| 引退後、年寄白玉を襲名したが、僅か10日後に師匠が死去したため、師匠代理の後、1974年7月場所中に佐渡ヶ嶽を襲名して佐渡ヶ嶽部屋を継承した。 |
| このため番付面では〈白玉〉の記録は残らなかった。 |
| 現役時代から内弟子を集めており、大関では琴風(現尾車)・琴欧州(現・琴欧洲)・琴光喜の3人、関脇では琴ヶ梅・琴富士・琴錦(2代目)(現秀ノ山)・琴ノ若(現佐渡ヶ嶽)の4人、小結では琴稲妻(現粂川)らをはじめ、合計22人の関取を育てた。 |
| 幕内優勝力士は羽黒山の立浪親方、大ノ海の花籠親方、初代若乃花・貴ノ花の兄弟2代の二子山親方と並んで、4人(琴風・琴富士・琴錦・琴光喜)を輩出した。 |
| 佐渡ヶ嶽部屋は1990年代初頭には幕内力士7人を擁し「七琴」「佐渡ヶ嶽軍団」と呼ばれ、幕内の最大勢力だったこともある。 |
| 稽古自体は非常に厳しかったが気配りが良く、だからこそ弟子が付いていけた。 |
| 50歳を過ぎてからも自ら廻しを締めて胸を出す等指導熱心で解説の際には思わず声が出てしまうほどであった。 |
| 真面目で誠実な人柄、スカウト熱心で知られ後援会組織を全国に持っていた事もあるがいかなる僻地へも最終的には自らが足を運び説得した。 |
| 時には相手方が固辞している場合でも半ば強引に口説き落とす事もあったといわれている。 |
| また「元横綱の私より足が大きいからこの子は大物になれる。 |
| 」「お前なら数年で関取になれる。 |
| 」等半ばはったりのような口説き文句で口説き落とす事も多かったという。 |
| 日本相撲協会内では、1992年から6期12年理事として審判部長、名古屋場所部長を歴任、北の湖理事長1期目には協会No.2の事業部長の要職に就いた。 |
| 大相撲放送の解説を務めることも多かった。 |
| 審判部副部長時代には1986年5月場所8日目の関脇小錦-大関北尾戦で、VTRでは北尾の足が先に俵を割り込んでいるように見えたにもかかわらず、同体取り直しの裁決を行い、その取り直しの一番で、小錦が鯖折りを喰らい致命的な負傷を負ったため後に議論を呼んだ。 |
| 1996年には弟子の琴ノ若(当時の四股名は「琴の若」)を婿養子として迎え入れた。 |
| 2000年11月26日に還暦を無事に迎えたものの、還暦土俵入りは行われず、赤い綱を受け取るのみであった。 |
| 2004年、糖尿病を患い、それに伴う壊疽を発症し、左足を足首から切断する手術を受けた。 |
| そのため、彼の晩年は杖をつきながら義足での歩行を余儀なくされた。 |
| 10ヶ月の入院生活を経て、2005年2月に退院。 |
| 手術の際には弱っていた心臓が止まったこともあった。 |
| 2007年の6月にも再度心筋梗塞の手術を受けており、入退院を繰り返していた。 |
| 2005年11月場所中の11月25日を最後に、協会の事実上の停年退職を迎えた。 |
| 千秋楽までは協会に残ることができたが、部屋持ちの親方が退職するとその部屋の力士が出場できなくなるので、同日に引退した娘婿の琴ノ若に年寄・佐渡ヶ嶽を譲り、奇しくも2代続けての本場所途中の部屋継承劇となった。 |
| 琴風に続く大関がなかなか育たなかったのが悩みであったが、その相撲協会退職直後に琴欧州(当時)が大関昇進を決め、喜びのコメントが紹介された。 |
| なお、場所後行なわれた琴欧州の大関昇進伝達式では日本相撲協会の計らいにより、現・佐渡ヶ嶽親方(元琴ノ若)夫妻と共に同席が認められた。 |
| さらには、2007年7月場所後にも琴光喜が苦労の末、大関昇進を果たした。 |
| 2007年7月25日、琴光喜の大関昇進伝達式では、後ろの方で椅子に座りながらその光景を見届けている。 |
| 「自分が大関になった時より嬉しい」と目を潤ませながらコメントを述べたが、これが結果的に生涯最後の大仕事となった。 |
| 琴光喜の大関昇進決定から、わずか20日後の2007年8月14日午後6時19分、敗血症による多臓器不全のため、千葉県松戸市の千葉西総合病院で死去した。 |
| 亡くなる直前、サッカー問題で謹慎処分を受けていた横綱朝青龍を気に掛けており、朝青龍に対して「土俵に戻って欲しい」とのメッセージを遺していた。 |
| 佐渡ヶ嶽部屋としての葬儀が、2007年8月21日に執り行われた。 |
| 母校の鳥取県倉吉市、倉吉市立成徳小学校前の、車道を挟んだ広場には、1977年4月に顕彰碑が、1999年4月には土俵入り姿の銅像が建立されている。 |