| ファイル:TsuyoshiInukaifacingleft.jpg|thumb|180px|スーツ姿でくつろぐ犬養。 |
| 犬養は第2次山本内閣で文相兼逓信大臣を務めた後、第2次護憲運動の結果成立した加藤高明内閣(護憲三派内閣)においても、逓信相を務めた。 |
| しかし犬養は、ほどなくして小政党を率いることに限界を感じて革新倶楽部を立憲政友会に吸収させ、自身も政界から引退し、富士見高原の山荘に引きこもった。 |
| だが、世間は犬養の引退を許さず、岡山の支持者たちは勝手に犬養を立候補させ、衆議院選挙で当選させ続けた。 |
| さらに政友会総裁の田中義一が没すると後継総裁をめぐって鈴木喜三郎と床次竹二郎が激しく争い、党分裂の恐れが出た。 |
| 党内の融和派が犬養担ぎ出しに動き、嫌がる犬養を強引に説得した。 |
| 1929年(昭和4年)10月、犬養は大政党・立憲政友会の総裁に選ばれた。 |
| 1930年(昭和6年)、ロンドン海軍軍縮条約に統帥権干犯を絡めて、鳩山一郎とともに政府を攻撃した。 |
| これは軍部に統帥権を武器として使えることを教え、自らの死につながった。 |
| 同年に勃発した満州事変を巡って第2次若槻内閣閣内不統一に陥り、総辞職した。 |
| この頃は内閣が行き詰まって政権を投げ出したときは、野党第1党に政権を譲るという「憲政の常道」のルールが確立されていた。 |
| その上、元老・西園寺公望は犬養が満州事変を中華民国との話し合いで解決したいとの意欲を持つことを評価して、昭和天皇に野党・政友会総裁の犬養を推薦したのである。 |
| この時、犬養は数え年で77歳。 |
| 新聞は白髪を黒く染めて戦った源平期の老武将・斎藤実盛になぞらえ「昭和の実盛」と書いた。 |
| 犬養は組閣の大命が下ると直ちに解散・総選挙を断行し、政友会の議席を大きく伸ばした。 |
| これによりまず国民の支持を取り付けた上で、高橋是清を蔵相に起用して経済不況の打開と取り組んだ。 |
| 高橋は金輸出再禁止と兌換停止を断行、同時に積極財政へと転換を図った。 |
| これで日本経済は徐々に回復の方向に向かった。 |
| しかし、もう1つの課題の満州事変の処理は難物だった。 |
| 犬養は満州国の承認を迫る軍部の要求を拒否し、中国国民党との間の独自のパイプを使って外交交渉で解決しようとした。 |
| 犬養の解決案は、満州国の形式的領有権は中国にあることを認めつつ、実質的には満州国を日本の経済的支配下に置くというものだった。 |
| かねて支援していた元記者の萱野長知を上海に送って、国民党幹部と非公式の折衝に当たらせた。 |
| しかし不幸なことに、対中国強硬派の森恪が内閣書記官長の職に居た。 |
| 森も若い頃は三井物産の社員として中国で働き、孫文の革命運動を支援したこともあったが、政界入りしてから右傾化し、軍内部の大陸権益拡張派や右翼との親交を深めていた。 |
| 森は犬養の推進する対中融和路線には不満で、辞表を提出して犬養を困らせていた。 |
| 犬養は秘密裡に交渉を進めていたが、交渉が煮詰まった段階で森の知るところとなり、森が萱野からの電報を握りつぶしてしまった。 |
| 中国が最終的に犬養案を飲んだかという疑問は残るが、成功の可能性のあった交渉は挫折してしまった。 |
| 犬養はまた、軍の青年将校の振舞いに深い憂慮を抱いていた。 |
| 陸軍の長老・上原勇作元帥に手紙を書き、この風潮を改められないか訴えた。 |
| また天皇に上奏して、問題の青年将校ら30人程度を免官させようと考えていた。 |
| 犬養はその考えを娘婿の外相・芳沢謙吉)と森に喋ったため、森を通じて陸軍に筒抜けとなり、軍は統帥権を侵害するものと憤激した。 |
| 何故森を書記官長に据えたかと聞かれたとき、犬養は「手放しておくと危険だから、手近に置いた」と答えたという。 |