していた広島東洋カープ戦(甲子園)で、プロ入り初ホームランとなるサヨナラスリーランを放った(しかし母親はこのホームランの時には球場を後にしていた)。
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後半戦は3番に定着し初の規定打席到達、13本塁打を記録。
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2002年は7月24日の読売ジャイアンツ戦でサヨナラホームランを打つなど活躍するが、8月にナゴヤドームでの試合でダイビングキャッチを試みた際に親指を骨折。
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規定打席到達を逃すが、打率3割・18本塁打をマーク。
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この年オフには第15回IBAFインターコンチネンタルカップ日本代表に選出され出場した。
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2003年は、開幕から4番に座って4月中に10本塁打到達し、打点を量産したが、5月20日に広島戦で帰塁の際に右肩を負傷。
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さらに6月13日の巨人戦では送球の際に右肩を脱臼し、7月のオールスターゲームにファン投票で選出されていたが出場は辞退することになった。
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手術で後半戦を棒に振るが、日本シリーズには指名打者などで出場した。
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2004年、背番号を31に変更し、復活が期待されたが、再び右肩を痛めて手術。
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2005年は、セ・パ交流戦で指名打者として復帰し、交流戦終了後は代打での出場が主になった。
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2006年は5年ぶりに登録名を本名に戻し、背番号を5に変更して完全復活へと挑んだ。
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開幕スタメンこそ逃すが、打率.435・10本塁打・打点22をマークし、3・4月度の月間MVPを獲得する活躍で6番に定着。
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後半は今岡誠の故障もあり、5番打者として起用され、最終的には20本塁打と自己最高の成績を残した。
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また、同年7月14日のオールスターにファン投票で選出された巨人(当時)の小久保裕紀内野手が怪我で出場を辞退したため、代替選手として出場した。
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しかし、翌2007年は自身の不振と故障、林威助や桜井広大の台頭があり、一軍と二軍を往復するシーズンとなり、結局打率.193、本塁打6、打点14と不本意な成績に終わる。
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阪神では戦力として計算しづらくなり、11月26日にオリックスの阿部健太投手、平野恵一内野手との交換トレードで吉野誠投手とともにオリックスに移籍が発表された。
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12月3日付けでオリックスの支配下選手に登録され、12月5日に入団会見を行い、背番号は7番と発表された。
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これにちなみ、オリックス球団は大阪府下での主催試合で「1人でも多くのファンの方に野球を生で楽しんでもらいたい」という濱中の意向から「濱中治のラッキー7シート」(各試合7名ずつのファンご招待 [http://www.buffaloes.co.jp/news/detail/85.html 詳細こちら])を実施する。
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移籍初年度の2008年は、6番・右翼手として開幕戦にスタメン出場。
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4月1日の西武戦では西口文也から逆転決勝1号満塁本塁打、4月30日の楽天戦では9回裏に青山浩二から代打同点3号2ラン、5月6日の千葉ロッテ戦では成瀬善久から逆転決勝4号2ラン、と開幕直後はチャンスで好打を度々放った。
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しかし、アベレージそのものは伸び悩み、大石大二郎に監督が代わると、スタメンから外れるケースも多くなった。
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7月中旬に一旦2軍降格、8月初旬に1軍に復帰した。
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復帰直後はまずまずの打撃を見せたものの、坂口智隆・下山真二の活躍やルーキー・小瀬浩之の台頭もあり、出場機会をあまり得られなかった。
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最終的には85試合に出場して打率.253、9本塁打の成績に終わった。
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前年ほどの不振ではないにしろ、カムバック賞を獲得した平野とは対照的に、期待された成績を残したとは言い難かった。