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元帝
東晋の初代皇帝。河内郡温県の人。魏の司馬懿の曾孫に当たる。祖父は瑯邪武王司馬伷、父は瑯邪恭王司馬覲。生母は夏侯光姫(魏の夏侯淵の曾孫)。弟に東安王... |
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宣帝
前漢の第9代皇帝。初め民間に育ち、霍光に擁立されて皇帝に即位した。 |
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王莽
対立
新朝の皇帝。即位前の爵位は安漢公。『漢書』等に記されている「莽」の字の草冠の下の字は大ではなく犬である。前漢の元帝の皇后・王政君(孝元皇后)の甥で... |
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王舜
中国の前漢末期から新代にかけての政治家。冀州魏郡元城県の人。父は大司馬・安陽侯の王音。子は王延、王匡。王莽の従弟にあたり、王邑・王渉とも従兄弟である。 |
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王昭君
匈奴の呼韓邪単于、復株累若鞮単于の時代の閼氏(単于の妻)。姓を王、諱を嬙とも(出典は、班固『漢書』)。字を、昭君。日本では通常、王昭君と呼ばれるが... |
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中国の新代から後漢時代初期にかけての武将・政治家。涼州天水郡阿陽県の人。 |
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その眉目秀麗なる容姿から前漢哀帝の寵愛を受けた官人。哀帝の死後は権勢を失い自殺に追い込まれた。字は聖卿。 |
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光武帝
光武帝(こうぶてい、前6年-57年)は後漢王朝の初代皇帝。南陽蔡陽の人。王莽による簒奪後の新末後漢初に混乱を統一し、漢王朝の再興として後漢王朝を建てた... |
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劉邦
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陳平
中国秦末から前漢初期にかけての政治家・軍師。当初は魏咎・項羽などに仕官するものの長続きせず、最終的には劉邦に仕え、項羽との戦い(楚漢戦争)の中で危... |
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渦が巻くような、旋回するにつれ中心から遠ざかる(あるいは逆向きにたどれば近づく)曲線である。主に平面曲線であるが、曲面上にも定義できる。渦巻線(う... |
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陳寿
三国時代の蜀漢と西晋に仕えた官僚。字は承祚(しょうそ)。巴西郡安漢の人。俗説では、蜀漢の将であった陳式の末裔と言われているが根拠は無い。甥に陳符・... |
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蕭望之
前漢の政治家。字は長倩、東海郡蘭陵の人で後に杜陵に移る。 |
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孫夫人
三国時代の呉の公主。諱は不詳。孫堅の娘で孫策・孫権の妹。演義では母が呉国太となっているが、正史では母親は不明である。一般に孫尚香(そん しょうこう... |
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孫堅
中国後漢末期の武将。字は文台(ぶんたい)。呉郡富春県の人。三国時代に成立した呉の皇帝である孫権の父。廟号は始祖。諡は武烈皇帝。 |
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趙飛燕
王莽により宗室を乱したと断罪され皇太后から孝成皇后へ降格が行われ、更に庶人に落とされ間もなく自殺した。 |
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文帝
前漢第5代皇帝(恵帝の子とされる2人の少帝を除外し、第3代皇帝とする場合もある)。劉邦の庶子で、生母は薄氏。妻に竇氏がいる。 |
