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飯田章
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プロフィール
- 片山右京とは
- 生い立ち
- レースデビュー
- 「カミカゼ・ウキョウ」
- 1988年
- 1989年
- 1990年
- 1991年
- 1992年
- 1993年
- 1994年
- 1995年
- 1996年
- 1997年
- ル・マン24時間レース
- その他のカテゴリー
- 登山
- その他の活動
- F1参戦前
- F1参戦中
- F1引退後
- ミナルディとの関係
- 経歴年表
- ラジオ
- 関連サイト
片山右京(かたやまうきょう、1963年5月29日-)は、日本のレーシングドライバー、 元F1ドライバー、登山家、自転車競技選手。神奈川県相模原市出身(東京都 町田市の町田市民病院で出生したことから「東京都出身」とすることもある)。大阪産業大学工学部客員教授。通称「 カミカゼ・ウキョウ」。登山・レーシング活動にはTeamUKYOで参加する。地元・相模原市の名誉観光親善大使を務める。
生い立ち
| 小学生の頃から、自転車や登山にいそしむ。 |
| 中学・高校は、日本大学第三中学・高等学校に進学。 |
| 陸上部に入部し、長距離選手として活躍。 |
| バイクの転倒事故を起こし、大学進学を断念する。 |
| ちなみに日大三高で福王昭仁(現読売ジャイアンツフロント)と落語家の立川志らくは同期生。 |
レースデビュー
| 筑波サーキット前のレースガレージで寝泊りしながら、パチンコ店店員、トラック運転手などで費用を準備し、1983年にFJ1600筑波シリーズでデビューを果たす。 |
| この年の同シリーズでシリーズチャンピオンに輝き、翌1984年も鈴鹿FJ1600Aクラスでシリーズチャンピオンを果たすなど好成績を残す。 |
「カミカゼ・ウキョウ」
| 1985年には全日本F3選手権にステップアップし、ランキング6位の成績を残す。 |
| またこの年の8月にフランスへと渡り、フォーミュラ・ルノースクール(ウィンフィールド・レーシングスクール)を受講し、アラン・プロストの持っていたコースレコードを更新する。 |
| 首席での卒業のため、本来であればエルフのスカラシップを獲得するところだが、日本でF3の出走経験があったことからスカラシップの対象外とされ、次席のエリック・コマスがスカラシップを獲得した。 |
| 1986年はフォーミュラ・ルノーのフランス国内選手権に出場し、第3戦マニクールでポールポジションを獲得し2位入賞を果たす。 |
| 同年シリーズ途中から1987年までチーム・デュケンからフランスF3に参戦。 |
| リタイヤを恐れない攻撃的なドライブで注目を集めた。 |
| レース中のクラッシュで瀕死の重傷を負い、日本へ「片山右京死亡」の誤報が流れたこともあった。 |
| その恐いもの知らずの走りから「カミカゼ・ウキョウ」と呼ばれた。 |
1988年
| 1988年から、日本のトップカテゴリーである全日本F3000選手権に出場。 |
| この年は、アパレルメーカーの「BA-TSU」からの資金を元に、自前チームの片山企画から参戦した為、ドライバーとチームマネージャーの二足のわらじを履くこととなり苦戦を強いられたが、シーズンランキング11位の成績を残した。 |
| またル・マン24時間レースにフランスのクラージュ・コンペティションから出場した。 |
1989年
| 1989年は、前年の苦労から由良拓也率いる有力チームの1つであるムーンクラフトへ移籍するも、マシンバランスが悪く、戦闘力に欠けるオリジナルシャーシでの参戦であったために結果が出なかった。 |
| また同チームより国際F3000選手権にもスポット参戦したが、こちらも同様の理由から低迷した。 |
| 併せて全日本ツーリングカー選手権にも「出光石油withFootwork」からエントリーし、村松栄紀とともにホンダ・シビックをドライブした。 |
| 常に上位争いに顔を出し、第4戦ではクラス優勝を飾った。 |
1990年
| 1990年には名門のヒーローズレーシングへ移籍し実力を開花させ、一躍トップドライバーの仲間入りを果たしシーズンランキング5位となるも、黒旗無視による失格など出入りの激しいレース展開は変わらずであった。 |
| なおこの年にF1のブラバム・ヤマハのテストドライバーに抜擢された。 |
1991年
