| 少年時代から英雄伝を愛読し、中学生のころヒトラー・ムッソリーニに憧れを抱く |
| 農芸高校園芸科を卒業したが、農業後継者の道をあきらめ、福島市の臨時職員を経て1971年に市の正職員として採用される。 |
| 左翼系労組の影響が強かった職場に反発して自民党に入党。 |
| 東京日比谷で愛国党の赤尾敏の演説に強い影響を受け、個人として右翼活動を始めた |
| 瀬戸の言によれば、1972年に自身が新成人として参加した福島市の成人式の式場とその周辺で、左翼系のデモ隊が、新成人の自衛官を乗せたバスを包囲、「自衛隊反対・人殺しは帰れ」等のスローガンを掲げて抗議して式の参加を阻んだ場面を目撃した。 |
| 既に愛国心に目覚めていた瀬戸は、口惜しい気持ちで一杯だったという |
| 1974年の第10回参議院議員通常選挙では糸山英太郎の選挙運動を手伝い、その縁でヒトラーの信奉者・篠原節が率いる右翼団体「民族思想研究会」に加入 |
| 1975年のスト権ストに抗議して動労の山形県米沢市の事務所に集団で乱入し、建造物侵入、器物損壊で逮捕、罰金刑。 |
| 市役所からは口頭注意のみ |
| 1976年に民族思想研究会の一部を引き継いだ福島市の右翼団体「憂国青年同志会」の会長となる。 |
| 以降、1987年にネオナチ運動に移行するまで約10年にわたり活動(後述するように、中断期間がある) |
| ヤクザ・暴力団系の右翼との関係が深い活動であったという |
| 1977年ごろ、押し掛けてきたヤクザと乱闘になり、傷害罪で逮捕され |
| 上記の傷害事件で収監中に、冤罪を訴えて無罪を勝ち取った在日朝鮮人の存在を知った。 |
| この冤罪事件に関するルポルタージュを執筆、1978年に『政経東北』に「山本弘幸」名で発表したのがジャーナリストとしての仕事の最初であった |
| 1978年に正論新聞社の設立者・三田和夫に師事、福島に戻ってミニコミ紙の発行を始め、仙台を経て東京でジャーナリストとして活動 |
| 1981年ごろ、ジャーナリスト活動の傍ら「日本憂国会」として街宣右翼活動を再開、「皇心塾」「一水会」「北方領土奪還青年委員会」の活動家と「統一戦線義勇軍」を結成 |
| このころ、ノンフィクション作家朝倉喬司のインタビューを受け、「銀座に本拠を置くある右翼結社の首領」として『別冊宝島56ヤクザという生き方―都市の底に棲む男たちの物語!」(宝島社1986年ISBN4796690565)に掲載された。 |
| 当時、瀬戸の「日本憂国会」は「原発反対、資本家殲滅」を唱え、街宣車に「全ての怒りを権力へ!」「窮民革命に決起せよ!」のスローガンを掲げた。 |
| 銀座の事務所前の路上で、毎夜、浮浪者を集めて酒を振る舞っていた |
| このころ、しばしば訪韓して農村近代化運動(セマウル)にボランティア参加した |
| 1983年に静岡市長選挙に立候補するも落選 |
| 1983年、「世界戦略研究所」設立 |
| 機関紙『世界戦略』(タブロイド版4ページ、500円)・『世界戦略情報』(B5版10ページ、1万円)を発行『新聞雑誌総かたろぐ』( |
| 1986年10月16日に倒産した清酒安売り会社「東菱酒造」に会社整理を依頼されながら、逆に現金150万円を脅し取ったとして逮捕されたが不起訴 |
| 1986年ごろ、街宣車に乗る活動を止める。 |
| 福島市で日教組全国大会が行われていた際、小学校1年生の娘が「右翼の街宣車が怖い」と言ったことにショックを受け、将来の日本を担う子供たちに恐怖感を与えるような運動が真の愛国運動なのだろうか、と疑問を抱いたため |
| 1991年、国家社会主義日本労働者党・自然社会主義協会(代表・篠原節)などに呼びかけてともに「国家社会主義者同盟」を設立し、不法滞在外国人の追放運動を始めた |
| 一方、在日朝鮮・韓国人に対しては帰化を支援するなどの活動をしていた |
| 上記の運動がTBSの報道番組『スペースJ』で取り上げられた(1994年9月14日)ことをきっかけに、有門大輔(現・NPO法人外国人犯罪追放運動・理事長)と出逢う(1995年)。 |
| 以後、有門は瀬戸に師事、執筆活動や右翼活動をともにする |
| 1994年2月に『環境経済新聞』を創刊 |
| 1995年から、行政通信社発行の月刊誌『政財界ジャーナル』の編集長 |
| 前任者は |
| を務め、自らも多数の記事を執筆する |
| 後に、行政通信社の経営権も取得し発行人も兼ねる |
| 同じころ、行政通信社には複数のブラックジャーナリストが所属していたとされる |
| 1997年頃にウェブサイト「 |
| 右翼団体の中では比較的早くサイトが設立され、当時としては珍しく |
| 瀬戸は、2008年に、2000年ごろの2ちゃんねるを「今のように相手を罵倒するだけの投稿ではなく、互いの立場を認め合いながら、討論を進めるだけのマナーが残されていました。 |
| 今日の2ちゃんねるには残念ながら当時の面影さえもありません」と回想している |
| 2001年に『教育レポート』を創刊 |
| 2006年4月、既に活動実態を失っていた「国家社会主義者同盟」副代表の肩書きを返上 |
| 2006年11月、維新政党・新風への支持を訴える「新風連~新しい風を求めて~ネット連合」を十数名のブロガーとともに立ち上げる |
| 2006年秋~冬、民主党近藤昭一が朝鮮総連などが主催する集会に、議員会館使用の取り次ぎをしたことを追及・糾弾した |
| また、在日朝鮮人である毎日新聞佐賀支局記者が、県知事記者会見で行った質問が、天皇に対して不敬であるとして新聞社に抗議を行った |
| 2007年4月3日に維新政党・新風の党友となったことを公にし、5月21日には第21回参議院議員通常選挙(7月29日)に同党公認で比例区に出馬することを表明した。 |
| 7月29日の参院選では、新風の比例候補3名の中でトップの票を得たが、落選した |
| 瀬戸は結果を「言い訳が許されないほどの惨敗」と受け止め、資金力と組織力の不足を痛感した |
| 2007年6月に「河野談話の撤回を首相に求める署名活動」を通じて主権回復を目指す会代表西村修平と知り合い |
| 在特会会長桜井誠との交流もこの頃から始まる |
| 2007年の参院選敗退後、支援組織の確立の必要を実感し、創価学会や女性党などを手本として、健康食品の販売組織・販路から支援者の獲得を目指すとした |
| が可決されると「アイヌ民族は同化政策によって消滅した」「過去の差別を現在から断罪するのは偏向」「自称アイヌは利権目当て」とする意見に賛同した |
| 瀬戸自身や西村修平らによる中国人・韓国人・創価学会員に向けたヘイトスピーチを含む街頭宣伝の動画がYouTubeで削除された |