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牧野成定
三河国宝飯郡牛久保城の城主。牛久保城主牧野貞成(右馬允・民部丞)の養子となり、牛久保城主を継ぐ。牧野保成(出羽守)の義理の甥。実は牧野氏成(新九郎... |
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牧野信成
牧野信成 (まきののぶしげ) 生没年 :1578〜1650年
身分 :武蔵足立郡石戸5千石の領主
官位(通称、号) :豊前守 信成がいた群馬県高崎市高松町にあ... |
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牧野貞成
牧野貞成(まきのさだなり、文亀2年(1502年)-永禄5年8月28日(1562年9月26日))は戦国時代の東三河地方の武将・国人領主、牛久保城主第二代。通称は民部丞... |
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今川義元
戦国時代の武将、駿河国の守護大名・戦国大名。足利氏の傍流吉良氏の分家に当たる今川氏の出身で、駿河今川家第9代当主。父は第7代当主・今川氏親、母は父の... |
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牧野康成
江戸時代 の 大名 。 越後 与板藩 主。 越後長岡藩 分家牧野家初代。 越後長岡藩主 牧野忠成 の次男。母は永原道真の娘。官位は従五位下、 遠江 守。初名は... |
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牧野忠成
牧野忠成(まきのただなり、天正9年(1581年) - 承応3年12月16日 (旧暦) 12月16日(1655年1月23日)は江戸時代の大名。越後長岡藩初代藩主。大胡城主牧野康... |
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牧野古白
三河牧野氏の武将。俗名は成時(しげとき)であり、法名である古白は古伯とも書く。利成とする文書もあるが一般的ではない。子は信成、三成、信高、能成。 |
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牧野成勝
東三河地方の戦国時代の武将・国人領主。三河国牛久保城(愛知県豊川市牛久保町)主。子孫は長岡藩主の家系に連なる。通称・民部丞、右馬允。 |
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池田輝政
戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将・大名。美濃国池尻城主、同国大垣城主、同岐阜城主、三河国吉田城主を経て播磨国姫路藩主。姫路城を現在残る姿... |
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奥平信昌
奥平信昌(おくだいらのぶまさ)は戦国時代から江戸時代にかけての武将。小幡藩初代藩主。加納藩初代藩主。初名は貞昌(さだまさ)。徳川家康の長女・亀姫を... |
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松平清康
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。また世良田姓を称す。三河松平氏の第7代当主。第6代当主・松平信忠の子で松平広忠の父、徳川家康の祖父。三河国安祥城城主... |
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今川氏真
戦国時代から安土桃山時代にかけての武将。駿河国の戦国大名。駿河今川氏10代当主。父・義元が桶狭間の戦いで織田信長によって討たれたためその領国を受け継... |
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酒井忠次
戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。徳川氏の家臣。徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。 |
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今川氏親
今川氏親(いまがわうじちか)は戦国時代の武将・守護大名・戦国大名である。足利氏の一門・吉良氏の庶流である駿河今川家7代当主。駿河守護。父は今川義忠。... |
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牧野成里
安土桃山時代から江戸時代前期にかけての武将。豊臣秀次に仕えた若江八人衆の一人。通称は伝蔵。伊予守。 |