| 1991年には同チームで安定したドライブを見せ、バブル景気の余波を受けて参戦台数が多く上位争いが激しかった中で、ライバルであったロス・チーバー、星野一義、黒澤琢弥、エディ・アーバインらを下してシリーズチャンピオンとなる。 |
| ちなみに、この年の8月に日本人初のF1レギュラードライバーである中嶋悟の引退が発表されたため、「今年チャンピオンを取る片山が次のF1最有力」との話が一人歩きし始め、右京へのプレッシャーを高めることとなり本人を苦しめたと言われる。 |
1992年
| 全日本F3000チャンピオンとしての実績が認められ、前年まで日本人2人目のF1レギュラードライバーである鈴木亜久里が在籍していた、ラルースチームから日本人3人目のF1レギュラードライバーとして参戦した。 |
| なお、F1参戦には日本たばこ(当初は「CABIN」、後に「MILDSEVEN」ブランドで右京がF1を引退するまでスポンサーした)によるバックアップも大きく影響している。 |
| カナダGPではレース終盤までポイント圏内走行の健闘を見せる場面もあった(結果はリタイア)が、ラルースチームの戦闘力不足によりノーポイントに終わる。 |
| 因みにこの年、予備予選落ちも経験している。 |
| 出走回数:14戦。 |
| 予選最高位:11位(カナダGP)。 |
| 決勝最高位:9位(ブラジルGP、イタリアGP)。 |
1993年
| 1993年に、ヤマハエンジンを得た中堅チームのティレルに移籍した。 |
| チームメイトは前年からティレルに在籍していたベテランのアンドレア・デ・チェザリスであった。 |
| なお、1990年からブラバム・ヤマハのテストドライバーを務めていた。 |
| この年は新車「ティレル・021」の投入が遅れた上、その新車がマシンバランスを欠いた失敗作だったため見るべきところがなかった。 |
| なお、開幕から数戦に渡り使用した020Cのモノコックは、1991年に中嶋悟が使用したものそのものであり、エンジンもシーズン序盤はヤマハ側の改良が間に合わず、やはり1991年にスクーデリア・イタリアが搭載したジャッドGV・V10そのものであった。 |
| 出走回数:16戦。 |
| 予選最高位:13位(日本GP)。 |
| 決勝最高位:10位(ハンガリーGP)。 |
1994年
| 1994年はマシンバランスに優れたニューマシン「ティレル022」を駆り随所で速さを見せる。 |
| 開幕戦ブラジルGPで5位入賞し初ポイントを獲得、その後ローランド・ラッツェンバーガーとアイルトン・セナの死亡事故が起きたサンマリノGPで5位、イギリスGPでも6位にそれぞれ入賞し、ドイツGPでは予選で当時日本人最高位となる5位を獲得、スタートで2位にジャンプアップし、マシントラブルでリタイアするまで3位をキープするなど、日本人初のF1優勝の夢を現実的なものにした。 |
| しかし、資金不足でテスト回数も制限され開発が思うように進まず、それゆえ信頼性が上がらずにトラブルが多く、入賞したレース以外では途中リタイアという展開が多かった。 |
| チームメイトのマーク・ブランデルがスペインGPで3位表彰台を獲得し、自身もドイツGPでの2位走行、ヨーロッパGPではスタート直後のエンジンストールで最後尾まで落ちながら入賞圏内には僅差の7位となるなど、健闘を見せたシーズンとなった。 |
| 後にこのシーズン印象に残る走りが出来た理由として、実姉が出産時の事故で他界したことと、自らが癌であると診断された事(後に誤診と判明)を挙げている。 |
1995年
| 1995年は「今年の注目ドライバーはウキョウ・カタヤマだ」と、当時フランスのTF1テレビで解説をしていたアラン・プロストに言わしめた程に大きな期待を持って迎えたシーズンとなった。 |
| 右京はチームに「チームメイトはとにかく速いヤツにしてくれ」とオーダーしていたが、チームメイトにミカ・サロを迎えると、サロの母国のフィンランドの携帯電話メーカー「NOKIA」がメインスポンサーになり、サロが結果を出すにつれてチーム体制がサロ寄りになっていったことと、油圧形式ダンパーのハイドロリンク・サスペンションを独自開発したが開発体制が脆弱で熟成できず、通常のサスペンションへ戻すといった開発の迷走もあり低迷した。 |
| ポルトガルGPではスタート直後に宙を舞う大クラッシュを起こし、次のヨーロッパGPはドクターストップがかかり欠場する。 |
| F1ドライバーに必要なのは300km走りきる間、同じ動作を正確に繰り返す筋肉であり、筋肉の性質を考慮せずにトレーニングを行ったことは自分の首を絞める結果となった。 |
