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つながりの強いひと
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木村蒹葭堂
江戸時代中期の日本の文人、文人画家、本草学者、蔵書家、コレクター。大坂北堀江瓶橋北詰の造り酒屋と仕舞多屋(しもたや、家賃と酒株の貸付)を兼ねる商家... |
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頼春水
江戸時代中期・後期の儒学者、詩人。頼山陽の父。幼名は青圭、名は惟完あるいは惟寛、字は千秋、伯栗、春水は大坂で用いた号で江戸では霞崖と称した。別号に... |
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宇野明霞
友達
宇野明霞(うのめいか、元禄11年5月20日(1698年6月27日)-延享2年4月14日(1745年5月15日))は江戸時代中期の日本の儒学者である。名を鼎、字を士新、通称... |
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尾藤二洲
江戸時代後期の儒学者。名は孝肇、字は志尹、通称は良佐、別号は約山。 頼山陽の叔父にあたる。柴野栗山・古賀精里とともに寛政の三博士と呼ばれる。 |
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中井竹山
中井竹山(なかいちくざん、享保15年5月15日(1730年6月29日)-享和4年2月5日(1804年3月16日))は江戸時代中期の儒学者である。大坂の学問所懐徳堂の四代目... |
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池大雅
日本の江戸時代の文人画家、書家。本来の苗字は池野(いけの)だが、中国風に池と名乗った。幼名は又次郎(またじろう)など。諱は勤(きん)、無名(ありな... |
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柴野栗山
江戸時代の儒学者・文人である。名は邦彦であり、字は彦輔である。讃岐国(現:香川県)で生まれた。寛政の三博士の一人として知られる。 |
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江村北海
江村北海 【えむら-ほっかい】 2件の用語解説(江村北海で検索) Tweet デジタル版 日本人名大辞典+Plus の解説 江村北海 えむら-ほっかい... |
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葛子琴
江戸時代中期の日本の漢詩人・篆刻家である。天賦の才を持った詩人と評され、一方篆刻では高芙蓉の高弟として活躍。苗字は橋本氏、通称が貞元だったので橋本... |
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小野蘭山
江戸時代の大本草学者。名は識博(もとひろ)、通称は喜内、字は以文、号は蘭山、朽匏子。しばしば「日本のリンネ」と称される。京都出身。門弟に杉田玄白、... |
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頼山陽
頼山陽(らいさんよう、安永9年12月27日(1781年1月21日)-天保3年9月23日(1832年10月16日))は江戸時代後期の歴史家、思想家、漢詩人、文人である。幼名は... |
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皆川淇園
江戸時代中期の儒学者。父は皆川成慶(春洞、白洲)で、実弟に国学者富士谷成章(層城、北辺)がいる。淇園は号で、名は愿(げん)。字は伯恭。通称は文蔵。... |
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古賀精里
江戸時代後期の儒学者。名は樸、字は淳風、通称は弥助。子に穀堂・侗庵、孫に謹一郎(茶渓)が居る。佐賀藩士の子として生まれ、京都に遊学して横井小車に朱... |
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河野恕斎
江戸時代中期の日本の儒学者・漢詩人である。儒者として肥前蓮池藩に仕えた。名を子龍、字は伯潜。恕斎と号した。通称忠右衛門。京都の人。 |
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アレクサンドル・ダルゴムイシスキー
アリクサーンドル・ダルガムィーシュスキイのようになる。サンクトペテルブルクで教育を受ける。早くから才能あるアマチュアとして有名だったが、1833年にグ... |
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高芙蓉
