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プロフィール
- 田中清玄とは
- 祖先
- 少年期
- 共産党闘士時代
- 転向
- 龍沢寺と終戦工作
- 天皇への進言
- 実業家時代
- 全学連への資金提供
- 背景
- オットー大公とハイエクとの親交
- インドネシア
- アブダビの海上油田開発
- 北海油田
- 発言
- 田中清玄関連の映画・オリジナルビデオ
- 関連サイト
田中清玄(たなかきよはる、明治39年(1906年)3月5日-平成5年(1993年)12月10日)は日本の実業家、政治活動家、 CIAエージェント、フィクサーともいわれる。「せいげん」とも通称された。戦前期の非合法時代の 日本共産党(第二次共産党)中央委員長。転向後は右翼活動家となり、戦後は実業家として三幸建設社長、光祥建設株式会社社長をつとめる。ロイズ保険の会員でもあり、日本人でロイズの会員になれたのは、 田中清玄と 南方哲也(元長崎県立大教授。 南方熊楠の大甥)のみと言われている。モンペルラン・ソサイエテ ...
祖先
| 祖先は田中土佐として知られる会津藩家老田中玄清(はるきよ)。 |
| 玄清は会津藩主松平容保が京都に赴いたときに従い、警備のための市中見廻り組をつくった(のちの新選組の母体となる)。 |
| 家老田中土佐の下に蝦夷地常詰若年寄の田中玄純(はるずみ)がおり、その子が田中源之進(玄直はるなお)。 |
| おなじく会津藩若年寄だった田中源之進は会津戦争の母成峠の戦いで大鳥圭介とともに砲兵隊長として指揮を執る。 |
| 廃藩置県後は、函館市相生町七飯(ななえ)村に移り、開拓使の畑や実験農場をつくっていた。 |
| 田中清玄の曾祖父にあたる。 |
少年期
| 1906年(明治39年)3月5日、北海道亀田郡七飯村(現七飯町)で出生。 |
| 清玄は後年も会津の血を引いていることを誇りにしていた。 |
| 1919年(大正8年)4月、旧制函館中学に入学。 |
| 亀井勝一郎や今日出海や大野一雄とは同級生だった。 |
| 上級生には「丹下左膳」を書いた長谷川海太郎やその弟の長谷川四郎、海太郎の従兄弟の久生十蘭がいた。 |
| 1924年(大正13年)4月、旧制弘前高校入学。 |
| 翌1925年(大正14年、小樽高商軍事教練を廃止をめぐる小樽高商軍教事件が起きた |
| 田中清玄は弘前で廃止を訴えるビラをまき、最初の政治活動を経験。 |
| このあと、仙台にある東北帝国大学の島木健作・玉城肇・鈴木安蔵を中心に東北学連がつくられ、水戸高の宇都宮徳馬・水田三喜男、二高から島野武・高野信、山形高から亀井勝一郎らが集まった。 |
| 清玄は島野武や宇都宮徳馬と親しくする。 |
| 宇都宮はのちにミノファーゲン製薬を創業、衆議院議員、参議院議員をつとめた。 |
| 田中は後年、「宇都宮は事業的にも思想的にも天才で、ずいぶん厄介になった。 |
| 親父は宇都宮太郎という陸軍大将で、親父の副官がしょっちゅう来ているから情報が入るんだ。 |
| 日中友好協会なんかは彼のお陰です」と回想している。 |
| また、田中はその後、青森県津軽の車力村という農村で車力農民組合を淡谷悠蔵淡谷は淡谷のり子の叔父。 |
共産党闘士時代
| 1927年(昭和2年)4月、東京帝国大学入学。 |
| 亀井勝一郎とともに新人会入会。 |
| 新人会は吉野作造の指導のもとに麻生久・宮崎龍介がつくった運動団体。 |
| 島野武(のち仙台市長)・大山岩雄・佐多忠隆・田中稔男・武田麟太郎・藤沢桓夫、大宅壮一とであう。 |
| 清玄はのち大宅にも世話になり、大宅文庫設立のときに拠出金を出した。 |
| 同年9月、日本共産党入党。 |
| 活動用のペンネームは〈山岡鉄夫〉(山岡鉄舟にちなむ)だった。 |