| また、この年からレースエンジニアがサイモン・パーカーからティム・デンシャムに変更に成った事で仕事の進め方の細かい部分での行き違いがありエンジニアとの関係構築に時間が掛かっていた。 |
1996年
| 1996年は前年のチームの成績が良くないのと、広告面での成果が予想以上に悪かった事でメインスポンサーの「NOKIA」が撤退してチームは資金難になる(ティレルが1996年のスポンサーフィー倍額を要求して「NOKIA」を怒らせてしまったとの説がある)。 |
| また1996年の右京の契約がチームとなかなか合意できない間にシャーシ(ティレル024)の開発が進んでしまい、既にチームと契約済みであったミカ・サロの体型に合わせてコクピット形状が決められてしまう。 |
| その為、右京には大きすぎるコクピットになってしまい、対策としてシートを嵩上げし従来よりも径の大きなステアリングを使用する事になった(シーズン前の体制発表の場でこのシャーシに乗ったら右京の体が見えない程すっぽりとハマってしまい同席していたジャーナリストからは爆笑された)。 |
1997年
| 当時チームオーナーとなっていたベネトンのフラビオ・ブリアトーレに、チーム立て直しのためのリーダー的存在感を期待されての起用であった(右京には、来シーズンザウバーや、アロウズと契約間近だったが、どちらも移籍すればナンバー2扱いだったことがネックとなり、合意には至らなかった)。 |
| 引退の決断に関しては、「この年がデビューシーズンとなったチームメイトのヤルノ・トゥルーリの急激な成長に対し、自分にはすでに伸びシロが無くなっていたことを認識させられたからであった」と後に語っている。 |
ル・マン24時間レース
| その後、1998年からはトヨタよりル・マン24時間耐久レースにワークス参戦し、特にトヨタTS020GT-ONEを駆った1999年の同レースは、優勝車BMWV12LMRを終盤にファステストラップの連続で追い詰め、結局タイヤバーストで惜しくも2位に甘んじたものの、その鬼神のごとき走りは内外のレース関係者に深い印象を残した。 |
その他のカテゴリー
| その後は、同じく関係に深いトヨタ系チームから全日本GT選手権や、ダカールラリー、アジアクロスカントリーラリーなどにも参戦している。 |
| 他にも、F1現役時代から、FJ1600やフォーミュラ・トヨタなどのジュニアフォーミュラや、F3を中心に活動するレーシングチーム「ル・ボーセ・モータースポーツ」を運営している。 |
| 2011年はグッドスマイルレーシングとStudieが運営するチームにTeamUKYOが参加、スポーティングディレクターに就任した |
登山
| 2002年にはエベレスト登頂にチャレンジしたが、あと100mのところで悪天候のために断念している。 |
| 2009年12月17日、南極大陸のヴィンソン・マシフ登頂に挑戦するための訓練として、(自身が経営する)片山プランニングの社員2名と共に富士登山中に遭難した。 |
| 片山本人は翌18日に自力で下山する途中、静岡県警山岳救助隊員に発見、保護された |
| 同日に記者会見が行われ、片山の事務所は同月25日から予定していた |
| これを受けて日本山岳協会の理事長尾形好雄は「冬の富士山で一番怖いのは突風であり、風によって滑落、転倒するのが冬富士の遭難の典型」と指摘している |
その他の活動
| また、近年はam/pmなどのテレビCMや様々なバラエティ番組、ドラマ『水戸黄門』に出演するなど、タレントとしての活動も行っている。 |
F1参戦前
| F1にステップアップを決めた際、全日本F3000で所属していたヒーローズレーシングの田中弘監督は、「出来ればもう1年手元に置いて修行させたい。 |
F1参戦中
| 当初はF1マシンの強烈な横Gに首が耐えられず、コーナリング時にヘルメットがぐらぐらと揺れるシーンが度々テレビ中継に映し出されたため、その様子を古舘伊知郎に「張子の虎走法」「赤べこ走法」と称されていた。 |
| レース後のインタビューでは顔面蒼白のまま、あまりの腹部の痛みに涙を流しながら顔を歪めていたため、心配したジャーナリストがインタビューの中止を進言したが、本人の「このまま帰ったら、(仕事を放り出してしまったことに対し)悔しくて眠れないから」との申し出により敢行することとなった。 |
| 契約寸前まで行ったが、オプション権を行使したティレルとの翌年の契約を破棄するには違約金が発生するがその金額を用意する事が出来なかったことと、スポンサーの日本たばこに留意されたこと(日本たばこ内部では1995年は2チーム4台のサポート体制で承認が取れており、今さらこれを覆すことは出来ないと言われた)で諦めた経緯がある。 |
