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曹操が漢中に侵攻し張魯を下した際に恭順した異民族の指導者である杜濩・朴胡に伴い曹操に帰順し、校尉の位を与えられていたが、218年 - 219年の定軍山の戦いを含んだ一連の漢中攻防戦の際に蜀の劉備に降り、以後は蜀に仕えた(この時、牙門将・裨将軍に任命されている)。
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特に王平の名を高めたのは街亭の戦いで、王平は
諸葛亮から馬謖の軍の先鋒を命じられ、馬謖が山上に布陣しようとするのを諌めた。
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しかし馬謖は王平の諌めを聞き入れず、結果として魏軍に大敗を喫するが、王平の指揮する部隊が踏み留まって殿軍を務めたので、魏軍を率いていた張郃は伏兵の存在を疑って追撃の手を緩め、これにより蜀軍は全滅を免れることに成功した。
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馬謖およびその配下の武将はいずれも軍令違反で処罰されたが、王平だけはこの時の功績により、参軍・討寇将軍の地位を与えられている。
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231年、
諸葛亮が祁山に出陣した際、王平は
別働隊を率いて山の南を守備した。
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この時、
司馬懿が
諸葛亮の軍を、張郃が王平の軍を攻撃したが、王平は堅守して張郃軍を撃退している『漢晋春秋』によれば、
諸葛亮は魏延・呉班・高翔を派遣して、
司馬懿を撃退し、敵の首級を三千、鎧を五千、三千百の弩を獲得した。
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234年、
諸葛亮が五丈原で魏軍と対陣中に没すると、長史の楊儀は
諸葛亮の遺言に従い全軍撤退を命じた。
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ところが、かねてから楊儀と不仲であった魏延が撤退命令に従わず、楊儀討伐の兵を挙げるという事態が起きてしまった。
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この時、王平は楊儀の先鋒となり、魏延配下の兵士に向かって「公(
諸葛亮)が亡くなり、その身もまだ冷たくならないうちに、お前たちは何でこんな事をしようとするのか!」と一喝した(『蜀書』魏延伝)。
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魏延の兵士たちはこれを聴くと、魏延を見捨てて逃げ去ったため、楊儀は難なく魏延を討ち取ることに成功した。
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陳寿はこの時の戦いを、「一戦して(魏延を)破り、これを平らげたのは、王平の功績である」と称賛している。
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撤退後は後典軍・安漢将軍に昇進し、呉懿の副将として漢中に駐屯し、漢中太守を兼任した。
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237年に呉懿が死去すると、後任として漢中方面の守備を任され、安漢侯に封じられる。
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その後も、前監軍・鎮北
大将軍に昇進し、漢中の軍事・行政を一任された。
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244年、魏の
大将軍曹爽が、10万の大軍を率いて蜀に侵攻してきたが、王平は興勢山に出撃してこれを迎え撃ち、費禕の援軍が到着するまでの時間を稼ぎ、撃退することに成功した。
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このころ鄧芝と馬忠が、それぞれ蜀の東と南を防備していたが、王平の名声は彼らと並び称せられるほどであった。
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また、『華陽国志』によると、同郡の句扶や後任の
大将軍である張翼、廖化と並んで賞賛されていたとある。
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248年に病死し、嫡子の王訓が継いだ。
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陳寿は『蜀書』王平伝で「長らく軍旅にあったため文章が書けず、知っている字は10字に満たなかったが、口述筆記させた文章は道理に適っていた。
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『史記』・『漢書』を人に読んでもらってその大略をつかみ、論じては要旨を捉えていた。
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法律を忠実に履行し、戯言を口にせず、終日端座するという武将らしからぬ様子であった。
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(中略)忠勇にして厳整な人物であった」と評する「平生長戎旅、手不能書、其所識不過十字、而口授作書、皆有意理。
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使人讀史・漢諸紀傳、聽之、備知其大義、往往論説不失其指。
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遵履法度、言不戲謔、從朝至夕、端坐徹日、
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なお、中略部分につきノートも参照。
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小説『三国志演義』では、漢中攻防戦に際して、漢中の地理に詳しいことから曹操に郷導使に任命されるも、徐晃と仲違いして殺されかけたために劉備に降り、以後蜀の武将として仕えたことになっている。
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また南蛮戦(南征)でも活躍している。
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諸葛亮は臨終の時、忠義の士として廖化や馬岱らとともに王平の名前も挙げている。