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練習を取材に来たテレビのインタビューでも「俺が投げれば、チームは絶対勝ちますから」と豪語するなど、甘いマスクと独特なキャラクターで甲子園ギャルの間で人気を博した。
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しまいには、1979年の春の選抜では準々決勝で延長15回221球を投げぬいた翌日、東洋大姫路高との準決勝も涼しい顔で完投勝利をマークするなど、タフネスぶりの片鱗は既に高校時代から見せていた。
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香川伸行とは高校時代バッテリーを組んでいたが、牛島と香川の仲については不和説も囁かれた。
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牛島は投球練習時には常に控え捕手を相手に投球練習を行っていた。
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因みに、中日入団発表時の彼の髪型はバリバリのリーゼントであった。
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ルーキーとしてのキャンプ初日にナインに挨拶をする牛島の頭髪を見た星野仙一は早速、厳しい指導を行ったとする説がある(一説には「ほとんどマンガのようなソリコミ」も原因だったとされる。
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互いに大人となってからは牛島に恥をかかせたくないためなのか星野発言は影を潜めた)。
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中日時代は小松辰雄と共に地元企業興和新薬のミカロン(頭髪フケ止め薬)のCMに出演するなど高校時代のイメージそのままで、甘いマスクで高い人気を得た。
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引退後は名古屋市に本店を置く眼鏡店チェーン「メガネの和光」のイメージキャラクターを務めている。
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中利夫監督時代のある日、ミーティングで稲尾和久投手コーチから投手陣全員に「9回2死満塁、カウント2-3からどんな球を投げるか?」という質問が出された。
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ほとんどの投手が自分の決め球を答える中、ただ1人「自分は分かりません」と答えたのがルーキーの牛島だった。
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怪訝そうな顔の稲尾に対して牛島は「どのような状況で2-3となったかによって、最後に投げる球も変わってくる。
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2-3となるまでの経緯がないと、最後の球も決められない。
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点差によっても投げる球は変わるし、一概に決められるものではない」と持論を述べた。
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(のちに「150kmの速球を投げられるわけでもないし、これっていう絶対的な変化球もなかったから、こう答えるしかなかった。
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」と振り返っている。
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)奇しくもこれは稲尾が現役時代に実践していた考え、投球術と全く一致していた。
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この事からも、当時から卓越した投球術の持ち主であったことが分かる。
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このエピソードは現在でも野球関連の漫画に流用されるほど有名である。
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余談だが、牛島本人は後年この時のことについて「稲尾さんでなくもっと頭の固いコーチだったら、きっと嫌われて目をつけられていただろう」と語っている。
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現役時代から星野仙一に憧れ、星野も牛島を可愛がってきた。
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しかし星野は牛島を落合博満獲得の為1986年秋の中日監督就任直後、ロッテにトレードする。
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トレード決定後、気持ちの整理が付かぬまま移籍会見に臨むため東京に向かう牛島を、星野は名古屋駅の新幹線ホームで見送った。
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牛島は人目をはばからず号泣。
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星野は後年のインタビューで「牛島は、他のチームの野球を勉強させるつもりでトレードに出した。
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いずれは中日に復帰させるつもりだったが、実現しないまま故障し、引退してしまった」と語っている。
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ロッテへの移籍が決定した直後、牛島は「(1987年当時の)12球団のフランチャイズ球場で、これまで唯一オールスターやオープン戦でも一度も登板の経験が無いのが、ロッテのフランチャイズである川崎球場だ」と話した。
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1988年10月19日、ロッテ対近鉄ダブルヘッダー、いわゆる“10.19”の第1試合9回表2死2塁、先発投手の小川博をリリーフするが、代打梨田昌孝に中前適時打を喫し、鈴木貴久に勝ち越しのホームインを許す。
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牛島は後日テレビ朝日「ニュースステーション」など各メディアのインタビューを受けた際、梨田となぜ勝負したか尋ねられると「1塁が空いていたので歩かせようかと一瞬思った。
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しかしあの時、近鉄の選手はみんな気魄が漲っていた。