F1引退後
| 1999年のル・マン24時間レースに参戦した際、レースシーズン前の岡山国際サーキットでの全日本GT選手権マシンのテスト中に発生したアクシデントで不慮の死を遂げた舘信吾の形見の品であるレーシンググローブを着用して出走した。 |
| 2006年F1第3戦オーストラリアGP、予選PPを奪ったのはホンダのジェンソン・バトンであったが、セーフティーカー明けのラップで後続ドライバーに次々オーバーテイクされるシーンを見て、TV解説をしていた右京は「バトン、何やってんだ」や「バトン、ヘタクソですね」とコメント。 |
| イタリアGPの予選の最終ピリオドで、終盤トップタイムを出しポールポジションの可能性が高まったシューマッハだが、直後にマクラーレンのキミ・ライコネンが好タイムで最終セクターを迎えた。 |
| 日本GP決勝の終盤、ルノーのフェルナンド・アロンソと僅差のチャンピオン争いを展開するシューマッハが、トップ走行中に突然エンジンブローでリタイアしてしまい、タイトル獲得が絶望的となってしまう。 |
| F1引退後はトヨタの支援を受けてレース活動をしていたこともあってか、F1のTV解説では同じ日本チームのホンダよりもトヨタ寄り、特にかつてのチームメイトで、友人のヤルノ・トゥルーリに対してはサポートするコメントを行うことが多い。 |
| 母校(相模原市立鹿島台小学校)を訪れ、自分の職業分野に関する講義を行なうというNHKの番組「課外授業ようこそ先輩」に出演した際は、児童らをトヨタ・アルテッツァに乗せてドリフトを体感させたあと、体育館に富士スピードウェイのミニチュアコースを作り、そのコースを児童らに自分の足で走らせ、「コースを早く走るためのコツと意味」を体感を通じて理解させる、といった内容の授業を行なっていた。 |
| 2010年日本グランプリのフジテレビ地上波放送での解説中、小林可夢偉がヘアピンで次々にオーバーテイクを成功させる模様を見て、同じく解説者を務めていた森脇基恭が泣いていることを伝えていた。 |
ミナルディとの関係
| 2008年の第14戦イタリアGPでは、ミナルディの後継チームであるスクーデリア・トロ・ロッソ所属のセバスチャン・ベッテルの、自身及びチーム(前身のミナルディ含む)にとって初めてのポールポジション及び優勝を記録した(F1史上最年少優勝も同時に記録)レースに解説者として出演。 |
| スクーデリア・トロ・ロッソの姉妹チームであるレッドブル・レーシングにはなぜか手厳しく、特に2010年のF1界最大の新ファンクションであるFダクトをレッドブル・レーシングが導入したことについて、「あれだけFダクトを否定してたあげく、結局今回Fダクトを導入した、にもかかわらずストレートスピードが伸びないというのはどうなんでしょう」と辛口のコメントを地上波全国放送で残している。 |
経歴年表
| 2000年-JGTC(GT500)参戦(チーム:NISMO)(マシン:日産・スカイラインGT-R(R34))シリーズ11位非選手権セパン戦で優勝。 |
| 2003年-ダカールラリー参戦(チーム:アラコ)(マシン:トヨタ・ランドクルーザー100)リタイアルマン24時間耐久レース(チーム:KONDORacing)(マシン:童夢S101無限)総合13位。 |
ラジオ
| TOYOTAPresents片山右京のShallWeDrive?~ドライブしようよ!~-2005年10月より2009年3月までTBSラジオ他JRN各局で放送されていたラジオ番組。 |
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1963年
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片山 右京(かたやま うきょう)は、日本のレ... |
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1983年
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FJ1600筑波シリーズでデビューを果たす |
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片山右京さんについてのひとこと紹介
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