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牧野成時
下総国関宿藩の嫡子。徳川綱吉の側近として活躍した牧野成貞の養子。正室は牧野安。 |
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牧野忠敬
江戸時代の大名。越後長岡藩の第6代藩主。長岡藩系牧野家宗家7代。 |
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牧野成貞
牧野成貞(まきのなりさだ、寛永11年(1634年)-正徳4年6月5日(1712年7月8日))は江戸時代の大名。上野館林藩家老、5代将軍徳川綱吉の側用人、下総関宿藩主... |
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戸田宗光
室町時代中期の武将。入道名は全久(ぜんきゅう)。応仁の乱では西軍として活動する一方で三河・尾張に勢力を拡大、戸田氏中興の祖とされる。 |
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松平長親
室町時代後期から戦国時代初期にかけての武将。松平氏の第5代当主。松平親忠の三男。または長忠・忠次とも。幼名は次郎三郎。竹千代。官位は従五位下。通称(... |
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プロフィール
- 牧野保成とは
- 概要
- 不明確な前半生
- 今川氏の助力で失地回復
- 反今川派牧野貞成との訣別
- 徳川家康の進攻に抗戦
- 諸説ある保成の最期
- 家族
- 葬地・法名
- 保成は牧野平三郎系
- 保成以前の牧野出羽守
- 応仁の乱の影響と牧野田蔵系の台頭
- 参考文献
- 関連サイト
牧野保成(まきのやすしげ、?-永禄6年(1563年)3月)は戦国時代の東三河地方の武将・国人領主。また、牛窪城主。通称は出羽守、田三郎。牧野成種の子。天文期に戦国大名今川氏に属して戸田氏に奪われていた所領を回復したが、永禄期半ばには 徳川家康の東三河進出に抵抗して敗死。
概要
| 戦国時代東三河地方の史料のひとつである「牛窪記」の中心人物として知られる一方、徳川氏との戦いに敗れて滅亡したために、これと対照的に徳川氏に臣従した同族の牧野右馬允の系統が徳川譜代大名・旗本(幕臣)として存続する過程で牧野保成の事績とその系譜は江戸幕府編纂の系図類から欠け落ち(あるいは意図的に抹消され)、今日ではその事績・死没の事情などに諸説あって謎の多い人物である。 |
| しかし、東三河地方の寺社の古文書や棟札、近世成立の史書や奥平氏等の他の東三河国人の関係文書の記述中にもその名は見いだされる。 |
| また、同族とされる長岡藩牧野家においても弥彦神社にその神霊を祀り下記参考文献の1、「弥彦神社末社-十柱神社」69-71頁。 |
| 、近世大名の牧野家の秘事として伝えられていたとする。 |
不明確な前半生
| 保成は近世大名である長岡牧野家の系図によれば牧野成種の子とされるが、生年は不明である。 |
| 天文期に入ると、写しも含めた古文書類によって、保成が今川氏との関係性において積極的に活動していたことが類推される。 |
| 天文7年(1538年)牛窪北鉄屋大工の助九郎へ与える免許状(牛窪北鉄屋大工助九郎安堵状)に「保成」名義で連署しており、現在知られてる保成の最古の同時代文書である。 |
| この文書への署名は実名のみで田三郎などの通称は記されていない。 |
| 同時代文書は無いが、諸記録に享禄2年(1529年)宝飯郡長山村の牛窪に牧野右馬允と共に新城(いわゆる牛久保城)を築造したとされる。 |
| また『牛窪記』には、牛久保城主は、牧野保成とある。 |
| しかし、保成自身がこの新城・牛久保城の城主と成ったかどうかは明確ではない。 |
| 後世の寛政重修諸家譜等には牧野氏勝(成勝・民部丞)・牧野貞成(民部允・右馬允・新二郎)・牧野成定(右馬允・新次郎、成守とも)と相伝されたことになっている。 |
| また、牛久保には古城としての「牛窪城」が在ったともいい、あるいは近隣の大聖寺と並ぶ長山一色城が有り、これを後に「牛窪城」と称したともいう。 |
| 『牛窪密談記』では「一色の城(牛窪に改名す)を牧野出羽守保成が守護した」との記述もあることから、いずれにせよ保成は「牛窪城」を居城としていたと推定されるなお、保成の妹(または娘)が三河作手城主奥平貞能の室になっており(『牛久保密談記』等)、この奥平氏の所領の一部が牛久保領域内の佐脇村にあったことから、天文14年(1545年)以前には佐脇村を含む近隣(森、国府、久保、八幡、市田など)への関与の可能性もある(同地域は古くから東三河の行政的中心地で牧野氏一族もこの地域に居住が確認される)。 |
今川氏の助力で失地回復
| 天文15年(1544年)9月28日付の今川家発給文書により、渥美郡の吉田城周辺に牧野保成の所領が認められるとされる下記参考文献の4、169-170頁・「今川義元家臣団事典」の牧野保成の項。 |
