| 現役時代、右腕の怪力は有名で、見た目でも右腕が太いのがはっきりわかったという。 |
| 酒席では、右掌の上に、その場に居る最も体重の重い芸者を乗せて、そのまま持ち上げるのを特技としたと言われる。 |
| また、右で前褌を取れば非常に強かった。 |
| 武藏山には2戦2勝、男女ノ川には4連勝(通算4勝4敗)と相性が良かった。 |
| 1939年(昭和14年)1月場所9日目に双葉山に勝つと、師匠であった玉錦の霊前に報告。 |
| 奇しくもこの翌日が玉錦の四十九日で、霊前報告の様子が写真撮影され、翌日の新聞に掲載されたという。 |
| 本人いわく、玉錦の夢を見たが、最後に玉錦を押し出した形がこの日双葉山に勝ったのと同じ形だったという(玉錦の霊前に手を合わせたのは報道陣に言われてそうしただけで、玉錦の夢なども見なかったと生前本人が語っていたという話もある)。 |
| 後に年月が過ぎれば過ぎるほどその勝ち星が信じられなくなり、当の双葉山に問いかけたところ、双葉は一言「儂、お前に負けたことあったっけ?」。 |
| それで玉ノ海は自分が本当に双葉に勝ったんだと確信したという。 |
| また同場所の11日目平幕で全勝を続ける出羽湊にいわば「止め男」として当てられるが、双葉の連勝ストップに乗じて天皇賜杯奪回の悲願を果たしたい出羽一門から、敗退行為を打診され、これを受ける。 |
| 後年、これを「わが生涯痛恨の一番」として明かしている。 |
| 出羽海の示した条件は翌場所の大関昇進だったというが、千秋楽後支度を整えて待つも、ついに昇進伝達の使者は訪れなかった。 |
| 当人の回顧では、大関になれずに終わったのは、その後同様の依頼は断り続けたためもあったという。 |
| 双葉山とは、初土俵・入幕こそ玉ノ海の方が遅いものの、同じ年齢であり、かつてともに玉錦に稽古をつけられた仲でもあり、親友であった。 |
| 解説を引き受けた頃に国技館で出会うと、どちらからともなく右四ツに組んだという。 |
| 本人はこれを友情の右四ツと呼んで後々まで大事にしていた。 |
| 時津風理事長になってからは、在外の視点で相撲制度の改革を進言し、部屋別総当たり制の導入などの実現に寄与した。 |
| また、八百長相撲の撲滅も進言したが、これは時津風の急死により実現しなかった。 |
| 双葉山が死去した時に思い出を書いた文章では、『角界からも一人位国会議員を出したほうがいいんじゃないか参議院議員に立候補しようと思うが。 |
| 』と相談したところ、『いやお前は解説を続けるべきだ。 |
| 』と言われ思い留まったという秘話を紹介した。 |
| 玉乃島が横綱になり玉の海と改めた際には、本人も師匠(玉乃海)も自分と同じ名ということもあり特に注目していた。 |
| また、1962年の片男波部屋の独立に際しての二所ノ関部屋のお家騒動の際には、先代二所ノ関として呼ばれ解決のために相談を受けたこともあった。 |
| 前述のとおり、解説者時代には、数々の印象に残るコメントを残している。 |
| 「稽古とは重い荷を背負って、下りのエスカレーターを登るが如し」と言う、現役時代の稽古の辛さを語った。 |
| 1963年(昭和38年)9月場所千秋楽の大鵬と柏戸の全勝決戦では「柏戸に勝たせたいねえ」とぽつり。 |
| 柏戸-海乃山戦では、横綱が下位力士と当たる時の心境を問われ、『そりゃいやですよ、負けて元々何をするかわからない、キチガイと一緒ですからね。 |
| 』と語った直後に、蹴手繰りで海乃山が柏戸を破った。 |
| 「貴ノ花の足腰にはもう一つの生命がある」と評し、押し相撲一本に徹した大受を評して「土の匂いのする力士」といった名セリフや、「大内山がでかいって、何しろ猫が靴の中に子供を産んでも誰も気がつかないんだから」などユーモアに富んだセリフも残した。 |
| 大相撲中継の解説者として功績で、放送功労賞を受賞した時には、その祝賀会で時津風から「自分と同じで無口だとばかり思っていたのに、しゃべる仕事で表彰されるとは驚いた」との祝辞を贈られた。 |