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プロフィール
- 王貞治とは
- 概要
- 少年時代
- 早実高等部時代
- 低迷期・1959年 - 1961年
- 転機の1962年 一本足打法
- 関連サイト
王貞治(おうさだはる、中国語拼音:WángZhēnzhì、1940年5月20日-)は、日本生まれ・中華民国籍の元プロ野球選手、監督。読売ジャイアンツの 主軸打者として積み上げた通算本塁打数868本は、メジャーリーグの ハンク・アーロンの755本を抜き、世界最高本塁打数記録である。その他数々の日本プロ野球記録を保持する。日本 国民栄誉賞の初受賞者。また、2010年文化功労者として顕彰される。現在は福岡ソフトバンクホークス球団取締役会長、読売巨人軍OB会会長、日本プロ野球名球会会長、東京都名誉都民並びに東京都墨田区名誉区民・目黒区名誉区民にして、 ...
概要
| 父・王仕福は中国人(中国(当時は中華民国)浙江省青田県出身)、母・王登美は日本人。 |
| 現役時代のニックネームは「ワンちゃん」。 |
| 「世界の本塁打王」、「世界の王」とも呼ばれる。 |
| 左投左打で内野手(一塁手)であった。 |
| 現役引退後は巨人で助監督と監督、その後解説者、ダイエー・ソフトバンクの監督を歴任した。 |
| 2008年シーズン終了と同時に福岡ソフトバンクホークス監督を退任し、同球団取締役最高顧問に就任。 |
| 2009年1月1日より取締役会長に昇進。 |
| 日本プロ野球組織(NPB)コミッショナー特別顧問。 |
| 巨人では入団から監督を退くまで背番号「1」を背に戦った。 |
| 背番号に関して同一人物による途切れ無しでの30年間使用は日本最長である。 |
| 1989年3月16日に巨人は1番を永久欠番に指定した。 |
| また、ダイエー・ソフトバンクでの監督時代の背番号89は、ホークスの永久欠番にするかどうかが検討されている。 |
| 第1回ワールド・ベースボール・クラシック日本代表の優勝監督でもあり、第2回大会では監督相談役を務める。 |
| ハンク・アーロンと共に世界少年野球大会を提唱し、大会を主催する世界少年野球推進財団の理事長を務める。 |
| 「ふるさと清掃運動会」実行委員長。 |
| 福岡市名誉市民(2004年12月16日選定)。 |
| 墨田区名誉区民(2010年1月1日選定)。 |
| 野球特別大使(2009年2月26日委嘱)。 |
| 叙勲は中華民国二等景星勲章(2009年2月05日受賞){{citenews。 |
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| 二女・王理恵はタレント。 |
少年時代
| 東京府東京市本所区(現・東京都墨田区)で中華民国籍(1922年来日)の王仕福、日本人(富山県氷見市出身)の登美(旧姓:當住)の二男として生まれる。 |
| 5月10日に二卵性双生児の弟として出生したが、戸籍上の出生日は5月20日である。 |
| 実際の出生日と戸籍上の出生日が異なる理由は諸説あり、取り上げられても泣かない程の未熟児であったため両親が出生届の提出を躊躇したという説と、家業の中華料理ラーメン店「五十番」が多忙のため出生届の提出が遅れたなどの説がある。 |
| なお、双子の姉・廣子(ひろこ)は1歳3か月で死亡した。 |
| 一方の貞治は「3つの歳まで立つことすらおぼつかなかった」と貞治本人が述べている。 |
| 太平洋戦争中の一時期、王一家は母親の旧姓「當住」を名乗っていたこともあったという。 |
| 後に師匠となる荒川博との出逢いは、区立本所中学時代、犬の散歩をしていた荒川が、通りがかった隅田公園今戸グラウンドで王が出ていた野球の試合を眺めていたというものである。 |
| 試合を観ていた荒川は、当時右打ちだった王に対して「なぜ君は左で投げるのに右で打つんだ?」と質問すると、「それは、オヤジから箸と鉛筆と算盤は右でやれと言われているので、バットも右で持たないと親父に文句言われると思って…」と言った。 |
| それを聞いて荒川は「今の野球は左利きの選手に希少価値があるのに、君はわざわざ右で打つなんてもったいない話だ…」と言った。 |
| それを聞いた王はすぐに左打ちを実践したところ二塁打を打ち、以後左で打つようになった。 |
| 荒川はその時の王の印象を「なんて素直な少年なんだと思った。 |
| 普通は試合中に右打ちから左打ちに変えるなんて人に言われたってしない。 |
| それをスパッとやってしまうのはすごい」と語っている。 |
