| 1988年、ダイエーはプロ野球球団買収の方針を決め、本店室の室長である鵜木洋二らとともに水面下で準備を開始。 |
| 鵜木の主導で同時期に福岡市でプロ野球誘致を進めていた「市民球団誘致市民会議」と接触を行い、創業者である中内功のアジア戦略もあり、福岡への球団設置で話が進んでいたが、実務のリーダー格であった瀬戸山はダイエーの経営実態にそぐわないアジア戦略や、いわゆる「スモールマーケット」である福岡でのプロ野球経営はメリットが少ないと考え、リーグ優勝も狙える戦力を擁しながらも身売りが噂されていた阪急ブレーブスを買収し、ダイエーの創業地であり、同年に神戸総合運動公園野球場の開場する神戸市に本拠を置くことを企画していたと言われる。 |
| 最終的には南海からのホークス球団買収、福岡市での球団経営が決定し、瀬戸山も「球団総務課長」の肩書きでフロント入りする。 |
| 福岡におけるホークス球団の運営は南海時代より観客動員は増えたものの、スモールマーケットゆえの球団経営は予想以上の難しさがあり、他球団と比べて高額となる遠征費用や宣伝・広告費、球団の所有によるダイエー本体への波及効果などが早くも課題となっていた。 |
| また阪急球団と比べて戦力的に著しく劣ることから、球団所有初年から苦戦を強いられることになった。 |
| 1990年に西武ライオンズから坂井保之を球団代表として迎え、同チームの主砲であった田淵幸一を監督としたが、ドラフト指名した元木大介や三井浩二に入団を拒否されるなど、有能な選手獲得は容易でなかった。 |
| これに対し、当時認められていたドラフト外で選手獲得を積極的に進め、さらに米国のマイナー制度に倣い、支配下選手以外にも「練習生」として確保。 |
| 他球団と比較して多くの選手を保有することでその解決を図ろうとした。 |
| しかし、新参者であるダイエーの動きは財政的に多くの選手を抱える余裕のない他球団の反発を招き、1991年オフ以降からドラフト外の選手獲得や練習生が認められなくなった。 |
| このため、将来の球団を担うはずの多くの若者が志半ばで球界を去ることになり、球団にとっては大きな打撃となった。 |
| 1993年オフに球団代表となった瀬戸山は、いわゆる事務方としての仕事から、編成面に至ってもGM的な職務までをこなしていた。 |
| しかし、バブル崩壊による親会社の経営不振もあり、1995年オフには財政難のため人気選手の山本和範を解雇せざるを得なくなったが、瀬戸山はその山本に解雇を通告する損な役回りを任され、ダイエーファンの怒りを買ってしまった。 |
| さらに、韓国のドラフトで指名され獲得が困難とされた林仙東投手の獲得交渉も任され、これにも失敗する-->うなど苦労続きであった。 |
| 瀬戸山は反面、球界全体を見渡すことのできるバランス感覚に優れた人物で、球団内部よりも他球団の関係者による評価が高く、当時のコミッショナーであった吉國一郎の信望も厚かった。 |
| 一方でスモールマーケットである福岡に本拠を置く福岡ダイエーホークスの限界を認識し、現実的な球団運営に終始した。 |
| ファンや選手とは距離を置き、契約交渉においては冷徹であることでも知られ「瀬戸際代表」という渾名で恐れられていた。 |
| 1996年、チームが低迷した年に『朝まで生討論』(KBC制作で、放送地域は福岡地方限定)に出演。 |
| ホークスの低迷を扱うテーマということもあり、パネリストの追及は厳しさを極めたが、「大阪から本拠地を移すにあたっては、福岡ではなく神戸でもよかった」という「毒」のあるコメントなども駆使して巧みにかわしていた。 |
| 瀬戸山の不運はさらに続いた。 |
| 1997年に小久保裕紀ら選手による脱税事件が発覚。 |
| 瀬戸山は管理責任を取らされる形で「解雇」処分となり、一時的にダイエーフロントを後にした。 |
| 1999年には球団社長となっていた根本陸夫がシーズン途中で死去したことから、球団代表としてフロントに復帰した。 |
| しかし、この頃はすでに高塚猛が実権を握っており、積極的な球団経営を推進する高塚と、スモールマーケットに見合った球団経営を志向する瀬戸山とでは意見がかみ合わず、実態は閑職に回されていた。 |
| この年、チームは福岡移転後初の日本一に輝いたが、契約更改では選手側に妥協せず、球団の財政事情もあり厳しい姿勢で臨んでいた。 |
| その一方で日本一の立役者ながらオフに肺がんで倒れ、「余命3ヶ月」の末期と宣告された藤井将雄に対しては関係者を介して「ダイエー球団は彼のような人物を簡単に解雇するような球団ではない」と話し、現役続行が厳しい事を知りながら倍増で契約を更新するという人情味あるところも見せた。 |
| 高塚と意見が合わなくなったことなどから2003年に退団し、同時にダイエー本社からも離れ、独立し福岡県内で会社経営に乗り出した。 |
| 福岡ソフトバンクホークスで球団代表を務めていた角田雅司(現在は退任)や元COO(この役職は2009年限りで廃止)の竹内孝規(現在は顧問)はダイエー時代にいずれも瀬戸山の下でフロントマンとしての実績及び経験を重ねた人物であった。 |