| 小和田氏は天文15年9月28日付け牧野保成条書の内容から今橋(吉田)を中心に保成が知行地を有していたとする。 |
| 保成はこの年の今川義元の東三河地方への出陣に先立ち、今川家との数通の文書のやり取りによって、先年の戸田氏等による自領の失地田蔵系の旧城主牧野信成は享禄2年(1529年)(天文元年(1532年)説もある)戦死、その子田蔵某は母が懐胎のまま尾張国知多郡に亡命しその地にて出生、それ以後は今橋(吉田)の牧野家は吉田城とその領地を失っていた(下記参考文献の4、巻六百五十二・牧野(田口氏)の44頁)。 |
| を回復できるように請願しており、太原雪斎や朝比奈泰能・朝比奈親徳の両朝比奈氏等の今川家重臣の裏書き書判を得ていた。 |
| そして保成は、この頃には吉田城主の牧野田蔵系の通称・田三郎を称している下記参考文献の5所収、所理喜夫 「戦国大名今川氏の領国支配機構」の資料1・「天文十五年丙午九月廿八日、牧野田三郎保成条書写」による。 |
| 義元は同年11月に天野景泰(安芸守)等の率いる駿・遠の軍勢と松平広忠家臣の酒井忠尚・石川忠成・阿部定吉を将とする西三河勢を東三河に入れ、天文6年(1537年)より吉田城を占拠していた戸田宣成(金七郎)参考文献の6、「戸田氏の吉田城占領」(386-387頁)によれば、天文5年に松平氏から独立した牧野成敏(田兵衛尉)が城主になったが、翌6年には成敏家臣の内応を手掛かりに大崎(豊橋市老津町)の戸田宣成が城を奪取していた。 |
| に対し、攻城戦のすえに追伏し、吉田城を支配下に置いたのである。 |
| そして、この時に牧野保成へ吉田城周辺の牧野氏旧領を返付したと思われる。 |
| しかし、約束されていた城主の地位は牧野氏に戻されないまま、保成は今川氏の置く城代(初め伊東元実のち小原鎮実)の軍事指揮権に服していたと考えられる。 |
| この頃より、牧野保成は今川氏の勢力を背景に東三河の牧野一族の惣領権を確保したと考えられるが、反面それは戦国大名今川氏への依存度を高めることになった。 |
| 天文22年(1553年)には御津(豊川市御津町)の大恩寺阿弥陀堂の棟札に「牧野出羽守保成」と記し、息子の田三郎成元・甥の牧野右馬允成守『牧野家系図』(下記参考文献の7)等では成守は成定の前名とされる。 |
| とともに同阿弥陀堂の再興寄進の大旦那を務めた。 |
| 棟札銘文には「家督伝三良成元」の署名から、保成はその時点で息子成元に既に家督を譲渡していたことが判るまた保成弟とされる貞成(民部丞)が永正3年(1506年)今橋落城の際に5歳(満4歳)であったという長岡牧野家の家伝(古和本『牧野之家傳』長岡市中央図書館蔵)があり、これを信ずるならば保成の生年は文亀元年(1501年)以前になる。 |
| 大恩寺阿弥陀堂は平成6年(1993年)に焼失したが、棟札銘文は『牛窪密談記』(下記参考文献の2所収文献、169頁)の記述中にその写しが所載されている。 |
反今川派牧野貞成との訣別
| 弘治2年(1556年)には、実弟の牧野貞成(民部丞)が親今川派の保成と立場を異にして、織田氏に款みを通じる西条吉良系で当時西条城城主の吉良義昭に与同して今川氏に反抗。 |
| しかし乱は今川軍にほどなく鎮圧された。 |
| 東三河に退いた貞成は既に同年2月今川義元の布達で牛久保城主の地位を失っており、蟄居隠棲した。 |
| この事後処理として今川義元は同族の牧野成定を貞成の跡目として牛久保城に入れ、この成定は惣領・牧野保成の意向に従って今川方として行動を共にしてゆく。 |
徳川家康の進攻に抗戦
| 永禄4年(1561年)4月には徳川家康が今川氏に反旗を翻し牛久保城を急襲すると、牧野保成はただちに今川氏の命により家康に与した国人・西郷正勝の本拠地八名郡中山(現・豊橋市)を攻撃したが撃退された。 |
| 以後、牧野保成は甥の成定と共に今川方の先鋒として徳川軍の進攻を迎え撃ち、戦いを繰り返した。 |
| しかし、永禄5年2月の一宮砦(豊川市一宮町)攻防戦で遠征部隊を引率した今川氏真と徳川家康が直接対決し、氏真が完敗。 |
| その後、野田城が奪回され、同年9月29日の御油東岡合戦(御油片坂合戦とも呼ぶ)とこれに引き続いた「八幡・佐脇合戦」ではまた家康自身の出馬により、駐留今川軍も惨敗した。 |
| それ以後、牧野保成は苦戦となる。 |
| なお、保成の関連した戦いは以下の通り。 |
| #「中山の戦い」;永禄4年上記。 |
| 「堂山の戦い」とも呼ぶ。 |
| #「高城砦の戦い」;永禄4年。 |
| 中山の戦いに連動した戦い。 |
| 西郷領の同砦は中山の後背山地にあり、菅沼定盈・西郷勝茂(孫七郎、西郷正勝3男)が守っていたが、陥落し西郷勝茂は戦死した。 |
| #「御油東岡合戦」;永禄5年9月、上記のとおり家康出馬により敗北。 |
| #「牛久保城外の戦い」;永禄6年3月。 |
| 牛久保城外12-13町(距離;約1.3-1.4km)まで出張して徳川軍と激戦(上記文献)。 |
| これら合戦の関連項目→牧野成定にある。 |
諸説ある保成の最期
| 翌永禄6年(1563年)3月の「牛久保城外の戦い」では大剛の勇士とされた保成も重傷を負った。 |