| また、この出逢いの時から王は身長176cmと当時の若者としては長身だった王の素質を認めた荒川は「君は今何年生だ?」と聞き、王が「2年生です」と答えたのを受けて、荒川は高校生と勘違いし、「そうか、じゃあ早稲田大学(荒川の出身校)はどうかな?」と勧めたところ、「はい、そうなるといいのですが、その前に高校に行かないと」と王が答えたため、荒川は「2年生というのは中学生なのか」と驚いたと言う。 |
| 小学生の頃、当時の横綱・吉葉山から「相撲取りになりなさい」と勧められるほど相撲が強かった。 |
| そして本所中学校では陸上部と卓球部に在籍したことがある。 |
| 野球部にも在籍していたが、グラウンドが使えなかったために休部同然の状態であった。 |
| 父・仕福は長男・鐵城を医師に、二男・貞治を電気技師にして、兄弟ともに母国に戻り働いてもらいたいと考えていた。 |
| だが第一志望だった都立墨田川高校に落ち、荒川の母校である早稲田実業学校高等部商業科に進学することになった。 |
| 当時、墨田川高校には硬式野球部がなく、後に王はこの受験失敗を「人生の大きな分岐点の1つ」と語っている「高校野球 熱闘の世紀」ザ・ベスト。 |
早実高等部時代
| 早実高等部時代は、1年生の時に外野手兼控え投手としてチームの夏の甲子園出場。 |
| 2回戦では1年生ながら先発登板を果たしたが、強豪・岐阜商業高校相手に1-8と敗れている。 |
| 1年秋よりエース。 |
| 久保田高行総監督・宮井勝成監督の指導のもと、ノーワインドアップ投法を身に着け、投球に安定感が増した。 |
| 春の甲子園で準決勝まで3試合連続完封。 |
| 高知商業高校と対戦した決勝戦では8回に3点を奪われ4試合連続完封を逃したものの、5-3で完投勝利し、優勝。 |
| 関東に初めて選抜優勝旗をもたらし人気を集めた。 |
| 2年夏の甲子園では2回戦の寝屋川高校戦で延長11回を完投しノーヒットノーランを達成。 |
| 延長戦でのノーヒットノーラン達成は、甲子園では春夏を通じて唯一の記録である。 |
| 高2の年、早実は国体の硬式野球高校部門に選出されたが、王は当時の国籍規定(王は台湾国籍)のため出場できなかった(なお、現在はこの国籍規定は撤廃されている)。 |
| 王は自著「回想」では「生涯最も悔しかったこと」と語っているが、後年のインタビューでは「高校球児は甲子園こそ目標で、国体にはそこまでのモチベーションはなかった。 |
| 3年生時の選抜大会では打者としても活躍、30年ぶりとなる2試合連続本塁打を放ったなお、当時の甲子園球場はラッキーゾーンはあったが、高校野球も木製バットを使用していた。 |
| 金属バットの使用が認められるのは1974年からである。 |
| 3年夏は、東京都予選の決勝戦で明治高校と対戦、1-1で迎えた延長12回表に4点を奪いながらその裏に5点を奪われて逆転サヨナラ負けを喫し5季連続の甲子園出場は果たせなかった。 |
| プロ野球の各チームが熱心に誘ったが、特に熱心だったのが巨人と王に縁の深い甲子園を本拠地とする大阪タイガース(阪神)だった。 |
低迷期・1959年 - 1961年
| 当初は投手として入団したが、監督の水原茂に「王、お前はピッチャーとして大成しない」と言われ、すぐに一塁手に転向した。 |
| 当時エースの藤田元司は王の印象として、「甲子園で活躍するなど高校時代に頑張りすぎたのか、僕が見る限り投手としての王君はくたびれていましたね」と語った。 |
| オープン戦で5本塁打を放つなど順調にシーズンを迎え、4月11日に国鉄スワローズとの開幕戦では高卒新人ながら7番・一塁で先発出場を果たした。 |
転機の1962年 一本足打法
| 荒川就任は、読売新聞の関係者が広岡達朗を介して、川上に荒川を推薦したもの『野球小僧』白夜書房、2009年4月号、p203であり、川上は榎本喜八を育てた荒川の打撃コーチとしての手腕に王を託した。 |
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1940年
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大食漢として知られる。子供の頃はおやつ代わ... |
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1957年
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日大三高から阪神入りした並木輝男外野手、小... |
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