| 空手部にも入部。 |
| 渡辺政之輔からオルグの指導を受け、東京の第3地区委員長になる。 |
| 昭和4年東大文学部中退。 |
| 1928年の三・一五事件、1929年(昭和4年)の四・一六事件による党指導部の崩壊をうけ、モスクワから帰った佐野博と田中、前納善四郎(東京合同労組フラクション)が指導部を構成し、同年7月頃党を再建する。 |
| これ以降の3者指導下の党は通称「武装共産党」と呼ばれる |
| 1930年(昭和5年)1月、和歌山二里ケ浜で日本共産党再建大会。 |
| 田中はこれをきっかけに、コミンテルン国際連絡機関で中国共産党を経由したオムスのルートをつかって、資金・情報収集を始め、当時のコミンテルン執行委員会書記長並びにフィンランド共産党創立者オットー・クーシネン、四年コミンテルン極東部長カール・ヤンソンとも連絡をつける。 |
| 資金を得た田中は、党の武装化を進め、川崎武装メーデー、東京市電争議の際における幹部暗殺計画、車庫放火事件、中央メーデー暴動化、小銃弾薬類の略奪計画など数多くの暴動を既遂未遂した。 |
| 同年2月26日に和歌浦で共産党と官憲が銃撃戦になった和歌浦事件が起きる。 |
| 直後、清玄の母が自決。 |
| 遺書に「おまえのような共産主義者を出して、神にあいすまない。 |
| 自分は死をもって諌める。 |
| おまえはよき日本人になってくれ。 |
| 私の死を空しくするな」とあり、子のための諌死だった。 |
| 清玄は衝撃を受け、苦悶するも、活動を休止せずに、同年5月、田中は日本共産党代表として、バイオリストに身をなりすまし、コミンテルン極東ビューローのあった上海に渡航。 |
| 当時、周恩来がコミンテルン極東部長、アジア局長がクーシネン、極東担当はヤンソンだった。 |
| 同年7月14日、治安維持法違反で逮捕。 |
転向
| 1932年5月にはコミンテルンが32年テーゼを出し、「赤旗」1932年7月10日特別号に発表される。 |
| スターリンは日本の極左冒険主義を批判、当面する革命は絶対主義的天皇制を打倒するためのブルジョア民主主義革命(反ファシズム解放闘争)であり、プロレタリア革命はその次の段階であると位置づけた(いわゆる二段階革命論)。 |
| 1933年(昭和8年)6月、党委員長の佐野学と鍋山貞親が獄中で転向声明を出した。 |
| これは、ソ連の指導を受けて共産主義運動をおこなうのは誤りであり、今後は天皇を尊重した社会主義運動をおこなうという内容であった。 |
| 田中は「生涯で一番ぐらつき」、煩悶する。 |
| 同年、共産党活動家の小宮山ひでと獄中結婚。 |
| ひではのち石橋湛山の東洋経済新報社記者として上海に赴任。 |
| 尾崎秀実やアグネス・スメドレーと親交した。 |
| 「幕末に朱子学と水戸学派によって著しくねじ曲げられた天皇だけが神であるというような狭隘な神道もまた、満足できるものでなかったことは言うまでもありません。 |
| 毛沢東を絶対視した中国の文化大革命などは、私にとってはまったく気違いのたわごとにすぎませんでした。 |
| 八百万の神といいますね、この世に存在するあらゆるものが神だという信仰ですが、この信仰が自分の血肉の中にまで入りこんでいて、引きはがすことができないと。 |
| そうしてその祭主が皇室であり、わが民族の社会形成と国家形成の根底をなしているということに、私は獄中において思い至ったのです。 |
| 考えて考えて、考え抜いたあげくの結論でした」「私の転向は母の死によってもたらされた心中の疑念がしだいに膨れあがり、私の中で基層に潜んでいた伝統的心性が目を覚まし、表層意識に植えつけられたマルクス主義、共産主義という抽象的観念を追い出した田中自伝」。 |
龍沢寺と終戦工作
