| 日本に初めてテニスが紹介されたのは1878年(明治11年)であったが、当時はテニスボール製造に必要なゴムが輸入困難だったため、日本独特の軟球ゴムボールを使用した「軟式テニス」が編み出される。 |
| しかし、これは通常の「硬式テニス」(日本独特の用語)とは全く異なるものであった。 |
| 1913年(大正2年)2月19日、熊谷が所属していた慶應義塾大学テニス部が「硬式テニス(ローンテニス)への転向」を正式に表明し、熊谷たちは日本で最初に硬式テニスへの挑戦に踏み切った。 |
| 同年12月、熊谷は慶應義塾大学のチームメートとともにフィリピン・マニラの「東洋選手権大会」に派遣された。 |
| これが、日本人テニス選手の初めての海外遠征である。 |
| この時熊谷はシングルス準決勝とダブルス決勝に進出したが、単複とも優勝した全米ランキング2位のビル・ジョンストンから大きな刺激を受けた。 |
| ジョンストンは身長173cmとやや小柄な体格で、身長188cmの長身選手だった同じアメリカのライバル、ビル・チルデンと比較されて“LittleBill”(リトル・ビル)のニックネームで呼ばれた名選手である。 |
| 1915年(大正4年)、上海で行われた極東選手権競技大会に柏尾誠一郎(東京高等商業学校(現一橋大学)卒業)とともに出場し、シングルス・ダブルスの両方で優勝する。 |
| 翌1916年(大正5年)にマニラで行われた東洋選手権大会には三神八四郎(早稲田大学卒業)とともに出場し、シングルスでウォード・ドーソン、クラレンス・グリフィンを破って優勝したが、ダブルスではドーソン&グリフィン組に決勝で敗れた。 |
| 1916年、熊谷は三神と共にアメリカ遠征を実行し、ジョンストンを破るなどして注目される。 |
| 1916年全米選手権において、熊谷一弥と三神八四郎の2人が、日本人テニス選手として最初の4大大会出場者になった。 |
| この遠征について、熊谷は「在米3ヶ月間で約60人とシングルスを戦い、土のコートでは1セットも失わなかったが、芝のコートでは勝手が違い4人に負けた。 |
| またサーブが強いのに閉口した」と語っている。 |
| この遠征で、熊谷はいきなり「全米ランキング5位」のポジションにつけた。 |
| 軟式テニスの標準的なグリップ(ラケットの握り方)である「ウエスタングリップ」を左利きで駆使した熊谷のテニスは、世界のトップ選手たちからも注目されるようになった。 |
| ウエスタングリップとは、テニスのラケット面を地面と平行に置き、上からかぶせるようにラケットを握る方法である。 |
| 対照的な「イースタングリップ」では、ラケット面と地面は垂直になる。 |
| 慶應義塾大学を卒業後、熊谷は三菱合資会社銀行部(現在の三菱東京UFJ銀行)に勤務するようになり、ニューヨーク駐在員としてアメリカに拠点を移した。 |
| 1917年(大正6年)は第1次世界大戦のため全米ランキングは算定されなかったが、1918年(大正7年)の全米選手権で、熊谷は日本人のテニス選手として初のベスト4進出を達成する。 |
| 日本人選手初の準決勝では、ビル・チルデンに2-6,2-6,0-6のストレートで完敗した。 |
| 1919年(大正8年)に熊谷は全米ランキングでも「3位」に上がり、第1位ビル・ジョンストン、第2位ビル・チルデンの2強豪に続いた。 |
| 1920年(大正9年)のアントワープ五輪で、熊谷一弥は男子テニスでシングルス・ダブルスともに銀メダルを獲得し、日本人のスポーツ選手として史上初のオリンピック・メダルを獲得した選手になった。 |
| 男子シングルス決勝では、ルイス・レイモンド(南アフリカ)に7-5,4-6,5-7,4-6で敗れ、柏尾誠一郎とペアを組んだダブルスでも、決勝でイギリスのマックス・ウーズナム(1892年-1965年)&オズワルド・ターンブル(1890年-1970年)組に2-6,7-5,5-7,5-7で敗れている。 |
| 1921年(大正10年)に日本が初めて男子テニス国別対抗戦・デビスカップに出場した時、熊谷は柏尾誠一郎、清水善造とともに日本代表選手に選ばれ、「アメリカン・ゾーン」のチャレンジ・ラウンド決勝まで勝ち進んだ。 |
| 日本はアメリカ・チームに5戦全敗で敗れ、熊谷はビル・ジョンストンにストレートで敗れている。 |
| 熊谷は同年まで全米ランキングでトップ10位以内を維持したが、家庭の事情のため1922年(大正11年)以後のデビスカップに参加できなくなった。 |
| 年齢的にも、もう30歳代を迎えていたのである。 |
| その後、熊谷は1924年(大正13年)に『テニス』(改造社運動叢書:第1篇)という著書を東京の「改造社」から出版した。 |
| 1951年(昭和26年)、日本は第2次世界大戦後のデビスカップに復帰することになった。 |
| 熊谷一弥は日本代表チームの監督に選ばれ、初遠征でアメリカ・ケンタッキー州ルイビルに赴いたが、日本代表選手は1回戦でアメリカチームに全敗した。 |
| 米国メディアは30年以上前の熊谷の活躍を覚えており、ニューヨーク・タイムズ紙が「熊谷、ニューヨークに帰る」という見出しを掲載したほどである。 |
| その後は1953年(昭和28年)に、テニスコーチのウィン・メース(WynnMace)の著書『テニス技術』(講談社刊)の翻訳書を残している。 |
| 1968年8月16日、熊谷は故郷の福岡県大牟田市で77歳の生涯を閉じた。 |