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今川氏親
今川氏親(いまがわうじちか)は戦国時代の武将・守護大名・戦国大名である。足利氏の一門・吉良氏の庶流である駿河今川家7代当主。駿河守護。父は今川義忠。... |
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一色時家
一色時家(いっしきときいえ、生年不詳-文明9年(1477年))は室町時代の武将である。一色長兼か一色直兼の子。刑部少輔。一色持家と同一人物か。 |
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池田輝政
戦国時代末期から江戸時代初期にかけての武将・大名。美濃国池尻城主、同国大垣城主、同岐阜城主、三河国吉田城主を経て播磨国姫路藩主。姫路城を現在残る姿... |
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牧野成時
下総国関宿藩の嫡子。徳川綱吉の側近として活躍した牧野成貞の養子。正室は牧野安。 |
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波多野全慶
秦野全慶になっている。一色時家の被官になったが、文明9年(1477年)に応仁の乱末に西軍であった時家を討つ。享徳の乱の和睦の都鄙合体(とひがったい)の10... |
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今川義元
戦国時代の武将、駿河国の守護大名・戦国大名。足利氏の傍流吉良氏の分家に当たる今川氏の出身で、駿河今川家第9代当主。父は第7代当主・今川氏親、母は父の... |
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松平清康
戦国時代の武将。通称は二郎三郎。また世良田姓を称す。三河松平氏の第7代当主。第6代当主・松平信忠の子で松平広忠の父、徳川家康の祖父。三河国安祥城城主... |
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松平長親
室町時代後期から戦国時代初期にかけての武将。松平氏の第5代当主。松平親忠の三男。または長忠・忠次とも。幼名は次郎三郎。竹千代。官位は従五位下。通称(... |
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牧野成定
三河国宝飯郡牛久保城の城主。牛久保城主牧野貞成(右馬允・民部丞)の養子となり、牛久保城主を継ぐ。牧野保成(出羽守)の義理の甥。実は牧野氏成(新九郎... |
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牧野信成
牧野信成 (まきののぶしげ) 生没年 :1578〜1650年
身分 :武蔵足立郡石戸5千石の領主
官位(通称、号) :豊前守 信成がいた群馬県高崎市高松町にあ... |
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牧野成勝
東三河地方の戦国時代の武将・国人領主。三河国牛久保城(愛知県豊川市牛久保町)主。子孫は長岡藩主の家系に連なる。通称・民部丞、右馬允。 |
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牧野保成
牧野保成(まきのやすしげ、?-永禄6年(1563年)3月)は戦国時代の東三河地方の武将・国人領主。また、牛窪城主。通称は出羽守、田三郎。牧野成種の子。天文... |
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酒井忠次
戦国時代から安土桃山時代にかけての三河の武将。徳川氏の家臣。徳川四天王・徳川十六神将ともに筆頭とされ、家康第一の功臣として称えられている。 |
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高嶋政伸
日本の俳優である。身長180cm。血液型B型。__TOC__ |
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宮尾すすむ
日本のタレント。本名は山口進(やまぐちすすむ)。 |
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牧野忠成
牧野忠成(まきのただなり、天正9年(1581年) - 承応3年12月16日 (旧暦) 12月16日(1655年1月23日)は江戸時代の大名。越後長岡藩初代藩主。大胡城主牧野康... |
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戸田宗光
室町時代中期の武将。入道名は全久(ぜんきゅう)。応仁の乱では西軍として活動する一方で三河・尾張に勢力を拡大、戸田氏中興の祖とされる。 |