| 身元引受け人は内務省警保局長富田健治。 |
| 田中は明治神宮と皇居を拝したのち、5月1日に三島の龍沢寺の山本玄峰を訪ね、「自分の本当のルーツを発見して、マルクス主義や惟神(かんながら)の道などという狭隘で一神教的な道ではない、自分の本当に進むべき道を発見したい」と頼んだ田中自伝。 |
| 五・一五事件の法廷で井上日召の特別弁護人を引き受けたこともある山本玄峰は、刑務所で田中に法話をしていた。 |
| 田中に山本を紹介したのは血盟団事件に連座した四元義隆だった。 |
| ほか、龍沢寺には、鈴木貫太郎、米内光政、吉田茂、安倍能成、伊沢多喜男、岡田啓介、迫水久常、岩波茂雄ら多くの人士が出入りし、多くが軍部を批判していたという。 |
| また玄峰は谷中の全生庵でも法話を行い、三井の池田成彬や侍従の入江相政らも訪れた。 |
| 迫水久常は東条英機が老師に会いたがっていると言ってきたが、老師はその必要はないと断ったという。 |
| 3月25日、赤阪で山本玄峰は鈴木貫太郎と会談、「事態を収拾できるのはあなただ」と言った。 |
天皇への進言
| 当時は禁衛府長官だった菊池盛登がこれを読み、12月21日、田中清玄は生物学御研究所接見室に招かれ、昭和天皇に拝謁した。 |
| 石渡荘太郎宮内大臣、大金益次郎次官、入江相政侍従らも同席、小一時間、清玄は退位なさるべきではないことを懸命に申し上げたという『入江日記』。 |
| このことを聞いた安岡正篤が田中に会いたいと言ってきたが、田中は安岡や近衛文麿が嫌いだったので、断ったといわれる田中自伝。 |
実業家時代
| 当時は、産業の重点がセメント・肥料・農薬の“三白産業”が集中していた時期で、日本興業銀行の中山素平のアドバイスでそれらに関する事業を手がけ、収益をあげる。 |
| なお、このような戦前右翼活動を行ったものが戦後、経済活動に転換したものには、東亜連盟の山形県における西山農場、大東塾の大和公社、国粋大衆党の銀星デパートなどがある堀幸雄「右翼辞典」柏書房2006年。 |
| また、下山事件との関連が論じられている矢板玄の亜細亜産業にも顔を出していた柴田哲孝著『下山事件-最後の証言-』。 |
| 9月には、700人の青年行動隊を偽名で各発電所に潜入させ、同年末から翌1950年10月まで、東京から田中、風間丈吉、佐野学、鍋山貞親らを呼んでスト破りをおこさせたという山本英典、内山偉雄『中曽根康弘研究』1976年エール出版社。 |
| 赤阪氷川の勝海舟の屋敷跡を借りたり、朝日新聞の編集局長だった進藤次郎の屋敷で、日銀の法王といわれていた一万田尚登、民主党幹事長の苫米地義三、大蔵大臣の泉山三六などを招くなど社交にせいを出す。 |
全学連への資金提供
| 1960年(昭和35年)『文藝春秋』1月号に「武装テロと母全学連指導者諸君に訴える」という文章を発表。 |
| このなかで田中は「全学連の指導的立場の諸君!諸君の殆どが、日共と鋭く対立しつつ、新しき学生共産党とも云うべき共産主義者同盟を組織し、学生大衆運動の盛り上げに腐心して居ると聞くが、自分は三十有余年前、大正末期、未だ幼年期にあった学生運動を組織したものの一人として、更に、昭和三年(一九二八年)からは、日本共産党の指導的立場に在った者として、諸君の動向を目にし耳にするにつれ、諸君に訴えずには居られぬものを感ずる。 |
| 」と批判し、「政治と経済・文化を掌握して動かして行くものは、今日では最早、資本家でもなければ、プロレタリアートでもなくて、実に技術者を含めた経営者と称するインテリゲンチャーである」と訴え、全学連の安保闘争に共感を示しつつ、その限界を批判した田中清玄・大須賀瑞夫『田中清玄自伝』文藝春秋、1993年、ISBN4-16-347550-8。 |
背景