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執念で攻めてきていたので(梨田を敬遠して)次の打者と勝負しても、その次の次の打者と勝負しても、結果はきっと同じ。
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誰と勝負しても同じだった」と毅然と言い切った。
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また、後年行われた別のインタビューでは「梨田さんはあの年限りで引退を決めていたし、ひょっとしたら現役最後の打席になるかもしれなかった。
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勝敗が掛かる場面だったが、“現役最後が敬遠じゃ、梨田さんに対して失礼になる”と思って勝負した」とも語っている。
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ロッテ時代は肘の故障の為、移籍1年目程の活躍は後年見せられなかったが、ナインからの信望が非常に厚く、特に小宮山悟を初めとする投手陣には技術面・精神的共に絶対的な支えとなる。
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その事は後に長きに渡りテレビ・ラジオでの理論派解説の裏付けとなっている。
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また、1992年のロッテ入団以来、牛島を慕い続けている吉田篤史(現湘南シーレックス投手コーチ)は、雑誌『週刊ベースボール』の選手名鑑の「野球生活の中での思い出のシーン」という設問に、自身が1993年に右肩を故障したことと「牛島さんの現役引退」を挙げ続けている。
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吉田は2004年に現役引退後、牛島の誘いを受けて横浜にコーチとして入閣。
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小林至は1991年の1年間をロッテの練習生(当時東大4年生で在学中だったため)で過ごしたが、この際に、故障で二軍暮らしだった牛島にいろいろと指導を受け、「何だお前、東大行っているくせしてこんなことも知らんのか」と言われたという。
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小林は後に「練習生で、プロでもない中途半端な立場で練習していて、ともすれば居辛い状況の中、何かにつけて気さくに声をかけてくれた牛島さんには大変感謝しています」と述べている。
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牛島はフォークボールを決め球としていたが、牛島の手はごく普通の大きさしかない。
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ある年フジテレビ「プロ野球ニュース」のオフ企画にゲストで呼ばれた牛島はフォークの握り方を問われると、うっすら笑いながらごく浅くボールを挟んで見せた。
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「はあ、これであんなに落ちるんですか?」と今ひとつ合点のいかないアナウンサーに対し、同席していた関根潤三が突如「私は知ってますけど言いません」と笑顔で言い放った。
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牛島のフォークの握りは特殊なもので、まず人差し指と中指を開き、その間にボールをじわじわ押し当てていく。
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すると、不意に2つの指の間の関節が外れて指の拳{{要出典}}(腱?)部分がほぼくっつくほどの角度に一気に開く、という驚くべきものだった。
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牛島は「指が大きく開くようになりたいと思ってボールを挟む事を繰り返していたら、ある時関節を自由に外したり戻したりできるようになった」と証言していた。
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特に最近は屋内にブルペンがある球場が多く、捕球音が反響しやすいため、調子が悪い投手が“いい球がいっている”と勘違いする事がある」というのがその理由である。
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「キャッチャーはピッチャーを気持ちよく投げさせるために大きなミット音を出す」という理論をもっている西武の伊東勤とは、対極の理論である。
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投手の癖などを矯正する技術に長けており、マーク・クルーンを入団させる際、球は速いがコントロールに難があったことからフロントは難色を示した。
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牛島監督の矯正でクルーンは制球難が直り、守護神の座を佐々木主浩から奪い取るほどの活躍を見せた。
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2006年には不振の佐伯貴弘を2ヶ月以上も四番で使い続けたが成功せず、一部のファンからは「四番佐伯」と揶揄される程で、チーム低迷の一因となってしまった。
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また、投手以外の打者には不調でも代打を出さないなど、采配で動くことが少なく控えの戦力を有効に活用していないという批判もあった。
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大の飛行機嫌いであり、それにまつわるエピソードも多数ある。
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ロッテ時代は地方での試合が多く、特に札幌市円山球場での試合前後には移動手段に頭を悩ませる事が多かったという。
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那覇空港到着後、報道陣に久々の飛行機の感想を問われると「降りる時は揺れたね」と苦笑交じりに答えた。
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シーズンに入ってからも長崎ビッグNスタジアムで広島戦が行われた際、前日の移動日には飛行機移動のチームを離れ、新横浜駅から朝一番の新幹線「のぞみ1号」と在来線特急「かもめ」を乗り継いで長崎まで移動した。
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さらに交流戦の際、フルキャストスタジアム宮城での楽天戦の次カードは移動日なしで札幌での日本ハム戦だったが、楽天戦の3戦目が雨天中止となったのを良しとし、翌朝飛行機で移動するチームを離れてひとり寝台特急「北斗星」で移動する…という徹底ぶりであった。