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黒川鮎美
黒川 鮎美 - Wikipedia 黒川 鮎美 (くろかわ あゆみ・1985年4月5日-)は株式会社ソシオ(渋谷区恵比寿南2-19-7)に所属する京都府出身のタレント、歌手、モデルテ... |
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牧野康成
江戸時代 の 大名 。 越後 与板藩 主。 越後長岡藩 分家牧野家初代。 越後長岡藩主 牧野忠成 の次男。母は永原道真の娘。官位は従五位下、 遠江 守。初名は... |
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牧野修
日本の作家、SF作家。大阪府生まれ。大阪芸術大学芸術学部映像計画学科卒。別名義に亜羅叉の沙、牧野猫、牧野ねこ、牧野みちこがある。同じく作家の小林泰三... |
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プロフィール
- 牧野古白とは
- 生涯
- 一色時家と波多野時政、そして一色城主へ
- 今橋城築城と攻防
- 牧野古白の葬地
- 徳川幕臣牧野氏
- 近世大名、織田家用人の牧野氏
- 岡山藩上級家臣牧野氏
- 牧野古白と、近世大名牧野氏
- 参考文献
- 関連項目
牧野古白(まきのこはく、生年不詳-永正3年(1506年))は、三河牧野氏の武将。俗名は成時(しげとき)であり、法名である古白は古伯とも書く。利成とする文書もあるが一般的ではない。子は信成、三成、信高、能成。
生涯
| 三河国宝飯郡牧野城(愛知県豊川市牧野町)主牧野成富の惣領。 |
| 同国宝飯郡真木村(後に瀬木村に改称)の瀬木城に拠点を移し発展、東三河地方の国人領主となる。 |
| 同郡長山一色城主の一色時家の被官であったとされる。 |
| 同じく一色時家の被官ながら、下克上した波多野全慶(俗名は時政)を誅した後に、一色城(豊川市牛久保町)主となり、戦国大名今川氏に服属。 |
| やがて隣接する渥美郡に進出して、永正2年(1505年)には今橋城(後の三河国吉田城)(愛知県豊橋市今橋町)を築城した。 |
| 先祖は四国真木郷から渡来して、三河に漂着して牟呂八幡宮(愛知県豊橋市)の神官であった人とも、また父の牧野成富の代に、室町将軍家からの要請で四国から渡来したともいわれている。 |
| この点については、三河牧野氏を参照のこと。 |
| 古白は連歌を通じて足利将軍家と交流があった。 |
一色時家と波多野時政、そして一色城主へ
| 古白の主君となった一色氏は、本貫の地が三河国吉良荘一色(現、西尾市)で、征夷大将軍の足利氏の庶流となる血統の名門であった。 |
| 古白(俗名、成時)の主君一色時家は、関東公方足利持氏に仕えていた一色持家と同一人物とも言う。 |
| 持氏は関東管領の上杉憲実に兵を向けた。 |
| 関東管領上杉憲実は京の幕府に救いを求め、この願いに応じた第六代の征夷大将軍足利義教は持氏討伐の兵を挙げた。 |
| 結果、関東公方足利持氏は敗北し、相模国鎌倉(神奈川県鎌倉市)で自害した{永享11年(1439年)}(永享の乱)。 |
| この残党狩りがすさまじく、家臣一色時家は同族の三河国守護一色義貫(他国の守護も兼任)のいる三河国へ逃れた。 |
| ところが、この後も残党狩りは続き、時家をかくまった一色義貫は征夷大将軍足利義教の追討を受け、大和国信貴山(奈良県)の竜門寺で自害して果てた{永享12年(1440年)}。 |
| 墓所は吉田山龍拈寺。 |
| 戒名は月譽古白大禅定門。 |
| これを遡る永享11年(1439年)、三河国に新天地を得た一色時家は三河国宝飯郡中条郷長山村(常荒、常寒、常左府。 |
| 現在の愛知県豊川市牛久保町)に一色城(牛窪古城)を築城した。 |
| 時家は三河国東部で勢力拡大を図り、牧野成時(後に出家し古白入道)は時家に服属した。 |
| 応仁の乱の終結の年の文明9年(1477年)、西軍(既に山名宗全入道は没していた)に属する一色時家は大沢城(同県同市御津町豊沢)主で東軍に呼応した家臣波多野時政(全慶)に殺害された。 |
| 一方、関八州における応仁の乱と言える享徳の乱は1483年1月(文明14年11月)に、山城国葛野郡の京の征夷大将軍足利義尚側と、持氏の子である下総国葛飾郡古河御所(茨城県古河市)の古河公方の足利成氏との間に和議がなり(都鄙合体、とひがったい)、持氏・成氏の関東公方としての名誉回復が成った。 |
| 明応2年(1493年)12月、一色家に背いたことが仇となり都鄙合体以降に正統性が揺らぎ出した波多野時政(全慶)を元一色時家被官の牧野古白は、灰塚野(異に灰塚原とも)合戦で討った。 |
| 古白の勝利により、彼は、瀬木城主から、一色城主となった。 |
| 牛窪密談記によると、一色城入城の時、窪地の寝牛が通行を阻害していたが彼を前にこの牛は起き上がり道を開けたと言う。 |
| そして近くに牛頭天王社が有った。 |