| この時の相手は徳川方の将・松井忠次であったともいう『牛窪密談記』による。 |
| 但し宝飯郡八幡三片城という異説あり。 |
| この頃より保成の事績を示す同時代文書や記録も無く、近世初期成立の『牛窪記』は負傷後、その場で自害と記し、同じく近世初期の『牛窪密談記』では暫く後に自害ともいう。 |
| あるいはその負傷がもとでその年にそのまま死去したとする説もある。 |
| また、同士討ちによる戦死という宮嶋記のような異説も存在し、保成の死去の有り様は混沌としている。 |
家族
| 父は牧野成種(出羽守)。 |
| 子は嫡男・成元(しげもと、田三郎、のち出羽守か)。 |
| ほかに成真(しげざね、通称・出羽守、あるいは成元の子か)、内記某(伝不詳)、雲翁上人(浄土宗西山派の学頭と云う)。 |
| また、妹として奥平貞能飛弾守。 |
| ただし奥平氏側では美作守と伝えているの室があり、その間に奥平信昌が生まれた。 |
| 「奥平松平系図」では牧野成種女(すなわち保成妹)とされるが、この女性について保成の娘説もある。 |
| 実弟に牧野貞成(民部丞・右馬允・新二郎、牛久保城主第二代)。 |
| 甥に牧野成定(右馬允・新次郎、牛久保城主、一説に別名を成守)。 |
葬地・法名
| 葬地は不明(一説に大聖寺付近、牛窪記では「城外閑カナル処ニ卵塔(卵塔婆)」を作って密葬したと云う)。 |
| 法名・明誉信惣居士、新潟県の弥彦神社の旧五所宮に長岡藩牧野家によって、同名で神霊を祀られていた。 |
| 牧野氏では、保成の死後、その鎮魂に腐心した様子が伺える。 |
| 越後長岡藩主・牧野忠辰が、五所宮を創建し、牧野出羽守保成等の霊を祀った。 |
| 保成・怨霊の鎮魂であったとも云われている。 |
保成は牧野平三郎系
| 牧野氏系図によれば牧野平三郎系の牧野成興(平三郎、生年不詳-文明8年(1476年))の嫡子牧野忠高(右京進)の養子に牧野成種・成勝兄弟があり、保成は成種の嫡子であるとされる。 |
| しかし、田三郎という通称から、今橋城主・牧野古白の直系子孫とする説もある。 |
保成以前の牧野出羽守
| 「今川記」に寛正6年(1465年)に三河国額田郡にて牢人大場・丸山等(もと東条吉良家人、あるいは幕府御家人とも)の一揆鎮圧を室町幕府より命ぜられた人物として牧野出羽守の名がある。 |
| この出羽守は時代的には保成の父・成種または祖父の事と考えられる。 |
応仁の乱の影響と牧野田蔵系の台頭
| もと三河守護職家の一色義直に仕えた牧野平三郎成興の子・忠高(右京進)には実子が無かったらしく、これを養子として継いだのが成種であったが、牧野城・瀬木城・今橋城と築城し守護一色氏の郡代一色時家の被官から自立への道を歩む牧野田蔵系に比して、応仁の乱に敗れた西軍一色義直の直臣であった牧野平三郎系を引きついだ出羽守一族は保成のころには守護家一色氏の後ろ盾もなく、その東三河における立場は微妙であったと思われる。 |
参考文献
| #長岡郷土史研究会編 『長岡郷土史第23号』 長岡郷土史研究会、1985年。 |
| #久曽神昇・近藤恒次編『近世三河地方文献集』、国書刊行会、1980年、(愛知県宝飯地方史編纂委員会昭和34年刊の複製)。 |
| #小和田哲男 『今川義元のすべて』新人物往来社1994年、ISBN4-404-02097-XC0021。 |
| #堀田正敦等編『新訂寛政重修諸家譜第十一』 続群書類従完成会、1965年。 |
| #永原慶二編 『大名領国を歩く』 吉川弘文館、1993年。 |
| #豊橋市史編集委員会編『豊橋市史第1巻-原始・古代・中世編』、1973年、豊橋市。 |
| #鈴木眞年『牧野家系図』 牧野文庫、1876年。 |
| (越後長岡藩主の系図、伝来の古系図類を牧野家の依頼により鈴木眞年が明治9年(1876年)に華族会館提出用にまとめ新訂したもの、長岡市中央図書館所蔵)。 |
| #『長岡懐旧雑誌』 <長岡市史双書No.35> 長岡市、1996年。 |
| #今泉省三著、『長岡の歴史第1巻』、野島出版、1968年。 |
| #『豊川市史第6巻-中世近世史料編』 豊川市、1975年。 |
| #稲川明雄 「牧野氏物語(一)-東三河領袖牧野党の波乱」 『互尊文芸第9号』 互尊文芸短歌作品集発行所、1984年。 |
| #早川彦右衛門編著・近藤恒次補訂編『新訂三河国宝飯郡誌』、国書刊行会、1980年、(愛知県宝飯地方史編纂委員会昭和35年刊の複製)。 |
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三河国額田郡にて牢人大場・丸山等(もと東条... |
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1553年
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御津(豊川市御津町)の大恩寺阿弥陀堂の棟札... |
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