| 田中は岸信介や児玉誉士夫らとは敵対しており、当時反共体制を作ろうとしていた岸・児玉派(自民党の福田篤泰や児玉誉士夫や河野一郎なども含まれる)への対抗も含め、全学連に加担していた。 |
| 児玉は全国の右翼と博打打ちを大糾合する東亜同友会を組織し、山口組の田岡一雄や林房雄をつかって田中懐柔の手を打つが、失敗。 |
| 1963年(昭和38年)3月のグランドパレス事件を経て、児玉と対立していた田岡は、反児玉派の田中とともに、児玉らの東亜同友会に対抗して、1963年(昭和38年)4月、市川房枝、福田恆存、山岡荘八、菅原通済らを立て、麻薬追放国土浄化同盟『田中清玄自伝』文藝春秋、1993年、P.373と溝口敦、笠井和弘、ももなり高『実録山口組四代目・竹中正久荒らぶる獅子』竹書房、2003年、ISBN4-8124-5811-0のP.158(後の全国国土浄化同盟)を作り、キャンペーンを行った。 |
| 竹下、金丸、小沢と、こういう連中に牛耳られた自民党の国会議員は、いったいどうなんだ」として後に反論している『田中清玄自伝』。 |
| 同日午後6時9分、出版記念祝賀会が終了し、田中が玄関前で、タクシーを待っていたところ、東声会組員・木下陸男に狙撃された(田中清玄銃撃事件) |
| 供述で木下は、「町井久之会長が、田岡一雄組長の弟分になったが、10月ごろ『田中清玄が三代目山口組を利用して関東やくざを撹乱しようとしている』との風評がたったため、町井久之会長が非常に苦しい立場追い込まれると思い、襲撃した」とのべ、丸の内警察署は背後関係を疑い、町井久之を銃砲刀剣類所持等取締法で別件逮捕した。 |
オットー大公とハイエクとの親交
| 田中は池田成彬の紹介で、リヒャルト・クーデンホーフ=カレルギーと鹿島守之助と親交をむすび、ハプスブルク=ロートリンゲン家家長のオットー大公を紹介された。 |
インドネシア
| 通産大臣の田中角栄には「あんたを支えているのは両角良彦事務次官(オイルショックを切り抜けた通産官僚)と小長啓一秘書官(のちの『日本列島改造論』の実質執筆者の一人)くらいで、まわりはこのままだと岸一派にやられるぞ」と説得したところ、事業を承諾した自伝より。 |
アブダビの海上油田開発
| シェイクザイードはアブダビだけでなく同一種族のドバイ、アジマーン、シャルジャ、ウムアルカイワン、フジャイラ、ラスアルハイマ、オマーンなどの湾岸一族を共同体として考えていた(のちオマーンをのぞいてアラブ首長国連邦となる)。 |
北海油田
| 田中角栄が首相になってからは、北海油田の開発に関わり、日本が北海油田に参加して採取した石油をアメリカに渡す代わりに、アラスカのノースポール油田と、BP(ブリティッシュ・ペトロリアム)とエクソンが掘削中の油田に日本も参加させろというスワップ方式の提案を行い、BPのアースキン卿も賛同したが、事前に情報が漏れたため破談に終わった。 |
田中清玄関連の映画・オリジナルビデオ
| 『日本の首領野望篇』(1978年、東映)、岡山大造のモデルは、田中清玄。 |
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1932年
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コミンテルンが32年テーゼを出し、「赤旗」19... |
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1944年
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土木請負や造船業を始め、のちの神中組の基礎... |
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