江戸時代中期の儒学者、篆刻家、画家である。日本における印章制度を確立して印聖と讚えられる。苗字の高は出身地の甲州高梨郡に因んで自ら名乗ったもので、... |
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レオン・バッティスタ・アルベルティ
初期ルネサンスの人文主義者、建築理論家、建築家である。専攻分野は法学、古典学、数学、演劇作品、詩作であり、また絵画、彫刻については実作だけでなく理... |
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趙陶斎
江戸時代中期の書家である。名は養、字を仲頤、号は陶斎、他に息心居士、枸杞園、清嘩閣等がある。長崎生まれ。 |
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伊藤東
■■■ 笠間焼 伊藤東彦作 泰山木文壷 ■■■
笠間焼の名工、伊藤東彦作の泰山木文壷をお預かりし出品しました。
伊藤氏は昭和48年に第20回目本伝統工芸展に初出... |
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プロフィール
片山北海(かたやまほっかい、享保8年1月10日(1723年2月14日)-寛政2年9月12日(1790年10月19日))は、江戸時代中期の日本の儒者、漢詩人である。京都の 江村北海、江戸の入江北海とともに三都の三北海と称された。名を猷、字は孝秩、通称を忠蔵、号は北海の他に堂号でもある孤松館がある。大坂で混沌詩社などを興して、 頼春水、 尾藤二洲、 古賀精里、 木村蒹葭堂など多くの優れた門弟を輩出した。
生涯
| 北海は、越後国弥彦村(現新潟県西蒲原郡弥彦村)の農家に生まれる。 |
| 父は黙翁といい、母は三浦氏の出自。 |
| この村が日本海に面していたことから長じた後に北海と号することになる。 |
| 10歳になるまでに四書などの教えを受けるが、非凡な才能を示したため、周囲の大人はこの子に学問を仕込もうとした。 |
| しかし辺縁の地にて師が見つからず、長岡、新発田、高田などに遊学させるも相応しい師を見つけられずにいた。 |
| 18歳になると京都に出て、師を探し求めたが敬服に値する人物になかなか出会うことができずにいた。 |
| 北海が初心より志が高かったことが伺われる。 |
| 元文5年、ようやく意中の師宇野明霞に出会い入門する。 |
| 北海は師を敬い、その学説を慕った。 |
| また師明霞も北海の器を見抜き、信任が篤かった。 |
| この師弟関係は6年続いたが、明霞が死去するに及んで起居する家を失うことになる。 |
| 加えて息子の出世を期待して身を寄せていた父親と貧困生活を強いられてしまう。 |
| しかし、親孝行をしながら苦学して学問を続けた。 |
| 明霞の門弟に大坂の富商の者がいて、北海と知己であったことで、大坂に招かれて開塾することとなった。 |
| 北海は言葉少なく、優しい人柄で知られ、身分によって人を差別することがなかった。 |
| また政治的な野心を持つことなく、しかも儒者として時宜にかなった実践的な学を説いた。 |
| 世間の評判はたちまち高まり、三十数年の間で延べ3000人以上の門弟がいたといわれる。 |
| 和泉岸和田藩の岡部候など多くの諸侯が北海の評判を知り、藩儒として招聘するがすべて固辞している。 |
| 淀橋横町の居宅には一本の老松があったためここを孤松館と称した。 |
| 多くの文人墨客がここに集い、酒を飲みながら詩作に耽り、政治談義などをした。 |
| 北海は酒を嗜まなかったが、これにつきあい倦むことがなかったという。 |
| 若き日の尾藤二洲が服部南郭の詩について議論しようとしたが、北海はこれに応えず平然と煙草を吹かしていた。 |
| 面倒な文学論などせず自由で気楽な雰囲気が伝わってくる逸話である。 |
| また横笛の名手でもあり、煎茶を嗜む風流人でもあった。 |
| 明和元年(1764年)、混沌詩社が創立され北海はその盟主に推されるが、たちまち大坂で最も盛んな詩社となった。 |
| 宇野明霞の同門で生涯にわたる親友に、相国寺禅僧大典顕常がいる。 |
| 梅松院(大阪市天王寺区城南寺町)に眠る。 |
著作
| 北海は生涯、著作を著すことを好まず、生前刊行されるものはなかったが、没後に門人によってその詩編が編集され出版されている。 |
| 『混沌社詩稿』。 |
出典
| 頼春水『在津紀事』。 |
| 東條耕子藏『先哲叢談續編』。 |
| 中村真一郎『木村蒹葭堂のサロン』新潮社 2000年 ISBN4103155213。 |
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1764年
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混沌詩社が創立され北海はその盟主に推される... |
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