| 初平元年(190年)、諸侯連合による董卓討伐軍が起こされる。 |
| 王匡もこれに参加し、軍を河陽津に駐屯させ、董卓軍を攻撃しようと図った。 |
| しかし、董卓軍の巧みな挟撃を受けて王匡軍は大敗し、ほぼ全滅の損害を被った。 |
| 泰山へ逃げ帰った王匡は再び軍を集め、陳留太守張邈と合流しようと図る。 |
| その頃、董卓から和睦の使者として、王匡の娘婿に当たる執金吾胡母班が河内にやってくる。 |
| しかし王匡は、諸侯連合の指導者である袁紹の命を受けて、これをやむなく殺害した。 |
| このため後に、曹操と手を結んだ胡母班の遺族によって王匡は殺害されてしまう。 |
| ただし、その正確な時期は不明である。 |
| なお、董卓存命時に張楊が河内太守に任命されたとあるため、仮に太守在任中に王匡が殺されたとすれば、遅くとも初平3年(192年)までとなる。 |
| 王匡には、後に曹操配下として文武に亘り活躍する韓浩が従事として仕えており、董卓討伐戦以降、勇名を高めた。 |