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プロフィール
- 王政君とは
- 皇后となる
- 皇太后として
- 王莽の台頭と晩年
- 関連項目
王政君(おうせいくん、紀元前71年-13年)は、前漢後期の人。 元帝(劉奭)の皇后で、 成帝(劉驁)の生母。孝元皇后(孝元 王皇后)、元后、孝元皇太后、孝元太皇太后と称される。 王莽の姑母にあたる。
皇后となる
| 魏郡元城県(現河北省邯鄲市大名県の東方)の人で、当時、皇太子であった元帝の寵愛を受け、成帝を産み、元帝の正妻となった後、宣帝の死に伴い、元帝が帝位に即くと、自身も皇后(孝元皇后)に冊立された。 |
| しかし、成帝の誕生には、次のような話も伝わっている。 |
| 当時、愛妾に先立たれていた劉奭は、そのショックで誰も女性を近づけなかった。 |
| この時、劉奭に子供はおらず、かねてから、彼の資質に不安を抱いていた宣帝はこれを機会に劉奭を廃嫡したい旨を内々に洩らし始めた。 |
| これを聞いて慌てた、劉奭の育ての母(元帝の生母・許氏は早くに没した)で皇后の王氏(王政君とは同姓の他人)及び劉奭の側近達は彼に早く子供を儲けることを求め、やむなく劉奭が寝所に呼んだのが王政君であった。 |
| 一度の関係で、王政君は劉驁を妊娠、出産した。 |
| 宣帝は孫の誕生を喜び、自分の手許で劉驁を育てることに決めた(ちなみに、劉驁の名付け親は宣帝であり、その字・太孫(嫡孫の意)も彼が名付けたものである。 |
| このことから、如何に宣帝がこの孫の誕生を喜んだかが伺えよう。 |
| これにより、劉奭の廃嫡話は立ち消えとなったが、以後、劉奭が王政君と関係を持つことはあまりなかった。 |
皇太后として
| 紀元前33年に元帝が没し、成帝が即位すると、王政君は皇太后(孝元皇太后)として、世上の尊敬を一身に集める立場となる。 |
| この頃から、彼女の兄弟や甥達が政治の中枢に関与することとなり、王氏一族は、わが世の春を迎える。 |
| ただ、王莽が政治に参与するようになるのは、もう少しあとのことである。 |
| 紀元前7年、成帝が急死し、元帝が愛妾・傅氏に産ませた、劉康(定陶恭王)の子・劉欣(哀帝)が即位すると、哀帝の外戚の傅氏(祖母の実家)と、丁氏(母の実家)が政治に関与するようになり、王氏一族は権力を削られ、太皇太后(孝元太皇太后)となった王政君もその影響力を弱めることとなる。 |
王莽の台頭と晩年
| 紀元前1年、哀帝が急死し、劉衎(平帝)が即位すると、王政君はその混乱に乗じ、太皇太后として、詔を出して、哀帝の外戚及び側近勢力を排除し、王莽を大司馬に任じ、輔政を命じた。 |
| しかし、この頃から、王莽は簒奪への動きを強め、瑞兆を理由に自らの権威強化を図るようになる。 |
| 王政君自身は、王莽が簒奪を行うことに反対で、寧ろ漢家の外戚として王氏が権力を握り続けることを願っていたらしく、王莽に尊号を贈ろうとする動きには、暗に反対の立場をとっている。 |
| 5年に、王莽と対立した結果、平帝が毒殺され、劉嬰(孺子嬰)が皇帝に擁立され、王莽が周の成王と周公旦の故事に倣い、仮皇帝(摂皇帝)を名乗り、さらに、8年に帝位に即くべく、当時、伝国璽を手許に保管していた王政君に伝国璽を自身に引き渡すように求めた時、王政君は激怒し、その使者の王舜をつかまえて、次のように王莽を罵ったと言う。 |
| 「お前は、誰のおかげで今の地位を得ることが出来たと思っているのか。 |
| 全ては漢の歴代の皇帝陛下のお情けによるものではないか。 |
| そのご恩を忘れて、漢家が衰えるとその地位を奪わんとするのは、いったいどういうつもりなのか。 |
| お前のような奴の食べ残しは犬でも食わぬだろう。 |
| こう言って、王政君は伝国璽を王舜に向けて投げつけ、泣き崩れたという。 |
| ちなみに、この時投げつけられた伝国璽は、一部が欠損したといわれる。 |
| 王莽が即位すると、王政君は「新室文母太皇太后」の尊号を贈られ、彼女のための住まいがもうけられた。 |
| そして、その住まいは、かつての元帝の廟を取り壊して造営された宮殿であった。 |
| ここで王政君のための宴会が開かれたが、「こんなことになってどうして宴会を楽しめようか。 |
| 」と、参加することはなかったという。 |
関連項目
| 献穆皇后(曹節)。 |
| 後漢王朝最後の皇帝、献帝室。 |
| 兄の曹丕が伝国璽を迫った際に激怒・叱咤した上に伝国璽を投げつけ涙を流した。 |
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