| これを一同は牧野古白が国主となる瑞兆と慶び、彼は一色城の辺りの地名であった常荒(とこさぶ)を牛窪(うしくぼ)に改めたと言う。 |
| 合戦が行われた場所の現住所については、断定されていないが、豊川市御津町金野にかつて存在した灰野村か、あるいは豊川市牛久保町焼野に比定されている。 |
今橋城築城と攻防
| 永正2年(1505年)、今川氏親は西三河の松平氏をおさえるため、一色城の牧野古白の牧野氏のほか、真木氏、岩瀬氏、能勢氏、稲垣氏、山本氏等に、豊川・朝倉川合流地点の南岸(現、豊橋市今橋町)に今橋城(現在の豊橋公園に当たる)を築かせた。 |
| 彼らはのちに牛久保六騎となった。 |
| もっとも古白の今橋牧野家の寄騎を石田氏・吉田氏・渡辺氏・能勢氏・石黒氏等とする説もあり、渡辺氏・能勢氏・石黒氏の末裔は、近世大名となった牧野氏の家臣団に残ったものと思われる。 |
| 当時の今橋城の本丸は、現在の城内の奮藩祖豊城(とよき)神社の辺り(吉田城金柑丸)であったとされる。 |
| 城の大手門は東側であり、1km半ほど先に有る二連木城へ向いていた。 |
| 宝飯郡に拠点を持つ古白の築城目的のひとつは、もとは京の幕府政所執事伊勢貞親の被官で三河国守護細川成之の要請を受けて額田郡牢人一揆を鎮圧した後に渥美郡統一をして着々と勢力拡大する二連木城主戸田宗光(全久)と対峙(たいじ)することで有ったかも知れぬ。 |
| 応仁の乱では古白の主君一色時家は山名宗全入道の西軍であった。 |
| 戸田宗光(全久)は郡代一色政照が西軍であったものの、縁の有る三河国全部の守護大名細川成之は細川勝元の東軍であったことも、牧野古白入道と戸田全久入道の対立を助長したであろう。 |
| 牧野古白は、そのまま初代城主となる。 |
| しかし翌永正3年(1506年)には、今川氏親と戸田氏によって今橋城を攻められ、古白は討死(自害とも)。 |
| 戦後の今橋城には、戸田宣成が入る(今橋合戦)。 |
| なお、この時に今橋城を攻めたのは松平長親であるという異説もある下記参考文献の1の44頁、「寛政重修諸家譜巻第三百六十二・田口/牧野」の古白の項。 |
牧野古白の葬地
| 愛知県豊橋市新吉町の吉田山龍拈寺(りゅうねんじ)。 |
| 古白の子、信成(徳川の世で藩主となった牧野信成とは別人)が亡父の菩提をとむらうため建立した寺。 |
| 同寺では11月3日を命日としている(諸説あり)。 |
徳川幕臣牧野氏
| 牧野古白の子孫は、子の信成が享禄2年(1529年)(異説有り、天文元年(1532年))に三河国岡崎城主松平清康の攻撃を受け、吉田城(信成が父古白築城の今橋城を改名)の対岸で城下町の一画を占める下地(しもじ、現・豊橋市下地町)を放火され、吉田城も落城して弟三成(成三という表記も有る)と共に討ち死にした。 |
| 城主信成の子は尾張国知多郡大野(現・愛知県常滑市大野町)に逃げた。 |
| その系統は織田氏・豊臣氏と主君を代え、関ヶ原の戦いで徳川方になり征夷大将軍徳川家の旗本になった。 |
| この牧野氏は本姓田口氏を名乗る。 |
近世大名、織田家用人の牧野氏
| 古白の末裔の一つに、織田氏家臣団に残った庶流の牧野氏があり、近世大名として僅かに名跡を残した芝村藩織田氏(織田有楽斎の系統)の用人に牧野姓が見える。 |
岡山藩上級家臣牧野氏
| 牧野古白の曾孫となる牧野宇右衛門は、慶長5年(1600)、池田輝政に召しだされて500石をたまわり、その家臣となった(詳細→牧野信成(今橋城主))。 |
| なお岡山藩士の牧野氏は、同姓者であっても、同族とは限らない。 |
| 岡山藩の上級家臣には、牧野姓の藩士が、3系統ある。 |
牧野古白と、近世大名牧野氏
| 越後長岡藩主牧野氏、信濃小諸藩主牧野氏、常陸笠間藩主牧野氏、越後三根山藩主牧野氏、丹後田辺藩主牧野氏などの近世大名牧野氏の遠祖が、牧野古白の一族に連なるとなることは、疑いがないが、これらの諸侯は、彼の直系子孫や、嫡流でないこともまた疑いがない。 |
| 牧野古白と近世大名牧野氏との系譜上の繋がりは、諸説があって確定したものは知られていない。 |
参考文献
| #堀田正敦等編『新訂寛政重修諸家譜第十一』 続群書類従完成会、1965年。 |
| #豊橋市史編集委員会編『豊橋市史第1巻-原始・古代・中世編』 豊橋市、1973年。 |
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1439年
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三河国に新天地を得た一色時家は三河国宝飯郡... |
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1477年
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西軍(既に山名宗全入道は没していた)に属す... |
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